トリスとセーラ その六
随分長らくお待たせしてしまいました。
お楽しみいただけますと幸い。
世間は立太子式の準備と噂で賑わっている。
そういう時、仕事もなく、訪れる人もいなくなり、閑散とするのがここ、王室史編纂室である。
唯一の編纂室員であり、かつ室長でもあるベアトリクスはペンを片手にぼーっと空を見上げていた。
「降りてこない……」
暇な時間は大歓迎である。
とある内容の空想が捗るから。
しかし普段は盟友とも言えるセーラとのお喋りでどんどんと話を膨らませてきたトリスにとって、そのセーラが忙殺されて編纂室に近寄ることもできないとなると、大変ゆゆしき問題であった。ありきたりな展開しか浮かばず、自分の心がときめかないから先へ進まない、という体たらく。
遠くに教会の鐘を聞き、お茶の時間と知るも、セーラがいないからお菓子の用意も面倒くさい。
「何か気分転換できること、ないかなぁ」
行儀悪くイスを斜めに倒して、両足を精一杯伸ばす。背もたれに沿って大きく背伸びしたところで、パキンと枝の折れる音が聞こえた。
すわ、来客! と思った瞬間、床についていたイスの二本の脚が滑った。
ズベッターン! という派手な音と「うぎゃっ!」という間抜けな悲鳴が響いたのは、ほぼ同時であった。
「何をしているんだ、おまえは」
腕組みをして自分を見下ろす男を、トリスは真下から見上げつつ、にへらと笑った。
「ようこそ、我が編纂室へ」
無表情なまま腕を組み、トリスを助ける気がさらさらないとわかる男は、トリスの言葉に大きなため息をついた。
仕方なくトリスは自分で立ち上がり、イスを戻して、服のホコリをはたはたと払う。
その間、男は偉そうに腕組みしたままだ。
ブルーグレイの巻き毛を短く刈り込み、黒に近い濃紺の瞳は厳しく眇められてトリスの行動を逐一検分しているようだし、薄い唇は険しさをたたえたまま横線一本で閉じられている。文官とは思えないほど鍛えられた体躯は、窮屈そうに外務官の衣装に収まっていた。
トリスははっきり言ってこの男、ルーカス・ハンフリーが苦手だ。
同期で同じ外務官でスタートした時から、できれば距離を置きたい相手だ。
何故かというと……。
「トリス、外務官に戻ってこい。あの時の屑上司はもういない。今なら俺の部下にしてやる。
おまえの能力がこんなどうでもいい部署で埋もれていくのは、我が国の損失だ」
こういうことを言うからである。
「前から言っているけど、編纂室はどうでもいい部署じゃない。国にとって必要な重要な部署だよ。
ただ、人数を割く必要がないから弱小部署に甘んじているだけで」
来客用のテーブルとイスを整え、ルーカスにイスを勧めてからお茶の用意を始める。
その様を、ルーカスは非難を込めるように睨みつけていた。
やりにくいことこの上ない。
「おまえの能力は貴重だ、トリス」
「魔力至上主義のこの国で、私の何が貴重なんだか」
ティーカップをテーブルに置くと、その手首をしっかりと捕まれてぎょっとする。
「それが間違っているんだ。魔力量で決めた地位に無能者が居座っているのがおかしい。
おまえの記憶力、物怖じしない態度、臨機応変に動ける才能、どれをとっても外交官に相応しい」
ギラギラと輝く目が、トリスを動けなくする。
ルーカスは出会った頃から、トリスの能力を過大評価する傾向にあった。
元々、トリスは編纂室配置希望であったが、編纂室は一人か二人しか配属されない弱小部署。官僚成り立てのトリスが配属されることはならず、それまでの一時しのぎとして外務官僚になっていたのだ。
トリスに言わせれば、ルーカスの方が外務官僚として高い能力がある。
堂々とした体躯は各国の主賓を招いても見劣りせず、だからといって出しゃばることもなく、広い見識と適材適所で他者を配置できる能力は国賓クラスの晩餐会でも遺憾なく発揮された。
あくまでも場つなぎの外務官僚として勤めるトリスにとって、ルーカスは羨ましいほどに輝いて見えたものだ。
自分も早く、最も望む場所で、最も相応しい能力を使い倒したい。自分の居場所は外務ではない。
日々の焦燥が意味もなく苛立たしさをかき立てていたあの頃。
この男を見る度に、あの頃の鬱屈した思いが蘇り、気分が沈む。
「……そんなことを言いに、この忙しいさなか、編纂室まで来たの?
そっちはよっぽど人材不足なんだね。
生憎、私はこの部署を愛している。私が存命である限り、誰にも渡さない気満々だよ。
話題がそれだけなら、早く戻った方がいい」
自分の仕事を愛するのはかまわないけど、それで他人の仕事を軽く言うのはやめて欲しい。
そんな言外の批判を込めてルーカスを睨みつけると、男はふん、と鼻を鳴らしてトリスの手を離した。
「おまえの顔を見ると言いたくなる定型文があるだけだ。今日の話題はそれではない」
顎をしゃくって、向かいのイスに座るよう、トリスに促す。
この部屋は誰のものだと思っているのか。
トリスは片頬をひきつらせながら、真向かいのイスに座った。
だが、肝心のルーカスが口を開こうとしない。
仕方なくトリスは、自分で入れたお茶で口を湿らせた。
「噂を聞いた……」
しばしの沈黙の後、ルーカスが視線をあちこちの書架に彷徨かせながらそんなことを言い出す。
「噂?」
何の噂だ。誰の噂だ。
一人っきりの部署にいると、他の官僚達の噂には疎くなる。
セーラがもたらしてくれるのはメイドの噂だ。
ルーカスが聞き及んだ噂と言うのに皆目見当もつかず、トリスは二口目のお茶を口に含む。
「おまえが……同年代や年下とも見合いをすることにした、という」
「ぶっ! げほっ!」
お茶が気管に入った。
ルーカスが驚いたように目を見開いて、慌ててトリスの脇にやってくると、背中を叩き出す。
「大丈夫か?」
叩かれる背中も痛いし、咳も止まらないしで、トリスは涙目になってルーカスを見上げたが、その様に何故かルーカスは顔を赤らめて背けた。
「わ、悪かった。そんなに驚くとは思わなかったんだ。
ただ、おまえが年上漁りをやめたと聞いて、慌てて……。
だ、大丈夫か?」
より激しく咳込むトリスに、さすがにルーカスも心配そうにする。
トリスは、強すぎるルーカスの手を止めさせ、ハンカチで顔を拭うと、残っていたお茶を勢いよくのどに流し込んだ。
「な、何よその噂! 誰が年上漁りしてたって?!」
不機嫌にイスに座り直したトリスに、ルーカスの方が今度は居心地悪そうに体を反らす。
「知らなかったのか? おまえに見合いを持ち込むと、年齢ではじかれるって噂だ」
なるほど、とトリスは自らの胸元で拳を固めた。
次に会ったら、やはりテッドを痛めつけねばなるまい。
「それは誤解よ。先日、家族との間にあった深くて大きな誤解がようやく解けたところよ。
私……年上漁りなんてしたつもりもなかったわ」
何とか平常心を心がけ、説明する。
ルーカスは眉間に濃い皺を寄せ、そうか、と答えた。
「そんな噂があったのも、最近の噂も全然知らなかったわ。わざわざ教えに来てくれてありがとう」
持つべきものはちょっぴりお節介な同期だな、とトリスは心から思った。
そんな噂が出回っていたなんて知らずにそこら辺を歩き回っていたなんて、空恐ろしいことだ。
まぁ、知っていたから何だ、とも思うが、やはり心構えが異なってくるだろう。
王立図書館に行った時に、やたら老齢の司書官ばかり近づいてくる理由も、何となく察せられた。
あそこも出会いがないからなぁ、と納得する。
そんな風に、トリスが心を少し遠いところに飛ばしている間、ルーカスは何故か深呼吸を繰り返して、イスの上に居住まいを正していた。
その奇妙に緊張した空気に気づいて、トリスはルーカスを見やる。
「どうしたの?」
「いや……つまりだな……」
空になったカップを持ち上げ、何も入っていないはずのものを飲み干し、ルーカスは真正面からトリスを見つめた。
「うん、つまり?」
トリスが小首を傾げ、ルーカスが伸ばした手をテーブルの上のもう一人の手に重ねようとした……。
「ベアトリクス! 一体これはどういうことですか!」
ぎょっとしたルーカスの動きが止まり、トリスは開け放たれたドアに立ちふさがる黒い陰に目を細める。
「あら、テッド。どうしたの? 今日はお客様が多いのね」
「どうもこうもありません! あなたは! 私のマントに! 何をしたんですか!」
テッドの手には豪華な真紅のマントが握りしめられている。
「ちょっとぉ、折角、皺一つなく丁寧に畳んだんだから、そんな持ち方しないでよ」
「そういう問題ではありません! これです! これは何ですか!」
テッドはマントの端っこをばっと広げてみせる。
マントの裏地に、目立たぬよう赤い刺繍糸で、可愛らしい熊が笑っていた。
「あぁ、それ? 可愛いでしょ? お姉さまが手ずから刺繍してあげたのよ。ありがたく思って」
「そういう問題ではなく! 私は近衛四番隊の副隊長ですよ? 威厳というものが! 普通、こう言った貴婦人の刺繍というものは、ハンカチなどで渡してくれるものではないのですか?」
「ハンカチに刺繍って、そういうのは恋人に求めなさいな」
呆れたように言うトリスに、一瞬気色ばんだテッドはさらに何かを大声で言い募ろうとして、初めて第三者の存在に気づいた。
「……そちらは、一体?」
一転して落ち着いた、と言うか、不自然に低くなった声に気づくこともなく、トリスはテーブル越しの男を手で指し示す。
「前にも会ったことあるじゃない? ルーカスよ。外務官の」
「えぇ、存じておりますが……。お忙しいはずの外務官殿がどのようなご用件でこちらに?
あぁ、お仕事ですか?」
綺麗に整った顔に氷の笑みを浮かべて、テッドがメガネをくいっとあげる。
ルーカスも不適な笑みを浮かべてテッドを睨みあげた。
「ヒヨッコが近衛隊小隊の副隊長ねぇ。トリスの尻を追いかけていた頃しか知らないが、随分と偉くなったものだな」
視線が絡み合い、ビシバシと火花が散った。
片やメガネに美貌の近衛隊、片や男盛りの口の悪い文官。
二人の見つめ合いに戸惑ったものの、不意にトリスは雷に打たれたかのような衝撃を感じた。
なるほど、そうか、そうなのか……。
確かに、かなり以前に二人を引き合わせたのはトリスだ。
この忙しいさなか、こんな人気のない場所で偶然、滅多にやってこないはずの二人が顔を合わせる、そんなことがあるだろうか?
いや、ない!
トリスは固く拳を握った。
自分の不明を呪った。
そして、心に誓った。
「ごめん、二人とも……」
「「は?」」
にらみ合っていた男たちは、唐突な謝罪に驚き、トリスを見た。
トリスは俯き、震えていた。
「ベアトリクス! どうしましたか? まさか、この男に何か?」
「トリスはおまえが来た途端、こうなったんだ。おまえが何かしたんだろう!」
二人がトリスに詰めより、互いを指さす。
そのそれぞれの手を、トリスは優しく両手で包んだ。
慈母の笑みを浮かべて。
「私、何も気づいていなかった。いや……これからだって気づかないようにするから。
確かに世間の風当たりは強いけど、応援する。
知らんぷりした方がいいなら、そうするから。
大丈夫、安心して。
編纂室は、絶対中立を貫くよ」
「「は?」」
呆気にとられる二人を後目に、トリスはこぼれ落ちる鮮やかな笑顔を浮かべ、部屋を出ていった。
「暫く戻らないから、……ベッドも……好きなように使っていいから! でも後かたづけはしておいてね!」
そう言い残すと、脱兎のごとく走り去る。
「「は?」」
残された男二人は、呆然と立ち尽くすしかなかった。
「でね、でね!」
興奮してまくし立てるトリスに、セーラはにこやかに言った。
「いいから手を動かして! ここに来た以上、仕事していけ!」
メイドのお仕着せに身を包み、トリスは恍惚としながら床磨きに精を出す。
それを見下ろし、窓を拭きながら、セーラはゆるみそうになる口を抑えきれずにいた。
ルーカスに噂を流したのも、テッドのマントにお礼の刺繍を入れさせたのも、正解だったな、と思いつつ。
気分転換の下手なトリスによいものを書かせるには、適度な刺激を外部から与え続けることが重要だ。
あの二人には悪いが、セーラもまた、自分の欲望に忠実な質なのだ。我慢してもらおう。
「わかったから! 口と一緒に手も動かす! あと、それ、忘れないようにしてね! 新刊、楽しみにしてるから!」
「んふふ~♪ 了解~♪」
編纂室はいつだって平和の象徴なのだ。