第九十七話『死の香り』
僕らを乗せた船が出航してから、二時間程が経過した。辺りはすっかり暗くなり、闇一色の水面に激しい豪雨が突き刺さり、凄まじい突風が大きく船体を揺らす。
絶好の航海日和だな。そんな皮肉を口にする程の元気もなく、すでに後悔をはじめている僕だった。頼りなく揺れる天井の下、皆が身体を寄せ合い座っている。
「なんだか、ドキドキするわね!」
アンス王女が何故だか、楽しそうに言った。
まるで、台風が来た時の子どものようだ。
「ドキドキと言うか、ハラハラする……」
ラルムが小さな声で呟く。
その隣に座っているイーリスは、名付け親の心労を少しでも減らそうと、そっと、ラルムの手を握っていた。
「フィロス、なんか面白い話してくれよ〜」
暇を持て余したヴェルメリオの王女様が、実に難しい注文をなさる。
「うーん、じゃあ、なんで海の色は青いのかわかる?」
まぁ、有名な話だが、地球では常識でも、案外こちらでは知られていないかも知れない。
僕のこの問いかけに、リザよりもはやく、アンス王女が手を挙げた。
「空の色をうつしているのよね。だって今は、夜空の闇が海を暗く染めているもの」
自信満々な顔で、得意げに答えるアンス王女。
「半分は正解ですかね。空の色も関係はありますが、あともう一つは太陽の光です」
「太陽の光って、白だろ、海の色に関係あるのか?」
リザが首を傾げながら問いかける。
「太陽の光っていうのは、単色ではなく、様々な色が含まれた白なんですよ。そしてその光が海水にあたると、青以外の色は海水に吸収されて、残った青だけが色を残します」
本当はもう少し複雑な仕組みだが、小話として説明するには、この位が丁度良いだろう。
「なるほど、だから曇りの日でも海は青く見えるのね」
アンス王女が感心した様子で頷いている。
たわいもない話が終わり、再びの沈黙が訪れる。激しい風の音と荒れ狂う波の音だけが僕達の鼓膜を揺らす。
「それにしても、暇だな〜」
またしてもリザが退屈さを感じ始めていた。
リザのその発言が呼び水となったのか、船体全体が急激に揺れはじめた。
「おっ、なんだ?」
リザの言葉とほぼ同時に、船の進路の先に海中から巨大な生物が顔を出した。
「ク、クラーケンだ!!」
船長のレオナルドが、この世の終わりでも見たかのような絶望的な表情で叫ぶ。
その姿はまさに、巨大過ぎるタコだ。吸盤のついた複数の足がおどろおどろしく蠢いている。なるほど、タコがデビルフィッシュと呼ばれるのも納得だ。そんなことを考えていると再び船が大きく揺れた。
絶叫しながらとはいえ、レオナルドも船乗りの端くれ、舵輪を素早く回転させ、進路を大きく変える。
だが、絶望は、まだ続く。
「あの、赤い船、なんだ?」
新たな進路の先に姿を現した巨大な船を指差して、リザが言った。
「あ、あれは、オーパスワンの船だ……」
レオナルドが先程よりも更に絶望感漂う顔をしている。闇一色の海よりも暗い顔だ。もう、叫ぶ気力すらないらしい。
「オーパスワンって何よ?」
アンス王女が問いかける。
「ここらで有名な極悪非道の海賊だよ。金品よりも人の命を弄ぶ事を生業としている、イカレタ奴らさ。あぁ、短い人生だったな……」
肩を沈ませ、意気消沈のレオナルド。
前には海賊、後ろにはクラーケン。絶体絶命を絵に描いたような状況だ。
船内に漂う死の香りを嗅ぎつけたのか、後ろからクラーケンがもうスピードで迫ってくる。されど、前方には海賊船。進むわけにもいかない。
伸びる巨大な触手が船の天井を吹き飛ばす。そして僕らは豪雨に晒される。
冷たい雨が、危機的状況をより鮮明に伝えてくる。
そして次の瞬間、八本の足が、僕らを同時に襲う。
リザ、アンス王女、アイ、ソラ、リーフ、フレア、イーリスの七人がそれぞれ、その迎撃を行う。
相手の足は八本、対してこちらの戦闘員は七人。その隙間を縫うようにして、巨大な触手がラルムの元へと迫る。
気がつけば、身体は勝手に動いていた。僕はラルムの前へと身体を投げ出し、手を広げ、盾となっていた。
ーー圧倒的な衝撃が僕の身体を襲う。肺に溜まっていた空気が一気に外へと放出された。それと同時に、温かい血液が喉を通って、口から溢れるのを感じた。
僕の身体は今、船の上を転がっている。
それでも、僕はラルムの安否を確認するため、ゆっくりと首を動かす。
あまりの衝撃の光景に、言葉を失くしたラルムが、呆然と僕を見つめている。その瞳からは、ありとあらゆる色が、抜け落ちていた。
そんな顔をしないでくれ……。
「フィロス!!」
薄れゆく意識の中で、アンス王女の絶叫がぼんやりとだが、聞こえてくる。
あぁ、なんだかとても、夢心地な気分だ。海の上なのに、赤い。海の上なのに温かい。
ひょっとすると僕は……。




