私はもう人生の夢を見終わったのかもしれない。 (私の人生考察ノートより)
平凡にのみ生きてきた。
これといって晴れがましいこともなく
これといって切磋琢磨することもなく、
大抜擢されることもなく、
大左遷されることもなく、
無難な人生を送ってきた。
そうして気が付けば半世紀がたっていた。
そして職業人生には、、すでに、別れを告げた。
それからどうなるのか?
半世紀余の、人生の前半をかくも平凡に生きてきた私が、
これからどうなるものでもないことは火を見るより明らかだろう。
これから
突然、大抜擢されて、政治家になったり、
突然、大注目を浴びて時の人になったり、
突然、絶世の美女と大恋愛したり、
突然、莫大な財産を、相続したり、
すべて、すべて、ありえないことだろう。
ではどうするのか?
たぶん、、悟って、成仏するしかない?。のだろう?
おかげさまで半世紀以上も生きてきて、いや、生かされてきて、
世の栄枯盛衰、落花狼藉、毀誉褒貶、所業無常を拝ませてもらっては来た。
そしておかげさまで、それなり、世間知もついてきた。
もう、そんな、胡散臭い儲け話やら、純金ペーパー投資やら、ネズミ一家の会やら、カナリア真理教やら○○養殖投資やらのウソもうけ話・カルト宗教に騙されるほど
ぼんぼんの、世間知らず坊やでもない。
この世に上手い、もうけ話など皆無ということも嫌というほど
身にしみて知らされてきた。
突然、降って湧いたような僥倖が舞い降りてくるなんてことがありえないことも
よーく分かった。
そしてたとえ、いくら努力しても、報われないことがあまりに、
この世には多すぎることも、よーく分かった。
人生の不公平、不条理についても、身に知らされて分かった。
銀の匙をくわえて何不自由なく裕福な家に生まれくる子もいれば、
貧民街に刑務所暮らしの父と、薬物中毒の母の元に、生れ落ちてくる子もいる。
この二人の子に責任はあるまい。ただ、生れ落ちたところが違っただけ。
そう、人生って、はじめから、とんでもなく、限りなく、
不公平、不平等、不条理なのだと、
思い知るしかないのだ。
そして、平凡にのみ、この世に生かされてきた自分は、
それを私の運命と肯定し、
これからは、世の移り変わりをじっと見渡しては、
浮世に流されずに、上手に世渡りして、だましにも会わずに
うまく、三途の川までこのセカンドライフをたどり着きたいものだとおもうのである。
「露と置き露と消えにしわが身かな、浪速のことも夢の又夢。」豊臣秀吉の辞世である。
尾張の一農民から努力とそれ以上に幸運に恵まれて太閤にまでのぼりつめたひとの辞世としては余りにもはかない辞世では有る。
人生観についてだが、、
この人生、努力オンリーという人もいるし、いやいや、天意の幸運がなけりゃと言う人と大体、意見は二分する。
でも、、だれにも、「もしあの時」?という事があるはず、右に行くか左に行くか、最後の決断は、これは熟慮の上でも、結局は勘だ。
あの時あの会社に入っていれば、今の憂き目は見なかっただろうに。とか。
あの人とあの人であの人を選んで結婚していればこんな事にはならなかっただろうに。とか。
あのとき買っていれば大もうけできたのに。とか。まあ所詮取らぬ狸の皮算用。「あんたはこうなるしかなかったんだよ」とでも言うしかないわけだが。
それにしても、、世の中にはなぜか運の悪い人がいるものだ。女運が悪い人、男運が悪い人。しかし、それも自らの、不運の波長がそういった相手を自動的に選んでしまうんだという説も有る。
「父母に呼ばれて仮に客に来て心残さず帰る古里。」こんなふるい和歌も有る。
この世も所詮、仮の宿、仮の止り木。長く憩うべき場ではないのかも知れない。
「帰るべき梢はあれどいかにせむ、風を命の身にしあなれば。」瀧口入道の歌心や如何に。
私も60年から生きてきたが、その間、不思議な虫の知らせやら、天の声やららしきものから、助けられた事が1度や2度ではない。
10秒ほどの天機で死ぬべき交通事故から免れた事も有る。後10秒そこにいれば死んでいたというような、、。
「棺の蓋を覆うまでは、その人の人生が良かったとか悪かったとかいえない。」という格言が有る。
又、「末路哀れは人の常」とも言う。大財産残したってそれをしょって冥途までいけるわけでなし。
大豪邸を築いたって、寝るときゃ,一畳とも言う。大豪邸を背負って天国(地獄)までいけないのである。
庶民にとっても、そういう意味では、「浪速のことは夢の又夢」なのかも知れない。
人生はいたるところにカラクリや落とし穴が仕掛けられている。それを知恵と勇気と一寸ばかりの勘でわたっていくものなんだというサトリ。
「この人生なんて魂が見ている夢なのよ、」そんなことを言う女霊能者もいる。
酔生夢死も又人生なのかも知れない。
寝てみる夢もあればおきて見る夢の人生もある。
「夢は第2の人生である。」そんなこと言ったフランスの小説家 (ネルヴァル)もいたな。
夢の人生、人生夢劇場、、、それが真実なのかもしれない。
「有漏時より無漏時に帰る一休み、雨降れば降れ風吹けば吹け」 一休の歌と伝わっている。
すべては過ぎ去る。すべてはやがて終わる。人生も、青春の日々もやがて過ぎ去り、そして、終わる。情熱にあふれた若き日々もやがて老いさらばえて、養老院で老人と化し果てる。だがそれもこれもいたしかたのないことではある。宇宙の大循環でもある。永遠に枯れない造花は不気味ですらある。花は散るから美しい。
「見るうちに娘は嫁と花咲きてカカアと萎んで婆と果てなむ」道歌
それでよいのだ。永遠に若い女がもしいたらそれは怪談である。
天下を睥睨し、幾百万の人民の生殺与奪の権をほしいままにした古代の権力者の巨大墳墓はいまモグラとのねずみが巣作りをしているだけの土饅頭だ、そして、すべての人生行路上の出来事は,縁生因果なのかもしれない。
じりじりと照りつける真夏の太陽、人はそれが永遠に続くかに時として錯覚してしまう。
しかし、やがて太陽は、光を失い、白っぽく変色して、没し去ってしまうのだ、
そして、暗く寒い暗黒がやってくる。
だがそれもいたし方ない事でもある。
なぜって、永遠に続く夏なんてないのだから。
夏もあれば冬もある。
それがこの、人間世界である。
この世には
マザーテレサもいれば、ロシアの75人婦女暴行連続殺人鬼もいる。
悪魔1000人いれば,天使1000人もいる、それがこの、世界(現世)だ。
「天地の因果と受けて、この世をば,有り難してふ、心持て生く」道歌
いずれにしても、今ココに生かされている自分がいる。これは紛れもない事実だ。
人は自分で生きていると思っている。それが大きな間違い。私はこの60年の人生で、何の罪科もない友たちがある日あまりにもあっけなく死んでいったのを目撃している。
善人が困窮し無残に死ぬ。
彼は死し、我は生かされている。
そしてそれはなぜかと考えた場合、何か、大きな力、神力、神慮、一なるもの、が働いているとしかおもえない。
そこに宗教が生まれる大前提がある。
ある人はそれを、神と呼び。またある人は、それを、守護霊とよぶ、あるいは、観音様というひともいる。その、何かによって今生かされている、つかの間の三次元放光水銀電燈たる自分が存在する。それは今にも風で吹き消されそうだ。というか、つかの間の光を放ったら、すぐ消えてしまう存在でもある。そんな、「人工蛍」のような私たちは、つかの間の生を謳歌して次の階梯へ旅立っていく。私はそういう風に、覚り、そして、解脱している。
あなたにも私にもいずれは最後の時が来る。
人生は夢でもある。
うつつに見る夢、
それが人生だろうか?
人は皆いつか全て全員が死を迎える。
王侯貴紳も名もなき民も、これだけは平等だ。
そのとき、財産も、豪邸も、愛する人々も、全てとお別れしなければならない。
そして、丸裸で、閻魔大王の前に、引き出されるしかないのだ。
幼き日、親しかった友がいた。
その後その友とは進路も違い、離れ離れになってしまったが、
先日、風の便りに、すでにして40代で癌で亡くなったと知った。
やさしい友だった。
高校時代仲良かった友がいた。
剣道に打ち込む友だった。
ある日、校庭で、走っていて急に倒れ、急性心不全で亡くなってしまった。
余りにもあっけない死だった。
大学時代、部活の同好会で親しくなった友がいた。
男気があり、良い男だった。
ある日、アルバイトの帰り、歩いていて倒れて、ガードフェンスに頭をぶつけて、
打ちどころが悪くて即死だった。
就職して、気の合う友が出来た。
よく行き来して、彼の結婚式にも招かれた。
そんな、彼が、35歳で胃がんに罹り、
3ヶ月入院しただけでなくなってしまった。
葬儀は奥さんの涙で私は見ていられなかった。
と、
このように、
いろんな死がある。
どこで死ぬか分からない。
でも、いつか人は必ず死を迎える。
現世の争いも、いがみ合いも、ねたみも、そのとき消える。
そして人は永劫の眠りに就くことになるのだ。
お金もそのとき虚しくなる。
名誉も消え去る。
権力も潰える。
そうだ、この世は夢なのだ。
いつの日か夢から覚めて、
玲瓏たる、天上界の気団に包まれて、やっと、
人は、その浮世の虚しさに気付かされるのであろう。
この世は、この人生はやがて終わることを、人間だけが知っている。
動物も昆虫も魚たちも恐らく自分の一生がやがて終わることを知らない。
昔から偉人たちは、「この世は魂が見ている夢のようなものだ」といってきた。
確かに人生は不確かで当てにならない。
今こうして元気でも明日は事故に巻き込まれて死ぬかもしれない。
まことに、頼りない人生である。
私は時々不思議な感覚にふいに囚われることがある。
それは、、、前触れなくやってくる、
それは、とつぜん、神経がすーっと、ペパーミントの香りに研ぎ澄まされて、
脳が中空状態になり、遠い過去の思い出のようなものがふわーっとよみがえるのである。
ただ、その思い出というのが、実際のことなのかそれともデジャブなのか、判然としないのである。実体験の現実の思い出ではないのである。が、、妙に現実味を帯びている、、。
しばらくその思い出はただよい、また、ふーっと消えていく。
そして私は再び現実に戻る、、。
それは懐かしい遠い、子守唄のようだ。
何かがある。何処の時代かは分からない、
そこで私は何かをしていた?
何か大事なことをを忘れているような、
でも、、ああ、思い出せない。
それが思い出せたら私の人生が大転回するかもしれない。
そう、それは前世の記憶と言っていいのかもしれない。
これはおそらく、遠い記憶。思い出ではなく恐らくそれは「前世の記憶」なのだろう。
でもどこなのか、だれなのか、、思い出せない。
だめだ、
おぼろでつかみどころもない。
そうしているうちにも、
ペパーミントの脳のしびれは緩やかに消失していき、
再び現実感が戻ってくる。
一瞬の遊離体験?
遊魂体験?
そう、でもそれは不意にやってきて、また不意に消えていく。
とらえどころもなく、定かでもない。
それが分かったら、それが何かがわかったら、
私は生まれ変われるのに、
真理がわかるだろうに、
分からない、どこの時代なのか、
私は何をしていたのか、
分からない、だめだ
でも?
この現実感のこの人生だって
あまりにもとらえどころのない
夢体験といってもいいものでしょう。
そう
たぶん、、
そこで私は「現実」という夢をみさせられていたのかもしれない。
その現実という夢の世界で私はさらに他次元の夢をふっと何かの拍子に
見させられる、
それがさっきのようなペパーミントの夢、、つかの間の遊離体験なのかもしれない、
たぶん
私はそこで別次元の人生という夢を見ていたのかもしれない?
いや
もう
実は私は人生という夢を
ほぼ
見終わったのかもしれない、、、。
そうして
さらにもっと別の夢を見るために
この現実人生という世界にもお別れしなければならない時が迫っているのかもしれない。
そう
たぶん、
あらゆる意味においても
私はもう
この人生という夢を見終わっているのかもしれない、、、。
「いくつもの夢の迷い路たどりきて心安らに帰るふるさと」 鬼佛庵 餓鬼老人 自詠
付記
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