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第10章

 教会では、百五十名ほどの人が席に着き、花嫁の到着を今か今かと待っていた。祭壇の脇にある控えの間では若きヘンリー・レナード牧師が、膝をついて先程まで祈っていたのだが、彼は時計の針が十時半を過ぎてからというもの、どうにも落ち着かず、ぶるぶると震えながら結婚の司式の言葉をうわ言のように繰り返していた。

「……それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである……ぶつぶつ……汝、病める時も健やかなる時もこの男を伴侶としてお互いに助けあうことを誓いますか?……はい、誓います……汝、病める時も健やかなる時も……ぶつぶつ……」

「大丈夫ですか、レナード牧師」

 トミーは、自分より四つしか年上でない、この新任の牧師があまりにも気の毒になった。彼は大体のところ、村人の信任を得てはいるのだが、何分少しドジでそそっかしいところがあった。日曜礼拝の時に拝読箇所を間違えたり、いまひとつ的をえない、結局のところ何を言いたかったのかよくわからない、有難みを感じるのが難しいような説教をしてみたり……それは彼が極度に緊張しやすいためであると、村の者は誰もが見抜いていた。彼のことだからきっと、伯爵夫人が結婚式においでになろうとならなかろうと――あやまって「わたしは離婚を憎む」(旧約聖書のマラキ書、第二章十六節)などと場にそぐわない、奇妙な聖書箇所を引用してみたり、「汝は決して寝床を汚してはならない」(新約聖書のへブル人の手紙、第十三章四節)などと、トンチンカンな説教を突然しかねない心配があった。

「聖霊さまのお導きによって、牧師さんが失敗しないよう、わたしら一同祈っとりますよ」と祈祷会の帰り道に何度声をかけられたことだろう、とトミーは溜息とともに思い返す。

 トミー自身、一生懸命ということにおいては、何よりレナード牧師を尊敬していたが、それでも今「……メネ・メネ・テケル・ウ・パルシン……イヤアァァァ!」と額に脂汗を浮かべながら何やら異言らしきものを唱えている牧師を見ると、流石に心配になってきた。

 その時、脇部屋のドアがとんとんとノックされ、牧師夫人のシャーロットがうきうきした嬉しげな表情で、自分の夫に呼びかけた。

「あなた、花嫁のローラさんが到着しましたよ!そろそろ御準備なさったほうがよろしいのじゃなくて?……まあ、トミーさん!あなたの花嫁はこれまで村の人が誰も見たことがないほど美しくってよ。独身の男性がみな、嫉妬と羨望の眼差しであなたのことを見るでしょうね。トミーは世界で一番の幸せ者だって、みなさんそう仰っていてよ」

 トミーは蝶ネクタイを締め直すと、照れたように笑ったが、その上気した幸せそうな花婿の顔とは対照的に、レナード牧師の顔は青ざめて、今にも倒れんばかりといった焦燥感があった。

「あなた、気を強く持ってしっかりしてらしてね……なんといっても伯爵夫人が見えられているのですからね」

「伯爵夫人!」レナード牧師はせっかく忘れていた嫌なことを思いだしたように、その場に飛び上がった。「ああ、おまえ、わたしはもう駄目だ……わたしはきっと牧師になんか向いていなかったんだ。あなたもきっとそう思いなさるでしょう、トミーさん?」

 はい、ともいいえ、とも答えず、ただトミーはレナード牧師の言葉が耳に入らなかったようにぼんやりしていた。彼にとっては伯爵夫人の存在などどうでもよいことで、ローラの気持ちが今日この瞬間に至るまで変わらなかったことを、天なる神に感謝したい気持ちでいっぱいであった。

 ケイシーがオルガンで荘厳なミサ曲を弾きはじめると、レナード牧師は断頭台に引かれていく罪人のような気持ちで、垂れ幕の向こうへと意を決して一歩を踏みだした。新郎であるトミーがそれに続く……そしてシャーロットが小声で「あなた、お忘れものよ」と結婚の司式の儀について書かれた本を、夫に後ろからそっと手渡していた。

 トミーはそうした牧師のそそっかしさには一切頓着せず、また教会のすべての席が埋まり、後ろのほうに立っている客がずらりと並んでいるのも構わずに――ただ入口のところにだけ注意を向け続けた。

 やがて、三人の天使のようなブライズメイドを引き連れて、花嫁が登場すると、教会内がわっと歓声に包まれた。純白の花嫁はヴァージンロードをしずしずとゆっくりとした歩みによって進み、その顔の表情はヴェールによって隠されてはいたものの、あちこちで誰かが思わずほうっと溜息を洩らしているのが聞こえた。

 エリザベスもエドワードもフレデリックも、自分たちの姪が美しいのが誇らしかった。この日、初めてエリザベス・ローズが泣いているところを見たと、どこの家の食卓でも噂になったほどである――フレデリックの十年前に亡くなった家内の実家、ギルバート家では「鬼の目にも涙」とさえ言ったものだった。

(おお、エミリー!この晴れ姿を是非ともあんたに見せたかったよ……ローラは本当に素晴らしい娘に育った!そしてその伴侶のトミーときたら、心根のとても優しい好男子なんですからね!)

 エドワードもフレデリックも、感無量、といった思いで、祭壇の上の美しい花嫁姿の姪――いや、エリザベス同様、彼らにとってもローラは娘も同然であったが――を見上げていた。彼らの脳裏にはもうミネルヴァ伯爵夫人のことなどまるでなく、ただ走馬灯のように、ローラがサナトリウムから退院してローズ邸にきた時のことや、それからの学校生活のこと、ともに過ごしたクリスマスの出来事などが思い浮かぶばかりであった。

 この日、教会に集った二百名以上もの村の人たちはレナード牧師がどこかでとちったりしないかと固唾を飲んで見守っていたが、例の異言が効力を発揮したのかどうか、ローラとトミーの結婚式は万事滞りなくうまくいった。当然のことながら、この祝福されたふたりの婚姻に異義を差し挟む者などいるはずもなく、新郎と新婦は無事指輪の交換を終え、トミーはローラのてっぺんに真珠のティアラがついたヴェールを持ち上げると、誓いの口接けを交わした――ふたりにとって、この時があとから思い返してみても、幸福の絶頂と呼べる瞬間であった。

「おめでとう、ローラ!」

「おめでとう、トミー!」

「いついつまでも、末長くお幸せに!」

 教会の鐘が荘厳に鳴り響く中を、ふたりは村や町からやってきた人々に祝福されながら、馬車へと乗りこんだ。ローラが投げた白薔薇とカスミ草のブーケはマリーが受けとった――デイリー・タイターニア紙の記者はこの瞬間のローラを写真に撮ったものを、翌々日の新聞に掲載したのであるが、それはロカルノン・ジャーナルが載せたふたりが誓いを交わす瞬間のものよりも、笑顔あふれるいい写真であった。

 御者台の上で二頭の白い馬を御していたマーシー少年の祖父、マイク・マコーマックは、幸せなふたりを後ろに乗せながら、こう呟いたものである――「結婚ていうものは、こうじゃなくちゃいけねえ。これこそが本当に本物の結婚というものさね。なんだかわしにまで、ふたりの幸福が乗り移ってきたみてえだ」と。もっとも、この後ローラとトミーに降りかかることになる、幸福の絶頂の反対側の不幸をこの老人が知った時には、彼はトミーのことをむざむざ死ぬために戦争へいった、愚か者の花婿と評するようになるのであったが。


 天蓋なしの馬車の上で、ローラとトミーは言葉もなく、ただひたすらにお互いの幸福を分けあっていた。なだらかに続く牧草地や美しいしだれ柳のたれる橋の上、白樺並木の間などを馬車はゆっくりローズ邸に向けて走り抜けていく。

 芽吹いたばかりの新芽の樹木から、初夏の風にのって馨しい香りが届く……雲ひとつない水色の空も、銀色の太陽も、柳も白樺も楢の樹木も、道端に咲くスミレの花も黄菖蒲も、村中の何もかもが――世界中のすべてが、結婚したばかりのふたりを、祝福しているかのようだった!

「幸せすぎて、なんだか怖いような気がするわ」

 ローラが独り言のようにぽつりと呟くと、白い長手袋の彼女の手を、指輪をはめたトミーの細い手がぎゅっと握りしめた。

「僕たちは、これからもっともっと幸せになるよ、君が想像できないくらいね」

 トミーは自信たっぷりにそう言ったけれど、ローラはなんとなく不安だった。それはこれ以上もし自分が幸せだ、幸せだと口にだして連呼したなら、悪魔のような邪悪な霊的存在が聞きつけて、癇癪を起こすのではないかというような、漠とした不安だった。

 マコーマックじいさんはそんな幸せそうな新婚のカップルの会話を、鼻歌を歌いながら聞いていたが、その歌い方はまるで、自分には何も聞こえてこねえから、あんたたちいくらでもしゃべるがええ、とそう言っているかのようだった。

 ローラとトミーは、料理女たちが立食台の上に並べた目もくらむような料理の数々を見て、改めて驚いていた。ローラは人がまだこないうちにと思い、馬を厩舎に繋ぎにいったマコーマックじいさんに、ミンスパイやらサンドイッチやらフルーツケーキやらドーナツやらをバスケットいっぱいに詰めたものを、こっそり渡しにいった――マコーマックじいさんは人間嫌いで有名で、伯爵夫人がいようといまいと、パーティに出席するというような人柄ではないからだった。

「ありがとうよ、ローラ。でもおまえさんの美味しいアップルタルトやいちごのパイ包みなんかがないのが実に残念だね。わしゃあ、あれこそ伯爵夫人に口にしていただく一品だと思うがねえ!」

「だって、ジョスリンおばさんが花嫁が料理の支度なんかすることないって頑張るんですもの。でも早咲きのいちごを秘密の場所から摘みとって、今度いちごのクリームパイを作ったら、マーシーに持たせておじさんのところまで持っていってもらうわね」

「いやいや、ありがてえこって」

 甘党のマックじいさんは顔をほころばせて笑い、馬車に乗った招待客が到着したのに気づいたローラが、慌てて厩舎からでていくのを見守った。マックじいさんにとって嬉しいのは何よりも――美味しいお菓子を恵んでもらったということではなく、自分のように誰も気にかけない村の外れ者のことを、ローラが親切にしてくれるというその心遣いなのだった。






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