第六十九話『不完全』
様々な人種が入り乱れる、あちらの世界での宴から目を覚ました僕は、実家の自室のベッドからゆっくりと起き上がる。スプリングが僅かに軋む音がなんだか少し懐かしい。
結局あの後は、みんなでゆっくりとご飯を食べて、用意された部屋で眠りについたのだ。それにしても、オグル族の青年を酔い潰したアンス王女の顔は満足気だったな……。
まぁ、そんなことよりも、重大な事があった。ヘクセレイ族の族長、ソピアさんの言葉だ。アリス・ステラについての手掛かりを匂わせるあの発言。僕の思考は彼女の言葉の続きを求めていた。
しかし、今ここで、その事を考えても仕方がない。僕はそう思って、部屋を後にし階段を降りる。冷たい階段が、裸足の足裏にひんやりとした感覚を伝えてくる。
珍しいな、居間にはもう姉の姿がある。
視界の端に僕を捉えた姉がつぶやく。
「おはよう、弟」
相変わらず、変わった姉だ。変わらずに変わっている。
「おはよう、姉」
姉の振る舞いに合わせる僕。
「哲也が私よりも遅く起きるなんて珍しいわね?」
まったく見当違いな発言をする姉だ。この姉の論文がサイエンスに載るのだから、世の中わからない。
「違うよ、僕はいつも通りさ。姉さんが早いのが珍しいんだよ」
僕がそう言うと、しばらくの沈黙の後に、姉が口を開く。
「確かに、それはそうかもね?」
あれ? 姉がこの手の会話で引き下がるのは珍しい。少し違和感すら覚える。
「あのさぁ、一つ質問いい?」
僕は何とは無しに、姉に問いかける。
「えぇ」
首肯しながら短く答える姉。
「姉さんはよく、様々な国の人達と話し合いをしていると思うけれど、育った環境や人種すら違う人達と話し合う上で注意していることはある?」
朝一番に聞く話題としては少しハイカロリーな話題かも知れない。しかし、今聞いておきたい質問なのは間違いない。
少しの間を置いて、姉が口を開く。
「私達の意識をあますところなく表現するには、言語というものはあまりにも貧しいものよ。私達が言葉を使う以上、事実も感覚も思想もまるっきりそのままには伝えられない」
「確かに、それはそうだね」
僕はそう言って、ゆっくりと頷き、話の続きを待つ。
「つまり、どんな表現を用いようと、言葉が不完全である限り、私達が口にする言葉は、薄っぺらで平凡なものに成り下がってしまう。だから私はその事を常に念頭に置いて話すの」
珍しく真剣な面持ちで語る姉。哲学にはあまり興味がないと言う姉だが、やはり彼女は天邪鬼なようだ。
「けれど、その大雑把な完成度のおかげで、僕達の会話は成立する事が出来ているわけだよね?」
人々が大まかに相手を理解出来るのは、その不完全性が故だ。もし、僕達の意識や精神構造を正確に表現する力が言葉にあれば、僕達はおそらく、まともな会話一つ成立し得ない。
「そうね、だから、私達はいつも、不完全なものを振りかざしている自覚を持たなければいけないの」
少し遠い目をした姉が言う。彼女が見つめる先はいつも遠くて、常人にはその景色をみることさえ叶わない。
姉の目には映って僕の目には映らないものが、きっとたくさんあるのだろう。それは多分、僕達だけではなくて、程度の差こそあれど、みんなが同じ悩みを抱えている。
僕達は無言の時間を共有する。無言だけが共有出来る全てとでも言うかのように。




