第七十四話『硝子の世界』
馬車に揺られること数時間。ようやく車輪の動きが止まった。
目的地にたどり着いたのだろうか?
会話に花が咲き、いつの間にやら時間が経っていた。
馬車から降りるとそこは、木々に囲まれた森の中。ヘクセレイ族の里らしき場所はまったく見当たらない。
「途中休憩でしょうか?」
僕は馬車の御者に尋ねる。
「いえ、ここからは徒歩で向かいます」
なるほど、狭まった道を通るのだろうか?
「人の住んでいる気配はありませんが、ここから結構遠いのでしょうか?」
僕が御者に問いかけると、不意をつくかのように、真後ろから返事が聞こえた。
「私達の里はもう目と鼻の先だよ」
後ろを振り返るとそこには、別の馬車から降りてきたソピアさんの姿が。
「え? 見渡す限り、木々しかないですが」
「ふむ。気づいているのは、彼女だけかな?」
ソピアさんがラルムの瞳を見つめながら言った。
「すごい、こんな規模の精神魔法が……」
目まぐるしい速度で瞳の色を変化させながら、ラルムがそう呟く。
「さて、種明かしといこうか」
ソピアさんはそう言って細長い指をパチンっと鳴らす。
音が鳴った次の瞬間、僕達の眼前には信じられない光景が広がっていた。
先程までは、ただの森の中だと思っていた場所が突如として、煌びやかなガラスの世界へと変貌を遂げていた。木々があったはずの場所には家や塔などの建造物が立っており、それらの全てがガラスで出来ている。にわかには信じがたい光景だ。
「これは一体……」
僕が驚きのあまり思考を止めていると、少し得意げな表情でソピアさんが語り始める。
「認識阻害の精神魔法だよ。近づいてきた者に効果を及ぼす」
森の中にこれだけ幻想的な空間が存在していることも凄いが、その事実を秘匿する為に使われている精神魔法のレベルには驚きを隠せない。
「えっと、ヘクセレイ族以外の人には、この光景がただの森のように見えるのですか?」
「あぁ、一部の例外を除いて基本的にはそうだね。それに、人よけの精神魔法もかけられているから、我々の里に近づく部外者はごく稀だよ」
ラルムのような特殊なケースを除けば、基本的にはこの里は見つからないわけか。
「それにしても美しい光景ね」
アンス王女が目を輝かせながら言った。
様々な色のついたガラスが建造物を作り出しており、それらが日の光を受け、なんてことはない歩道にまでカラフルな光をうつしている。年頃の少女達にはたまらない幻想的な光景だろう。
「ヘクセレイ族のガラスの加工技術は高いと聞いていましたが、まさかここまでとは」
予想を遥かに超えている。ガラスの発色についての技術は地球の最先端の研究においてもまだ、十分な解明がされていないのだ。
「あぁ、ガラスに色を加える技術やガラスを使った建築技術はアリスの文献を元に、私達が創意工夫したものさ」
そう言ってソピアさんが遠くにある銅像を指差す。
「あれは、ガラスの像じゃないんですね?」
建造物の全てがガラスを使っているわけではないようだ。
「近づけばわかるさ」
ソピアさんの一言で、銅像に近づく僕ら。どうやら女性をモチーフにした像らしい。
「なるほど、瞳にガラスを使用しているのですね」
「それだけじゃないさ、光の角度で瞳の色が変わるようになっている」
ソピアさんの言う通り、見る角度によって、ガラスの瞳が様々な色へと変化する。
それはまるで、ラルムの瞳のようで……。
あれ、この女性、どこかで……。
「これはアリスの銅像だよ」
僕の思考に答えるかのように、ソピアさんが短く言った。
言われてみれば一度だけ他者の記憶の中で見たアリス・ステラと思わしき人物と特徴が似ている。
「へぇ、これが、世界初の魔法師の姿なのね」
感心しながらも、しげしげと銅像を見つめるアンス王女。
ラルムもその隣で静かに銅像を見つめている。その銅像と同じ瞳を持つ少女はどのような思いでこの像と向き合っているのだろう。
「この方が私の創造主なのですか?」
不安の混じった声音で、囁くようにアイが言った。
「おそらくは」
僕は短く答える。明確な答えを持たないのだから、これ以上は答えようがない。
「さて、そろそろ私の家に向かうとしよう。見てもらいたい資料もあるしね」
僕達のやりとりを見守っていたソピアさんが提案する。
「ガラスの家に入るのね!」
待ってましたと言わんばかりに声を上げるアンス王女。
かく言う僕も、好奇心のおかげかいつもよりも足取りが軽い。
* * *
「さぁ、入ってくれ」
ソピアさんが自身の家の前に立ち僕達を招き入れる。
よく見ると、柱や繋ぎ目などにはガラス以外の物が使われているようだが、基本的な部分のほとんどがガラスで出来ているようだ。
上を見上げれば空が見え、横を向くと、隣の家の中が見える……。あれ? これって。
「あ、あの、隣の家の人がこちらに手を振ってますが、これはその、大丈夫なんですか?」
端的に言ってしまえば、プライバシーがゼロだった。
「あぁ、何か問題があったかな? 見られて恥ずかしい物などないだろう?」
きょとんっと首を傾げるソピアさん。知的な美女が首を傾げる時の凄まじいギャップが僕を襲うが、今はそれどころではない。
「あ、あの、お風呂とかは見えない位置にあるのですか?」
流石に丸見えと言うことは無いとは思うが……。
「なぜだい?」
再び首を傾げるソピアさん。
ヘクセレイ族の寿命は凄まじく長いと言う。そのような生物としての違いがこのような文化の違いを生むのだろうか?
さらに、ヘクセレイ族の特徴はそれだけではない。女性比率が異様に高いのだ。それも、皆が一様に美人である。必然的に、目のやり場に困るシーンもあると思うのだが……。皆が美人であるが故に、見られて恥ずかしいものなど無いと言うことだろうか? いや、ここでうだうだと考えていても仕方がない。郷に入れば郷に従えと言うことか。よし、ここは一つヘクセレイ族のルールに従おう。
「マスター、グゥでいきますよ?」
小さな拳を握りしめアイが隣で呟く。
「ソピアさんの精神魔法でフィロス君の視界だけをコントロールすることは可能でしょうか?」
ラルムがいつになく真剣に問いかける。
「あぁ、可能ではあるけれど、なぜだい? それにフィロス君はそれで良いのかい?」
不思議そうに問いかけてくるソピアさん。
「あ、えっと」
「いいわよね? フィロス」
外から入ってくる日の光がガラスの壁を通り抜け、アンス王女の腰にあるレイピアの柄を鋭く光らせた。
「はい、異論はありません」
なるほど。今ならわかる。楽園を追放されたアダムとイブの気持ちが。
その後、僕は、ソピアさんの精神魔法により、他の家の中を見る事が出来なくなったのである。
「では、そろそろ、本題に入っても良いかな?」
僕に精神魔法をかけ終わったソピアさんが言った。
「え? あぁ、文献ですね」
もちろん覚えていましたよ?
「一緒に書庫に来て貰えるかな?」
「はい」
ソピアさんの言葉に従い、後ろをついて行く僕。機密性の高さから、ひとまずは僕一人がソピアさんについて行く形となった。
「書庫はこの下にある」
そう言ってソピアさんはガラスの階段を指差す。
なるほど、重要な物は地下に保管するわけか。なら、お風呂も地下に作れば良いのでは? と思わなくもなかったが、ヘクセレイ族からすれば、裸体など隠すようなものではないのだろう。
ガラスの階段をゆっくりと降りると鉄製の頑丈な扉が僕を出迎えた。
「なるほど、この部屋はガラス張りではないのですね?」
まぁ、地下をガラス張りにする必要性はないだろうし、流石に技術的にも厳しいのだろう。
「あぁ、ゲヴァルト族が作った鉄製の壁で覆われている」
そう言いながら、扉に鍵を差し込むソピアさん。ガチャっと言う音とともに重厚な扉が開いた。
部屋の中には明かりがなく、真っ暗な空間に冷たい空気が充満している。
壁に掛けられているランタンらしきものに、ソピアさんが火を灯す。
すると、部屋の全貌が露わになった。壁一面には本棚が並び、部屋の中央には大きめのテーブルが一つ。その上には紙の資料が山積みになっている。
「まずは興味のあるものから読んで見てくれないか? ここにある資料の優先度が私にはよくわからないからね」
ソピアさんが気軽な調子でそう言った。
何気なく最初に手に取った資料の内容は人工知能についてのものだった。その他にも、遺伝子工学などの論文らしきものもある。
ある程度察しはついていたが、これらの資料が示す事実は、アリス・ステラと言う人物は、なんらかの方法で地球の文化や知識を知り得ていると言うことだ。
「例えば、この資料の中に理解出来ない内容はありますか?」
イデアでの一般的な知識と地球での知識にはどれだけの差があるのかを確認する為にも、僕はソピアさんに問いかける。
「この謎の記号の意味などは全く理解出来ないね」
なるほど、元素記号や化学式などには馴染みがないようだ。
そもそも、地球の文化を知る僕でさえわからない数式や化学式が、この資料にはふんだんに使われている。
「では、こちらの資料はどうですか?」
そう言って、僕が次に手にとったのは、アリス・ステラが記したであろう哲学についての文献だ。
人工知能や遺伝子工学とは違い、数式も化学式もない、純粋な哲学についての資料なので、理解出来るかは別として、言葉の意味自体は伝わっているはずだ。
「所々に馴染みのない言葉があるけれど、読めることは読めるね」
手元にある資料に視線をやりながら、ソピアさんが呟く。
「なるほど、読んで見てどうですか?」
哲学が体系化されていない世界の住人には、この哲学に関する資料はどう見えているのだろう。
「そうだね、例えばこの『合理的な思索は概念によって行なわれる』と言うのは、なんだか、わかるようでわからない言葉なんだけれど」
ソピアさんが少し頭を捻りながら言った。
確かに、土台が無い状態で考えるのには難しい言葉かも知れない。哲学を少しでも学んでいる人ならば、あまり気にせずに読み進められる所なのだが、哲学のような考え方を意図的にしない限りはこの考え方に馴染みがないのは当たり前だろう。
僕はこの疑問に答えるべく、アリストテレスが定義した十のカテゴリーについて説明を始めた。
その後、一時間近くの対話を重ねたが、ソピアさんの表情は渋いままだ。
「聞けば聞くほどわからなくなっていくような不思議な感覚が湧くね。しかし、自分がこれらを理解していないことが理解出来た気もするよ」
ソピアさんはこのイデアと言う世界においての常識に長いこと浸り、熟知しているが故に哲学的感覚が受け入れずらい部分があるのだろう。
僕の周りには若い芽の伸び盛りな人ばかりが集まっていたので、このようなケースを失念していた。
しかし、すでに、無知の知のような発想をし始めているあたり、ソピアさんの思考力の高さが伺える。
「では、そろそろ、今日はお開きにしますか?」
僕がそう問いかけると、ソピアさんが何かを思い出したように口を開く。
「そうだ、ちょっと待ってくれ」
ソピアさんはそう言って立ち上がり、部屋の隅にある棚から、何かを取り出して運んできた。
「これの正体が何か、フィロス君なら分かるかい?」
そう言って、彼女が取り出した物は……。




