トリスとセーラ その四
『自分によく似た顔はしかし、自分とは全く違う表情を浮かべている。
ほの暗い愉悦。
白い手が伸びて、彼の頬に触れた。
「あぁ」と彼は吐息した。
その息を飲み込むように、唇が重ねられる。
息苦しさに開いた口の中に、なま温かい舌が忍び込んできた。
「あ……く……」
苦しいと呟こうとしても、言葉ごと唾を飲み込まれる。
意識に霞がかかり、体から力が抜けた。
同じ背格好なのに、しっかりと支えられ、そのままベッドに横たえられた。
狂おしく空気を吸い込んでいると、大きく上下する胸を手が這う。
大きく開かれたシャツの中に、黒く艶やかな髪が揺れていた。
「なん……で?」
両腕はまとめて頭上に縛られた。身動きも満足に出来ず、指が触れる場所から溢れ出た快感を逃がす術もない。
同じだと思っていた暗く青い瞳には、情欲の炎がともっている。
赤い唇が、ゆったりと弧を描いた。
「だって、……逃げようとするから……」
一言語る度に……』
「出来た! 出来たわ!」
自然と歓喜の声が湧き上がる。
王子✕王子! 三人称のシーンで始まりつつ、最後に一人称のベッドシーンで話は終わる。
最後まで読んでも、どちらからどちらへの狂愛かわからなくした。
そのほうが、購入希望者が増えるから!
セーラがリサーチしてくれたところ、ルシオ✕レスリーと、レスリー✕ルシオは半々と言ったところだった。最近、新勢力として、サウロ✕レスリーも台頭してきているが、王子ズのリバ含めカップリングが王城の最大勢力であることは変わらない。
だからこそ、読む人の萌え次第で、どちらにも取れるこの本を執筆した。
後はこの原稿を元に大量に作るだけ。
あぁ、この原稿が上がる瞬間が、私は一番好きだ。
出来上がった本を手にとるのも格別だけど、一番はこの書きあがった瞬間!
えもいわれぬ解放感!
頭の中にあったものを形にしたことへの充足感!
やりきったことによる満足感!
私は天才じゃなかろうかという高揚感!(これは落ち着いたらすぐにしぼむんだけど)
歌い出したいほどの気持ちだ!
私はうっとりしたまま、机の上の原稿を眺める。
手も顔も、あちこちインクで汚れているけど気にならない。
この瞬間、この時のために生きているんだな。
私は深呼吸した。
そしてそのまま、意識がフェードアウトした。
どれくらい時間が経っただろう。
気が付くと空は赤い。
これまでの経験から、あの方向の空が赤いのは、夕日のはずだ。
つまり私は、やらかしてしまった、ということだ。
恐らく、倒れてから半日経っている。
だって、できあがった原稿を前に立ち上がったとき、今と反対の方角に朝日を見たから。
さすがに、三十路を前に三徹は厳しかったか。
昼間は仕事もしながらだから、よけいきつかった。
私はバリバリに固まった肩をほぐすように回し、まだ静かな周囲を見渡す。
どこか違和感があった。
周囲は見慣れた編纂室の奥の小部屋。
私が室長になってから作り上げた仮眠室。
ベッドの横にある机には原稿がきっちり揃えておいてある。
インクもペンもあるべきところへ揃えて置かれていた。
とっても美しい光景だ。
改めて、自分の姿も見下ろす。
いつもの内政官の制服で男物。変わり者と名高い私だからこそ、遠巻きにされるだけで注意されることはない、という大事な制服。高い詰め襟だけは、胸元までボタンを外してくつろげてある。ちょっと胸の贅肉が溢れそうになっているが、まぁ、気にしない。普段はぴっちり上までボタンを止めているのだから、他人がいない時くらいは楽をしたいのだ。しわしわなのは、寝ていたのだから仕方ない。むしろ、こんな窮屈な服を着て、よく爆睡できたものだと自分に驚く。
執筆中は肘までまくり上げていたそではきちんと降ろされ、指先を染めていたはずのインクは……インクは、消えて、いた。
深呼吸して、気を落ち着ける。
私はもともと少しせっかちな性分だ。
セーラからも、小説の最後がいつも駆け足になる、と指摘されている。
なので、一呼吸、間を取ることにしていた。
私の中の最後の記憶を探る。
机の上に散らばった原稿。
汚れた指先。
飲みかけのマグカップ。
つけっぱなしのランプ。
数歩の距離を遠く感じたベッド。
床の冷たさが頬に心地よかった……。
すっかり綺麗になった室内を見渡し、ご丁寧に私の上にかけられたマントを見る。
そう。
毛布ではなく、私の上にはマントがかかっていた。
これはあれだ。
深い赤に赤金糸の刺繍が散りばめられた、所謂一つの近衛隊のマント。
それも、平隊士の腰までのマントではなく、足元まで届くタイプの。
「うぎゃぁ〜〜〜〜!!!」
「納期が迫ってるってのに、何を悠長に遊んでいるのかと思ったら、そんなことだったの」
翌朝合流したセーラが、ケラケラと笑いながらお茶を飲む。
私は差し入れのケーキを頬張りつつも、まだテーブルから頭を上げられないでいた。
「あの、……セーラさん?」
「私じゃないわよ。寝こけたあなたをベッドに連れてくなんて、そんなことできるわけないじゃない。
あ、でも、カップを洗ったり、部屋の掃除は昨日しておいたわ」
「その時私と原稿は……」
「原稿はページ順に整えられて机の上に置かれていたし、ヨダレ垂らしてるあなたはその豪華な真紅のマントに頬擦りしながら寝てたわよ」
「さ、サヨウデゴザイマシタカ」
地面に穴を掘って埋まってしまいたい。
これはアレだ。
夜中に書いたラブレターを教室に落として、クラスメイト中に回覧された以来の「やっちまった案件」だ。
私をベッドに運び、指先のインクを拭き取り、マントをかけ、机の上を整えてくれた何者は、一体どこまで原稿を見たのだろうか……。
あぁ。不敬罪で捕まるかな。
実名で書くんじゃなかった。
いや、それよりも、男がアレを読んだ場合、どう思うのだろうか?
「うぎゃぁ〜〜〜〜!!!」
「叫んでないで、立ち直りなさいよ。
あなたの黒歴史なんて、今に始まったことじゃないじゃない?
婚約者とデートしたのはいいけど、次回はヒールの低い靴を履いてこいって言われて、じゃぁ、裸足でもいいですかって聞いて婚約破棄されたのとか。
幼年学校で架空の話の読書感想文を書いて、全校生徒の前で表彰されたあげく、後日そんな本がないってバレて、校長先生に呼び出されたりとか。
初めて同人誌作ったら、出来上がりに舞い上がって、表紙絵に腕が三本あることに気づいてなかったとか。
初BLの濡れ場たっぷりの話を書いたら、モデルにされた本人から校舎裏に呼び出されたとか」
「やめてよ~~~~~~~!!!
私を殺す気? いや、死ぬ! 死んだ! もうだめ!」
幼なじみというのはこういうとき辛い。
私が胸の奥の深く、鍵を厳重にかけて毛布に包み、開かずのクローゼットと名を付けた場所に仕舞い込んだ、思い出すもおぞましい記憶の数々をあっという間に暴いていく。
「それで? 見られたから作るのやめる?
……さる高貴なお方もお待ちになってるわよ?」
セーラがニヤリと笑う。
私はのろのろと頭を上げた。
「やめない」
「……でしょうね。こんなことで辞めれたら、結婚もせずにこんな仕事をこなしつつ、本を作り続けてなんていないわよね」
「……うん」
悔しいけど、セーラの言っていることは本当だ。
そもそも、暴かれたら辛い記憶の数々があってさえ、私は書くこと、作ることを止めることは出来なかった。
これはもう、私の魂に刻みつけられた宿業というしかない。
「さ、ちゃっちゃと作っちゃうわよ。私だって暇じゃないんだから」
最後のケーキの一かけらを口につっこむと、セーラは腕まくりをして立ち上がり、宙に小さな魔方陣を描いていく。
落ち込むことにあきた私も、観念して立ち上がり、同じように宙に魔方陣を描く。
私の魔方陣の方が大きいのは、私の仕事量の方が圧倒的に多いからだ。
私の力は水系だ。
とは言っても、その水で誰かを攻撃したり、守ったり、など大げさなことが出来るわけではない。
ワインボトル一本程度の水分を、自在に操れるだけだ。
だからこそ、私にとっては欠かせない能力なわけだけど。
いくつものコップに色とりどりの水を用意し、指先を踊らせる。
用意された白い紙に、次々に原稿に沿った文字や絵を書き込んでいく。筆はいらない。
私の視線や指先の動きで、水は様々に姿を変えるから。
一方、セーラの力は移動系。
子供が片手に持てる程度の無生物をいくつも同時に動かすことが出来るけど、その動きは決して早くないから、やはり戦いには向かない。
ただ、部屋を掃除するのがとても早い。セーラはその気になれば、床に散らばる埃すべてをあっという間に室外に追い出すことが出来る。
その力を今は、イラストや文字を書き取った紙を次々と移動させ、流れ作業で私の書き込み動作をフォローしつつ、ページ順にまとめて本の体裁を整えていく。
彼女にかかれば、背に糊を塗り、製本するのだってお手の物だ。
私たちの出会いは本当に運命だったのだと思う。
幼年学校で出会い、各の力を磨き、いまこうして何者にも代え難い相棒になっている。
私たちは目を開わせ、幼年学校の校歌をお互いに口ずさみ、あっという間に本を作り上げていく。
夕闇が濃くなった頃、依頼されていた部数と、布教用のサンプル誌が幾つかできあがった。
私たちはお互いに額の汗を拭い、互いの検討を讃えた。
「じゃぁ、これ、報酬ね」
セーラは、いつも本ができあがるまで決して中を見ない。
でも、できあがった本を一番最初に手にして、一番最初に読む。
手に取った本を、セーラは大切そうに鞄に仕舞い込んだ。
「お疲れさま」
そう労うと、セーラは肩をすくめた。
「一番大変だったのはトリス、あなたでしょう? お疲れさま。今夜は徹夜だわ!」
セーラを人通りの多いところまで送り、私も数日ぶりの家に帰ることにした。
本ができあがった爽快感に、私はすっかり忘れ果てていた。
そう、嵐はすぐそこに迫っていたのだ。
でもそれはまた、別のお話。
今夜の編纂室もまた、平和といって言えなくもなかったのだ。