第14章
「じゃあ、メイは腰が悪いの?」
化粧台の前で髪をとかしながら、ローラは疲れきった様子で、フランネルの寝間着に着替えている、トミーのことを振り返った。
「ああ。ドナルドの話ではどうもそうらしいね。人間と同じでもう年だから、食肉にしてしまう以外道はないと、そう冷たい口調で言われたよ」
「そう……でもおじさんたちはメイのこと、たぶん自然に死ぬまで世話をするんじゃないかしら。豚の中でもメイのことを、特別おじさんたちは可愛がっていたから」
「ああ、そう言ってたよ。メイは豚の中の豚だってエドおじさんが真面目くさって言うもんで、僕はつい笑いそうになったけど」
ローラも櫛で髪をとくのをやめて、くすくすと笑った。
「そうね。確かにメイはこれまで豚の女王さまだったわ。メイのお陰で豚舎はいつもたくさんの豚で賑わってきたのですもの。メイにかわる牝豚なんて……なかなか見つからないのに違いないわ」
「今日はきのうのあの寝間着を着ないのかい?」
トミーはローラから櫛をとりあげると、かわりに彼女の髪を梳きはじめた。
「ええ。なんとなく……着馴れないせいか、落ち着かない感じがするの。やっぱりこっちのほうが、しっくりくるわ」
ローラはいつも着ている白い木綿の寝間着を着ていた。ただし、エリザベスおばさんのように編みカラを巻いて、ナイトキャップをつけたりはしない。
「可愛いローラ……」
トミーはローラの黒絹のような髪をときすかすと、きのうと同じように、ローラの首筋に口接け、ベッドへと誘った。だが今日は、ローラはどうしても寝る前に話すべき事柄があった。それで、ベッドに横になる前に、彼の口接けを拒んだ。
「あのね、トミー。話があるの」
トミーは扇情的な愛撫をやめると、ローラと瞳をあわせた。彼の目にはある種の苛立ちが見てとれた。
「なに?まさかいまさら、戦争へいくんじゃないとか言うんじゃないだろうね?」
「ええ、そのまさかよ」ローラはきっぱりと宣言するように言った。「お願いだから考え直してほしいの。べつに……エメリン・ゴールディの予言を信じているわけじゃないわ。でもあのおばあさんの言うことが当たるのも確かなのよ」
「じゃあ、やっぱり信じているんじゃないか!」トミーは珍しく激したようにまくしたてた。「僕は、結婚を申しこんだ時に君に言ったろう?軍隊に入るけど、それでもいいかって。そしたら君のおばさんは交換条件としてローズ家で暮らすようにって言ったんだからな!」
「なあに?じゃあトミーはそのことが本当は不満だったの?だったらその時にすぐそう言ったらよかったじゃない。べつにあたしはいいのよ。フラナガン家で暮らしても。あなたのお父さんもお母さんも、とってもいい方たちですもの」
「……やめよう、ローラ」トミーは激したことを恥じ入るように、片手で額を覆って溜息を着いた。「とにかく僕は陸軍に入隊する。伯爵夫人のことなんて、僕には全然関係がないんだ。正直いって僕は――できればこんなことを君には言いたくないけど――豚一匹のことで一喜一憂したりとか、そういう生活を一生続けるのは嫌なんだ。でも君は僕に昔こう言ったね――僕がロカルノンで、不名誉な事件に巻きこまれた時――こんな都会で暮らしているから、警察に捕まるようなことになるんだって。確かにそれはそうかもしれない。でも僕は、本当は学校を卒業したあとも、あのまま街にいたかったんだ。べつに絵が駄目でも、勤め先なら、探せばいくらかあったろうからね――あと、君は僕の友人についてよくないと言ったけど、彼らはあの時はちょっと酔っていただけなんだ。普段はみんな、気のいい奴らなんだから。僕は君がもし――この家の農場や、裏の森のことなんかに執着していなければ――君と結婚して街で暮らしたいというのが本当の望みだった。そうだね。美術学校へ入学した時にはそういう野心があったよ。大画伯とまではいかないまでも、どうにか絵で食べていけるようだったら――なんとか君を説得して、その上で結婚していただろう」
「……ひどいわ。それがもし、あなたの本心なら……」ローラはショックのあまり、唇が震えた。「わたしがこの家から離れられるわけがないの、知っているくせに……だったら最初からそう言ったらよかったじゃないの。そしたら、わたし――わたし……」
「あなたとなんか結婚しなかったのにって言うのかい?」
トミーの傷ついた表情を見て、ローラは言葉を失った。目の奥が熱くなって涙があふれそうになったが、かろうじて自尊心によってこらえた。そしてトミーに背中を向ける格好で、ベッドに横になり、翌朝までその冷たい態度を崩さなかった。彼がなんと弁解しようとも。
「わかってほしいんだ、ローラ。僕はまだ若いし――農夫としてこのままおさまってしまう前に、色々経験しておきたいんだよ。でも、うまく言えないけど、そのことと君はべつなんだ――僕は君がここを離れられないって、よくわかってるよ。だから美術学校を卒業するのと同時に、村へ戻ってきたんだ。君のためなら、他のどんなことを犠牲にしても構わないって、今もそう思う気持ちに変わりはない。メイのことだって、大切に思ってるし、食肉になったら君がどんなに悲しむかわかってるよ。だからおじさんが屠殺しないって聞いてほっとしたんだ……頼むよ、ローラ……」
いくら甘い言葉を囁かれても、ローラは顔と体を背けたまま、トミーのことを徹底無視した。あたしのために――本当は街で暮らしたかったのに、帰ってきたっていうのね?そしてわたしのために、嫌々ながらこの家で姑や舅と一緒に暮らす気になったって、そういうのね?そして近いうちに――年内に――軍隊へ入るから、その条件でもよしとしたんだわ!なんてこと!それじゃあまるで詐欺じゃないの!
ローラはトミーの才能を信じていた――彼がいくら美術学校には他にもっと優れた生徒がたくさんいると言っても――彼が謙遜しているだけなのだろうと、そうとしか思わなかった。そうだ――彼の言うとおり、あの一見柄の悪そうな友人たちのつてでも頼れば、何がしかの仕事を見つけて、さらに肖像画を描いたりして、街で生計を立てるという道もあっただろう。それを自分が潰したというのか!だったらこの自分にだって言いたいことがある!
(ステファニー・ゴードンって、どこの誰のことなのかしら?)
ローラはどうしてもその言葉が喉まででかかって、真夜中に一度だけトミーのことを振り返ったが、その時には彼はローラに哀願することをやめ、ぐっすりと寝入っていた。しかも微かにいびきまでかいて!
ローラはトミーが――自分の夫が――朝から夕方まで農場で働いて、疲れきっているとわかってはいたが、この時だけは同情する気にはこれっぽっちもなれなかった。
――果たしてこれが、エメリン・ゴールディの予言と呪いなのであろうか?村にはエメリンにまつわる、様々な、嘘とも本当ともわからない、噂話が数多くあった。
クレイマー夫妻は結婚して二十年になるが、ふたりが新婚当初から不仲なのは、エメリンに結婚式の招待状を送らなかったためだといわれている。エノラ・クレイマーの母、ミランダはかつてエメリンとひとりの男を奪いあったことがあった――だがエメリンはミランダと当時婚約中だった男にすぐ飽きてしまい、彼のことを捨てたのだった。それがミランダの今は亡き夫、ジョージ・スティールであり、彼らのひとり娘であるエノラがマイケル・クレイマーに嫁ぐ時、エメリンは自分を結婚式へ呼ばないとおまえたちは一生夫婦喧嘩が絶えないだろうと予言したのだった。当然のことながらクレイマー夫妻はエメリンを結婚式へは呼ばなかったわけだが――懸命な判断として――確かにふたりはマイケルが花に水をやりすぎて駄目にしてしまったとか、エノラが自分の眼鏡の置き場所をちょくちょく変えると言っては喧嘩ばかりしていた。
ロチェスター村にはローズ家の他に、スティール家やウェブスター家、アーヴィング家など、村の開祖を持つ由緒正しい家柄の家がいくつかあるが、それらの家もまたエメリンによって予言と呪いを受けていた。スティール家とアーヴィング家にはその昔ちょっとした諍いがあり、エメリンがその間に割って入った結果、このふたつの一族は相手がスティール家、あるいはアーヴィング家であるというただそれだけの理由によって、赤ん坊ですら、相手と口を聞いてはいけないのだった。またウェブスター家も、もう二度とこの家には男の子が生まれないだろうと予言されて以来――本当に不思議なくらい、女の子しか一族には生まれなくなった。その他、収穫間近の時に嵐が猛威をふるえば、それはやはりエメリンのせいにされたし、農作物の成長期に雨が一滴も降らず、かんかん照りが続いた時も――それはエメリンのせいであり、村の中ほどを流れる川が氾濫したり、あるいは不気味に赤く濁った時にも――それはエメリンのせいとされ、また子供が行方不明になれば、エメリンが盗んでいったのかもしれないと、誰もが必ず一度はそう呟くのだった。
「とうとう、ローズ家もあのエメリンに呪われたらしいわね」
伯爵夫人が首都タイターニアへ帰った翌日、口さがない人々は早速とばかり、スミス雑貨店のカウンターに集まって、あれこれと噂話を交わした。
「あのばあさんが人前に姿を見せなくなって、一体何年になるだろうね?最後に姿を見たのは、ダニエル坊やが助かった時じゃなかったかしら?」
「ダニエル坊や!でも結局あの子も、肺炎で死んじまったけどね――エメリンが井戸に落ちてるから助けてやりなさいと言ったまではよかったけど――あの子のおっ母さんはあの事件をきっかけに、頭がちょっとおかしくなっちまったしね」
「そうさね。どうせ助からなかったのなら、あのまま死んでいたほうがよかったのかもしれないよ。ウェンディは半狂乱になって神さまに祈ったのに――あの子は助からなかったのだからね。ようするにエメリンは、神に祈ることがどれだけ馬鹿げたことかを人に思い知らせるためだけに、ダニエルが井戸にいると、あの白痴のノエル・ガードナーに教えたのだろうよ。最初は馬鹿の言うことだと、誰も相手にしなかったけど――マイク・マコーマックがもしかしたらということもあるからと、調べたら……」
チェスター夫人とスミス夫人、ハリス夫人がカウンターで顔を突き合わせていると、背の高い青年が三紙、新聞を買いにきた。トミーは直感的に自分の家のことが噂になっているのだろうと思い、無愛想にスミス夫人に
「ツケでも構いませんか?」と聞いた。
「ああ、もちろんね」スミス夫人は噂話の渦中にある人間がやってきたと思い、内心では舌なめずりしつつ、トミーにお愛想を振りまいた。「どの新聞にも大きく、あんたの可愛い花嫁さんの記事がでてますよ。他の新聞には戦争の新しいニュースのことが第一面にきてますけどね、ロカルノン紙には第一面にあんたたちの結婚のことがでてますよ」
「それはどうも」
トミーは無愛想な表情のまま、スミス夫人からタイターニア・クロニクル紙、デイリー・タイターニア紙、ロカルノン・ジャーナル紙の三つの新聞を受けとって、すぐに店をでた。
「あれが新婚の花婿のする顔かしらね?」とやや呆れ顔のチェスター夫人。
「さあて、早速何かあったんでしょうよ」とハリス夫人。
「何かって?」と興味津々といった様子でスミス夫人が聞く。
「そりゃ決まってるでしょうよ。喧嘩ですよ、喧嘩。新婚早々ね」
チェスター夫人が扇で顔をあおぎながらそう言うと、マイケル・クレイマーが店にどかどかと入ってきた。
「おかみさん、新聞くれ、新聞」
「どの新聞だい?」とスミス夫人はぞんざいな口調で聞いた。マイケル・クレイマーにはそろそろ、たまったツケを支払ってもらわなくちゃ。
「決まってるだろうが。ロカルノン・ジャーナルだよ。あれに小さくオレっちが、写ってるだからな。家に帰って早速エノラの奴に自慢してやらにゃあ」
やれやれとスミス夫人は思い、ロカルノン・ジャーナルを一部、マイケル・クレイマーに渡した。実は先ほどエノラ・クレイマーがやってきて、デイリー・タイターニア紙を一部、ツケで買っていったのだ――自分がそれに小さく写っている写真が載っているからと。
その日、スミス雑貨店では新聞がすべて完売した。そしてそれらのミネルヴァ伯爵夫人の村への訪問を伝える記事は――どこの家でも切りとられて、マントルピースの上などに長く飾られることになるのである。
トミーは馬の鬣を撫でながら、ひとつひとつの新聞に目を通していった。いつもなら、第一面の戦争の新しい情報を伝える記事にまず最初に目がいくが、今日ばかりは流石に『ミネルヴァ伯爵夫人、ノースランド州ロチェスター村を訪問』の見出しに目がいった。ロカルノン・ジャーナルの第一面である。
<ローラ・リーの祖母、イングリッド・ローズマリーのはとこでいらっしゃられるのが、現タイターニア陸軍大臣フランシス・ミネルヴァ伯爵の夫人、ミルドレッド・ミネルヴァさまである。ミネルヴァ夫人は親戚として、この度ローラ・リーとその夫となるトミー・フラナガンの結婚式へ出席。村人が総出で一丸となって伯爵夫人訪問に向けて、村の美観を推進し、半月足らずの間に沿道を花で飾ったり、また個々人の家や納屋などをペンキで塗り直したりした。ミネルヴァ夫人のこの度の御訪問の目的は、ローラの夫となったトミーが年内に陸軍へ入隊する予定のため、その激励もかねてのことであるようだ。ローズ屋敷で行われたミネルヴァ夫人のスピーチでは、トミーの勇気ある決断、またローラの妻としての支えに言及し、一日も早く隣国の平和が訪れるようにと訴えた……>
トミーは自分とローラの結婚式の時の写真が大きく掲載されているのを見ても、特にどうとも感じなかった。ただ、そこに写るローラの美しさには夫として喜びを禁じえなかったことだけは確かである。そうだ――彼女は本来なら、自分のものになったりするような人ではなかった。陸軍に入隊することをいまさらとりやめることはできないが、それでも、きのうの夜に言ったようなことは言うべきではなかったのだ。
他の新聞の記事にも軽く目を通したトミーは、それを持って御者台にあがり、葦毛の馬を出発させた。エリザベスおばやエドおじ、フレディおじが、この掲載記事を読んだとしたら――さぞかし喜ぶことだろう。
「おかえりなさい、トミー」
夕食の支度をしていたローラが、冷ややかに自分のことを迎え入れたのを見て、トミーは内心まだ怒っているのかと、疲れるものを感じた。彼女のことだから、この新聞の記事を読んでもそれほど機嫌を直すとも思えない。かといってあやまれば済むかといえば、ローラがそう単純な娘でないということは、自分が一番よく知っていた。
「……新聞に、僕たちの結婚式のことがでてるよ。エリザベスおばさんは?」
「頭痛がするといって眠ってらっしゃるわ。たぶん、これまでの疲れがどっとでたのよ。伯爵夫人が訪問されるというので、ずっと気を張りつめてらっしゃったようだから」
「君も、疲れたんじゃないか?」トミーは台所の片隅にあるソファに腰かけて、帽子を脱いだ。
「まあ、何故あたしが?」
豆のスープを一口味見しながら、ローラは新聞になど目もくれずに言った。
「その、色々結婚式の準備も急だったし……」
「そうね。どっかの誰かさんが陸軍に入隊するだなんて馬鹿なことを言うものだから」
トミーは深い溜息を着いたが、それがなお一層ローラの気に障ろうとは、思いもしなかった。
「もうやめよう、ローラ。僕は誰がなんと言おうと士官学校へいって訓練を受ける。君はそれをわかっていて僕と結婚した――そうだろう?」
「ええ、そうね。でもまさかあなたの色々な夢をわたしが潰してしまっただなんて、その時は知らなかったのだもの」
「ゆうべのことは……悪かったよ。でもローラにもわかっているだろう?僕は自分の夢なんかより――君のことのほうがずっと大切なんだよ。それじゃ駄目なのかい?」
「駄目ってことは、ないけど……」
ローラが意味もなく鍋をかきまわしているのを見てとったトミーは、ソファから立ちあがると、彼女のことを後ろから抱きしめた。
「ローラ、新聞を見てごらん。美しい君が、新聞の第一面を占めているよ。デイリー・タイターニア紙には君の大きな顔写真まで出てるしね。『悲しみの美しき花嫁』だってさ」
「そんな新聞、どうだっていいわ。伯爵夫人なんて――こんな辺鄙な村までこなければよかったのよ。確かに気どりのない、いい方でらっしゃったけど……あの方の御主人は陸軍大臣ですもの。兵士の数がなかなか集まらないので、軍の広報活動の一環なのよ、これも」
「そうかもしれない。でも僕たちは、こんなことくらいで駄目になったりするのかい?まだ結婚して二日にしかならないのに?」
「ええ、そうね。わたしも悪かったと思ってるの。昔からずっと――喧嘩した時にはあなたのほうがいつも折れてくれたっていうこと、よくわかってるわ。だから今度は自分のほうからって思ったんだけど……難しいわね。あなたはなんでもあまり根に持たないでさらっと流すほうだけど、あたしは色々考えてしまうのよ。根本的に正しいのはどっちで、間違っているのはどっちかとか、そういうこと」
「ローラは正義感が強かったからね、昔から」トミーは苦笑いしながら言った。「覚えてるかい?あの高慢ちきなアリシア・クロフォードが僕の描いた君の肖像画にインク壜を引っくり返した時のこと……君はそれを自分がやったと言った。わざとじゃなく、手が滑ったのだとかなんとか、先生に言い訳したね。あれは君がそう言ったから、ハワード先生も納得したのだと思うよ。もっとも――アリシアはそのせいでますます自分のことを惨めに感じただろう。あの娘が今も君に対して敵意を持っているのは、君が常に清く正しく美しかったせいだろうと、僕はそう睨んでるよ」
「もう忘れたわ、そんな昔のこと」ローラはストーブの前で顔を赤らめた。料理ストーブの熱気が台所にこもっているので、ローラはトミーから体を離すと、勝手口のドアを開けて、風通しがいいようにした――スープもできたし、あとはマフィンがこんがり狐色に焼けるのを待つばかりだった。
「トミー、きのうの夜、あなたの話を聞いて、わたしが思ったのはこういうことだったの――もしわたしがもっと早くにあなたの気持ちを受け容れていたら、今ごろはもしかしたらロカルノンの街でふたりで暮らしていたかもしれないって……それに学校を卒業した時、おじさんたちもおばさんも、わたしが上の学校へいくことを望んでいたのですもの――でもわたしはこの家から、裏の森から、どうしても離れたくなかった。一分一秒でもね。だけどもしわたしがそうしていたら――あなたが戦争へいくようなことになんて、決してならなかったかもしれないって……」
「ローラ」
誰しも、自分の恋人が泣くところを見るのはつらい。ローラも、泣きたくなどなかった。もしそれで、彼が気を変えてくれるというのであれば、いくらでも泣きもしよう。けれど、トミーは決して自分の意志を翻すことはないだろうと――ローラにはこの時、以前にも増してはっきりとわかっていた。
「ごめんよ、許してくれ。まさか君が本当に――僕のプロポーズを受けてくれるとは、思いもしなかったんだ。今もまだ信じられないくらいだ。君が僕の奥さんで、こうして僕のために、食事を作ってくれるだなんてね。べつに僕は――ローズ農場で暮らすことに、全然不満なんてないんだ。エドおじさんともフレディおじさんとも、小さな頃から知りあいで、気心も知れているからね。変な言い方かもしれないけど、僕はエリザベスおばさんに昔から気に入られている――そうだろう?だから一緒にいて、苦痛を感じたりすることはほとんどないんだ。村の人はおばさんのことを気難し屋だというけれどね。マーシーとはまあ兄弟みたいなものだし――そして君のように料理上手な美しい妻がいるにも関わらず、軍へ入隊するなんてね――確かに気違いじみてるのかもしれない。でも仕方がないんだ。他にもそういう青年がたくさん、志願兵として戦地に赴いている以上は――僕だけ逃げるというわけには、どうしてもいかないんだ」
「本当に、馬鹿だわあなたって」ローラは糊のきいた純白のエプロンの裾で、目尻の涙をぬぐった。「正義感が強いのは、わたしじゃなくて、あなたのほうじゃないの」
ふたりが勝手口で抱きあっていると、そこにエリザベスが杖をついてやってきた。アスピリンをとりにきたら、ふたりの話声が聞こえたので――そして途中で突然会話が途絶えたのを不審に思い、キッチンへ顔をだしたのであった。だがエリザベスはそのままそっと、杖をついて自分の寝室へいき、アスピリンを飲んで横になった。
(十年前に亡くなったエドワードの嫁がうちにいた時とは全然違うね――同じ新婚といってもさ。まあ、仲直りしたんなら、言うことは何もないけどね。あとは見て見ぬふりをすることさね)
そしてエリザベスはトミーがやはり陸軍へ入隊することになるであろうことに対して、深い溜息を着いた。これまではまるでよそごとだった戦争が、突然身近なものとなり、一日も早く――トミーが実際に戦地へ赴くようになる前に――この隣国の戦争が終わることを願わずにはいられなかった。
トミーが戦争から無事に戻り、ローラに赤ん坊が生まれるまで長生きするとしたら――自分は一体いくつになるまで生き続けねばならないだろうと、エリザベスは頭痛とともに考え、やがて短い眠りの中へと落ちていった。
「じゃあ、おじさんはエメリンの予言が本当に当たると、そう信じてるの?」
マイク・マコーマックはまだ五十代であったが、すっかり白くなった髪といい、目の表情を覆い隠しているもしゃもしゃした白い眉毛といい、外見上はすでにおじいさんといった感じであった。だがローラは昔からの習慣で、今もマックじいさんのことを<おじさん>と呼んでいた。
「あの女にはちょっとばかり、そういう能力があるのさね。千里眼とまではいかないまでも、人の将来のことがちょっとだけわかるのだよ。それと人の気持ちを読むこともできるらしい――だからあんな、人里離れた山奥に住んでいるのさ」
ローラが牛の乳搾りを終え、牛舎の掃除をしていると、マコーマックじいさんが先日のお菓子のお礼にと、ローラにバターやチーズやヨーグルトを持ってきた。もちろんローズ農場にもバターは十分あるし、チーズやヨーグルトだってある。だがマコーマックじいさんのそれは村一番という評判の味だった――どうしたらあんなに美味しく作れるのかと、ローラは昔からずっと聞き続けているが、じいさんは自分が死ぬ前に作り方の秘訣を伝授してやろうと言うばかりだった。
「つまり、どういうこと?」
ローラは干し草の山に、マコーマックじいさんと一緒に腰かけながら聞いた。マックじいさんはエリザベスが昔から苦手なので、決してローズ邸にあがることはない――そうでなければお茶でも飲みながら、ポーチの椅子にでも座ってゆっくり話を聞くのだが。
「おまえさん、不思議に思ったことはないかね?あの女は昔から、この村の動向っちゅうもんを実によく把握してるでな――なに、エメリンが村のことを知りたいと思ったら、新聞なんぞに目を通す必要はねえのよ。ただ川に岩魚釣りにでもきた奴や、山菜やらキノコやらを採りにきた連中に、軽く接触すればいいのだからね――あの女は本当に哀れな女さ。それで未来のある一部分が見えたところだけを、人に教えるのさね。それを教えたことによって相手がどうするかとか、どれだけ悩むかなんていうことに、あの女はこれっぽちも関心がないのだて。なんでかっちゅうと、そうやって自分の能力をひけらかすことによってしか、人と関われないのでな」
「じゃあ……わたしがおばあさんに結婚式の招待状を送ったとしても送らなかったとしても、あのおばあさんはトミーに忠告するために、山を下りてきたのかしら」
「おそらくはな」マックじいさんはぼうぼうに伸びた白い髭を撫でながら言った。「わしはただ、トミーに一言伝えてもらいたくて、今日ここへきたのだよ。わしはエメリン・ゴールディのことは嫌っとるし、憎んでもいるが、あの女の言うことが当たるのだけは確かなのでね。そんじゃあ、マーシーのこと、これからもよろしく頼みますよ、ローラお嬢さん」
マックじいさんはローラが森の秘密の場所で摘んだいちごをひとつ口にすると、いつものように腰を曲げた格好で、まぐさ臭い牛舎をでていった。そろそろじいさんにも杖が必要ではないかとマーシーが以前プレゼントしたところ、わしはまだそんなものが必要な年ではないと、激怒したとか……ローラは飼い葉桶にしきりと頭を突っこんでいる牛たちを眺めながら、
「一体、これ以上どうしたらいいのかしら?」
と、尻尾を振っている可愛い牝牛たちの体を撫でた。そして豚舎や鶏舎でエサをやったり掃除したりしている間も――時々、きのうの夕方や夜、ふたりきりになった時自分の夫がどんなだったかを思いだしながら、彼が四か月後にいなくなったら自分はどうして生きていかれるだろうと、ローラは心を悩ませた。