馬鹿には見えない
「即興小説トレーニング」様で書かせていただいたものを、見直しし、少し削りました。
お題:限りなく透明に近い悲劇 制限時間:30分
とても、楽しゅうございました。
馬鹿には見えない衣を纏った王様の童話がある。
みんな、王様が裸にしか見えないのだが、馬鹿だと言われたくないので、見えない衣を褒めたたえるのだ。
「凄い、なんて官能的かつのびやかな服なんだ、王様は違うね」
「まあ、官能的と言うか、素肌のつややかさを活かしているというか、何と表現したらいいのかね」
……。
そんな童話を思い出している。
職場の昼休みだ。
愛妻弁当を開いた俺は、絶句した。
マイガー。
弁当箱は、どう見ても空であり、くまちゃんの絵がついたメモが一枚置いてあった。
「これは、馬鹿には見えないお弁当です」
丸っこい、頭悪そうな字で書かれてある。
妻の手紙である。
俺はその、女子中学生の字みたいな手紙を眺めた。
昼のオフィスは、静まり返っている。
外に食べに出て行った者もいるが、弁当を開いている者もいる。
この俺が――社内ではデキる男として光っている俺が――どんなミスも許さない俺が――容姿端麗かつ頭脳明晰で、美人の妻を持つ俺が――こんな、あほな嫌がらせを妻から受けているという事を、周囲に知られるわけにはいかないのだった。
もしゃもしゃもくもくと、オフィス居残り組の連中はひたすら弁当を食っている。
俺だけだ、弁当に箸をつけていないのは……。
(気取られてはならぬ)
その思いだけで俺は、限りなく透明な弁当をつつき始めた。
幻の卵焼きを摘まんで口に入れて咀嚼する。
ハンバーグと、プチトマトと、ポテサラも。
できるだけ旨そうに食べねばならない。俺の妻は美人な上に料理上手と評判なのだ。
もしゃもしゃ、あぐあぐ、ごっくん、もりもり。
馬鹿には見えない弁当。
限りなく透明に近い――というより、まるきり透明な――ご馳走を、俺は意地になって味わう。
そもそも、どうしてこんな悲劇が起きたのか。
美人だが、ちょっと頭がお花畑の妻と、頭脳明晰の俺は、時々話がかみ合わなくなる。
俺にしてみれば、どうしてこんなことが分からないのかと信じられない。こいつは本当に義務教育を受けた日本人なのかと疑いたくなる。
どうも昨晩は、それを表面に出しすぎたらしい。
いつもはにこにこと、俺の「馬鹿だな」を受け流す妻も、昨夜に限り、ぶすっとした。
いきなり沈黙し、ベッドに入っても背中を向けて寝たふりをされた。
まあ、馬鹿の妻だから、寝れば忘れて機嫌が直っているだろうと思っていたら――これは、馬鹿には見えない弁当です――見事に、復讐されたわけだ。
もぐもぐもぐ。
見えないサラダを噛んで飲んで。
(あなたは頭が良いんでしょ、あたしはどうせ馬鹿よね)
妻の声が聞こえるようだ。
もぐもぐもぐ。
佃煮が乗ったご飯も、鮭の焼いた奴も、みんな噛んで味わう。
妻よ。
妻よ。
周囲はそろそろ弁当を食い終わり、げっぷをする奴もいる。
腹が鳴った。
(妻よ、悪かった)
俺は透明な弁当を食い終わり、つつみ直して、せめてコーヒーでも飲もうと立ち上がったのだった。
ここまでしても、奥さんの思いは伝わらないんでしょうね!
(でも夫婦はなんとなく円満。時々けんかはするけれど……)