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第1章

       第一部 トミー・フラナガン


 ローラ・リーは自分が<カルダンの森>と呼んでいる森へ向かう途中であった。ローラの家はロチェスター村の外れにあり――彼女の曾祖父は名高きローズ家の生まれであった――そこは背後に幅の広い川と樅の林、青いアルクス山脈を遥かに控えた、風光明媚な土地柄であった。

 ローラは幼い頃に両親を結核で亡くし、自身もまた長くサナトリウムで過ごすという経験を持っていた。幼い頃過ごしたバルチュス地方のことを、彼女は今も忘れられない――大きな丸太小屋の家に炎を躍らせる暖かい暖炉、マントルピースの上に飾られた家族の写真や飼っていた犬のこと――何分、それは十歳頃までの記憶なので、その後彼女自身が自分の頭の中で美化したという可能性は否めない。それでもローラは、その頃自分は大層幸福で、なんの悩みも苦しみもなく、優しい両親のもとで暮らしていたと思っている。もう二度とあのような黄金の子供時代は戻ってこないのだと。

 その後、十四歳まで隔離された施設で過ごす間も、ローラはサナトリウムから七百マイルも離れた自分の故郷の景色を忘れたことはなかった。四年にも渡る療養生活ののちロチェスターの伯母の家に引きとられてから今に至るまで、一度もバルチュスにある昔の家を訪れたことはないが――実際のところ、今ローラがその家を訪ねたとしたら、なんというみすぼらしい掘っ立て小屋のことを、自分はレバノン杉の宮殿のごとく勘違いしていたのかと驚くことだろう――ローラの心の中でその家は今も生き生きと永遠の輝きを放ち続けていた。

 裏の林から秋には白鳥やマガンなどの渡り鳥がやってくる湖へ続く赤い道、父親や雇い人たちが毎年乾草作りをする牧草地や緩やかな丘で思い思いに過ごす牛たち、牧羊犬のジャッキーが羊の群れを囲いこむために吠える声――ローラの家は決して裕福な家ではなかったが、父と母はとても仲が良かったし、ふたりとも敬虔なクリスチャンで、秋に作物が嵐で全部駄目になった時でも、旧約聖書のヨブの忍耐のことを思い浮かべるような、そのような人たちであった。

 ローラ自身、家族から受け継いだ古い聖書を紐解くたびに、何度ヨブ記を読み返したことであろうか。父と母の、結核による呆気ない死、またサナトリウムで療養中も、容赦なく病いの手は残酷に隣人の命を奪っていった――それでもローラは聖書のいう神を否定することはできなかった。

「お願いよ、ローラ。わたしのために神さまにお祈りしていてね。きっとあなたのお父さまとお母さまもそれを望んでいてよ。ああ、死の手はなんと安らかなことでしょう。わたし、今はもうちっとも死ぬことなんか怖くないわ。おお、ローラ!そんな目でわたしを見ないでちょうだい。あなたはきっと生きるわ――それも樹々のように末長くね。そして<外の世界>へでたら、時々はわたしのことも思いだしてちょうだい。約束よ」

 同じ病気の親友のジュディスが亡くなった時、なんと運命とは残酷であろうとローラは神を呪いたくなった。ひどい、ひどい、ひどすぎる!こんなのはあんまり酷すぎる……父や母の命だけでなく、たったひとりの親友の命まで奪うとは、おお神よ!ジュディスは肉体だけでなく、心も清らかな、あなたに聖別されたかの如き娘でした……わたしの父や母もとても善良な人たちでした……もし殺すなら、もっと他に悪い人間がこの世にあるでしょうに!


   <ああ、神が奪い取ろうとするとき、

    だれがそれを引き止めることができようか。

    だれが神に向かって、

   「何をされるのか。」と言えよう。>


                (ヨブ記第九章十二節)


 ローラはヨブと三人の友人たちの問答を読みながら、その原理原則、神からの直接の答えを<理性>では理解していながらも――どうしても感情がついていかないのを感じた。だが彼女は二十一歳になる今日この日まで、キリスト教の神に対する信仰を捨てたことは一度としてない。何故なら、ジュディスの亡くなったその半年後に、サナトリウムから出る許可がローラに下りたからである。


   <わたしのほかに神はいない。

    わたしは殺し、ます生かす。

    わたしは傷つけ、またいやす。

    わたしの手から救い出せる者はいない。

   まことに、わたしは誓って言う。

  『わたしは永遠に生きる』>


         (申命記第三十二章三十九、四十節)


 自分がサナトリウムから出てロチェスター村に引きとられてきた時――ローラははっきりと、ジュディスの祈りが天に届いたのを知った。「神よ。わたしが召されても、どうかローラの命はお救けください」……それがジュディスが命を引きとる前の、最後の言葉だった。もっとも、ローラはジュディスの死に際に立ちあうことを禁じられていたので、彼女が柩に納められたのちに、その話を施設長から聞いたのであったが。

(おお、ジュディス!わたしはあなたのこと、決して忘れなくってよ。あなたの髪が蜜色で、絹糸みたいに滑らかだったこと、空を映す湖みたいに青くて澄んだ眼差しのこと――あなたはこの世で長く生きるには、あまりに清らかすぎたのよ。そして、わたしの両親も……)

 皮肉なことであったが、ローラが何故なんの罪もない――キリスト教のいう原罪でなしに――自分の両親やジュディスのような清らかな乙女が死ななければならなかったのか、深く理解できるようになったのは、サナトリウムを出てからのことであった。

 ロチェスター村のエリザベス伯母とフレデリック伯父、エドワード伯父さんは時々――本当にほんの時々――汽車で駅を九つ経過して、アルクス山脈の麓にあるサナトリウムまで見舞いにやってきた。母方の親戚であるこれらの人々は、ローラの死を願っていた。ローズ家は先祖から代々受け継いだ資産によって裕福であったので、結核にかかる治療費や何かを惜しんでいたわけではない。ただ両親をほとんど同時に失った可哀想な子供の将来のことを考えると――一緒に同じ墓に葬られることが、可愛かった妹の娘にとってもっとも良い神の思し召しであるように思われたのだった。

 療養生活の続いた四年の間、エリザベス伯母は一体何度「今夜が峠です」と医者や看護婦に言われて汽車を乗り継いでサナトリウムまで駆けつけたことだろう。

「あの子は大丈夫だよ。<今度も>また生き延びた」

 姉のエリザベスがボンネットを取りながらそうふたりの弟に伝えるたび、フレデリックとエドワードは内心複雑な思いだった。果たして<生き延びる>ことがあの小さな娘にとって良いことなのかどうか……いっそのこと、思いきってうちで引きとって、静かな最後を迎えさせてやったほうがよいのではないか……エリザベスもフレデリックもエドワードも、口にだして言うことはなかったが、お互いに同じ思いを抱きあっていることを知っていた。

 ローラは、エリザベス伯母とふたりの伯父にとって、妹の小さな頃に生き写しの娘であった。殊の他エリザベスは年の離れた妹のエミリーを可愛がっていた。それもそのはずで、彼らの母親であるエディス・ローズはエリザベスが十四歳の時に亡くなった。その時まだ赤ん坊だったエミリーのことを、彼女は母親にかわって育て、また躾けてきたのである。だがエミリーが船乗りのジャック・リーと結婚すると言った時には――心を裏切られる思いだった。

 エリザベスはエミリーのことを勘当し、エミリーはロチェスターから遠く離れた中西部でジャックと結婚式を挙げた。エリザベスは死ぬまでエミリーを許さなかったが、再び妹に瓜ふたつの娘と暮らすことになり――神が自分に罰を与えようとしているのではないかと怖くなった。またフレデリックにしてもエドワードにしても、鏡に映る自分の顔には皺があり、頭髪には白髪が混じっているにも関わらず――時間の螺子が巻き戻されたかのような錯覚を覚えることが度々あった。

 ローラはロチェスター村へきた当時、青白い顔をした弱々しい、華奢な体つきの子供だったが、二十一歳になった今では娘らしさが華開いて、求婚者があとを絶えないくらいだった。

「おばさん。わたし、どうしても結婚しなくちゃ駄目かしら?」

 脳卒中で倒れ、半身が麻痺した状態からどうにかこうにか不屈の意志でエリザベスが回復した時――ローラは窓敷居でうっとりと溜息を着くようにそう言った。もしこの娘がいなかったら――とエリザベスは考えただけでぞっとした。自分は今ごろ死んでるか、半身が麻痺した状態から奇跡的に回復することさえなかっただろう。ローラの献身的な介護があったればこそ、今は杖をついてびっこを引きながらでも、自分で用を足せるようになったのだから。

「おまえがいなくなるのは、確かに寂しいよ」エリザベスは揺り椅子に腰かけて編み物をしていたが、鉤針を動かす手を止めて言った。「でも、わたしも同じ間違いを二度犯すほど馬鹿ではないからね。ローラが心に決めた人と結婚するのなら、喜んで祝福するよ」

「ありがとう、おばさん」ローラは、窓辺から吹く優しいそよ風のように微笑んだ。「でもわたし――本当に誰とも結婚なんてしたくないの。わたしがここに来た頃のこと、おばさんも覚えているでしょう?」

「そうさね」エリザベスは眉間のあたりを軽く手で揉むと、銀縁の眼鏡をかけ直し、レース編みを続けた。「あんたの仇名は<もやしっ子>で、結核が移ると噂されては、子供たちみんなから敬遠されたんだっけね」

「そうよ。わたし、あの頃のこと、今も決して忘れないわ。なのに今度はダンスパーティへ一緒にいこうだなんて、調子がよすぎやしないかしら」

 エリザベスは思わず、くっくっと喉の奥で笑ってしまった。

「そんなの、子供時代の話だろう。男の子なんてみんなそんなもんさ。あんたを黴菌扱いしたあの子たちも、今は成長して立派な大人になった――こんな狭い村の外れに自分とちょうど年の釣りあう可愛い娘がいるんだからね、彼らがボーフラのように現れるのは無理もない話だよ」

 伯母が求婚者の群れをボーフラに例えたので、ローラも思わず笑った。娘らしい、春の訪れを知らせる、雲雀のような可愛らしい笑い声であった。

「でもね、おばさん。他の人はどうか知らないけど、あの時わたし、本当に深い心の傷を負ったのよ――もちろん彼らはそんなこと、すっかり忘れてるでしょうよ。もやしっ子がだんだん太って顔色もよくなったから、仲間に入れてやろうかなんて言われても――あたしとしてはあの頃の仕返しとばかり、彼らの手を思いきりつっぱねてやりたいわ」

「そうかね」エリザベスは揺り椅子を揺らし、果たしてどうしたものかと思案した。自分ももう七十だ――フレデリックとエドワードは六十七に六十五――正直なところ、ローラが早くいい人を見つけて農場を継いでくれたら、自分も安心して死ねるのだが。

「でもおまえさんにも、ひとりくらいいるんじゃないかい?仮に相手があんたの<崇拝者>じゃなかったとしてもね――気にかかる相手っていうのがさ」

「そんなもの、いませんわ」とローラは即座に答えたが、にも関わらず彼女の頬は薔薇色に染まっていた。

(おやおや)とエリザベスは、眼鏡の向こうから姪の表情を見、これは多分おそらくは……と考えた。自分の言うとおり、ひとりくらいは気にかかる相手がきっといるに違いない。

「じゃあ、おばさま。わたしちょっと散歩にいってきますわ。お夕飯までには戻りますから」

 ローラは窓を閉めると、さっとモスリンのスカートの裾を翻し、居間から出ていった。ひとり残されたエリザベスはマントルピースの上の家族の肖像画――もう四十数年も以前に描かれたもの――を見て、小さな溜息を着いた。

「エミリー、わたしもそろそろおまえさんのいる世界へいく日が近づいたようだ。だがどうか、わたしのことよりも、あんたのひとり娘のローラのことをよろしく頼むよ――あの娘がいい人と結婚して末永くこのローズ農場を切り盛りしていけるように……それさえ見届けることができたら、あたしは明日死んだとしても構わない」

 マントルピースの上に飾られた肖像画の少女は、まるで今のローラをそのまま生き映したかのようであった。おそらく、何も知らないお客人がその肖像画にふと目をやったとしたら――ここに描かれているのはローラ本人だと勘違いしたかもしれない。ただそうなると、椅子に座って優雅に微笑む彼女の後ろの背の高い人物エリザべスは誰か、またその隣のふたりの青年は何者かということになったであろうが。

「本当にエミリー、あの娘のことをよろしく頼むよ……」

 そう呟くとエリザベスは、膝の上にレースの編み物と鉤針を置き、短い間眠りの世界へと入っていった。近ごろよく、自分が小さかった頃、またエミリーが小さかった頃の夢を見る――そして目覚めてからこう思うのだ。おそらく自分は近いうちに二度と目覚めぬ永遠の世界へと入っていくことになるのではないかと。






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