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世界で唯一のフィロソファー  作者: 新月 望


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第六十四話『天才の孤独』

 あれから、僕と姉は喫茶店を後にして、姉の命令により、二人揃って実家へと向かっている。今は大学も冬休みなので、実家に帰ること自体はやぶさかではないのだが、急な呼び出しで来たものだから、あまり準備が出来ていない。


「そう言えば荷物は?」


 サンフランシスコから来たはずなのに、手ぶらな姉に問いかける。


「必要な物は現地で買えばいいじゃない?」


 姉は昔から荷物を持ちたがらない主義だった。荷物がある時は大抵、僕が持たされていた……。


「それにしても、姉さんが電車で移動とは珍しいね?」


 姉の財布事情から考えれば、お金よりも時間が惜しいはずだ。タクシーの方が数段早く着くだろうに。


「久しぶりに日本の電車に乗りたくなったのよ」


 窓から見える何の変哲もない景色をぼーっと見つめる姉。


 しばらく無言の時間を過ごしていると、電車が目的の駅へと到着した。


 電車から降り、改札を抜けて駅から出た姉の第一声は静かなものだった。


「ジャストミートが潰れてる……」


 ジャストミートとは、この駅の近くにあった肉屋の名前だ。小さい頃は姉とよく母に頼まれおつかいに来たのだが、今はもう近くの大型スーパーに客足をとられて潰れてしまった。


「あぁ、一年前位に潰れたよ」


「ここのコロッケを食べながら帰ろうと思ったのに」


 姉は拗ねるようにして呟く。

 ひょっとすると、ここでの買い食いも想定しての電車移動だったのかも知れない。

 姉は自分の計画通りに事が進まないと、ひどく機嫌を悪くする。その被害を被るのは僕だ。冗談ではない。僕は小走りで近くの自販機まで行き、一本の缶コーヒーを買った。それを無愛想に姉の手に持たせる。


「あっ、これ、懐かしい」


 姉が手にしている缶コーヒーは、コーヒーとは名ばかりのコーヒー牛乳も真っ青な甘さを誇る、黄色の缶が印象的なご当地缶コーヒーだ。

 基本的に姉は糖分が切れるとキレる厄介なタイプの人間だ。逆に言えば、糖分さえ与えておけば何とかなる。まぁ、姉曰く、人よりも頭を使っている分、糖分の消費が激しいらしい。


 そこからは機嫌を良くした姉と歩き慣れた道を歩く。相変わらず姉は、前を向いて歩かない。視線が様々な場所に散るため、何度も他人にぶつかりそうになる。それを注意しながら歩く僕の姿はおそらく、昔と何も変わらないのだろう。姉がアメリカに行こうが、僕が大学生になろうが、近くの肉屋が潰れようが、変わらないものもあるのだ。


 歩きはじめて十五分程が経過した。このあたりは閑静な住宅街が広がっている。その中の一角に僕達の家はある。


 白を基調とした外観の大きめの一戸建てだ。父は医者で母は薬剤師のいわゆる裕福な家庭で育った。十分な教育を受けさせて貰っている自覚はある。


 姉はインターホンに手をやり、そっとボタンを押す。


「私」


 インターホンに向かって、必要最低限の言葉を放つ姉。


「あら、帰ってきたのね、開いてるわよ」


 機械ごしに母の優しくもゆったりとした声が聞こえる。

 というか、三年ぶりなのに、予告なしで帰ってきたのかよ。弟に連絡する暇があったら、実家に連絡するべきだ。


 姉がゆっくりと玄関を開けて素早く中に入り、素早くドアを閉めた。

 ガチャと言う鍵がかかる音とともに、外に閉め出された僕。

 昔からこの人はこの意地悪(あそび)が好きだった。二十五歳にもなってこの手の悪戯に興じられるのは、ある意味才能である。


 僕は仕方なくインターホンを押す。


「僕」


 インターホンに向かって最低限の言葉を放つ。


「あら、哲也も帰ってきてたのね。希美が先に入ってきたってことは鍵が閉まってると」


「あぁ、流石によくわかってるね。だから鍵を開けて欲しいのだけれど」


 十二月の寒空の下で、何が悲しくて実家の前で棒立ちせねばならぬのか。


「ねぇ、優衣、鍵開けてきてあげてー」


 母の言葉の数秒後、どてどてどてと言う音とともに玄関を疾走する足音が聞こえ、直後、ドアが開かれた。


「おかえり、お兄ちゃん!」


 そう言いながら、盛大なハグで出迎えてくれる妹。あれ? アメリカ暮らしをしている姉が無愛想なのに、日本暮らしの妹がこんなにアメリカナイズされていていいのだろうか?

 それに中学二年生の女子と言えば、反抗期真っ盛りが普通な気がするが、うちの妹は相変わらずだった。


「あぁ、ただいま、優衣」


 僕は最大限の優しい声音を意識して返事をする。


 我が新谷家は、父、母、姉、僕、妹の五人家族である。まぁ、父は仕事柄、家を空けることが多いのだが。


「最近寒いよね」


 妹が僕の脱いだ靴を直しながら問いかけてくる。


「うん」


「風邪ひかないようにね」


「うん」


「帰ってくるの久しぶりだね」


「うん」


「明日、一緒に買い物行こうね」


「うん」


「やった! ありがとお兄ちゃん!」


 満面の笑みで微笑む優衣。


「えっ、明日?」


 しまった、単調な返事ばかりしていたら、ついうっかり、そのまま返してしまった。


「約束だからね! ちなみに今のはイエス誘導法ってやつなんだよ」


「キリスト?」


「違うよ、心理学のテクニックだよ。相手がイエスと答えるような質問を繰り返して、要求を通りやすくするんだよ!」


 ニコニコ笑顔で恐ろしいことを口にする妹。僕が一番油断しているであろう玄関で勝負に出るとは流石だ。


「優衣は相変わらず心理学が好きだな」


 確か、小学生の時から勉強を始めていた記憶がある。


「うん! 臨床心理士の資格を取って、将来は色々な人の相談にのりたいの」


 あの姉とこの兄と同じ血が通っているのが疑わしい程に、よく出来た妹である。名は体を表すと言うが、優衣は文字通り、優しさの衣で人を包むようだ。


 そんなやりとりをしながら、長い廊下を抜け、リビングへと入る僕達。


「おかえりなさい」


 キッチンで夕飯の支度をしている母が優しい声音で言った。


「ただいま」


 リビングのソファーでくつろいでいる姉を横目に僕は返事をした。


「あら、遅かったじゃない?」


 ニヤニヤしながらこちらに問いかけてくる姉。


「誰の所為だろうね?」


「あら、優しい姉のおかげで、大好きな妹に鍵を開けて貰えたじゃない?」


 飄々と語る姉。


「確かにね、ありがとう姉さん」


 言われてみれば、最初の出迎えが妹だったのは素直に嬉しい。


「その素直さはなんだか、釈然としないわね……」


 お礼を述べたのに、なんだこの微妙な態度。姉はやはり、よくわからない。


 * * *


 それから、一時間近くリビングでのんびりしていると、キッチンから良い香りが立ち昇ってきた。


「出来たわよー」


 母の言葉で、食卓に集まる僕達。父はまだ、仕事で出掛けているようだ。


 夕飯はシチューのようだ。姉が、シチューの中の人参を僕の皿に引っ越しさせている。


「あのさぁ、その歳で好き嫌いってどうなのよ? 味覚って歳を重ねるごとに鈍るんだから、そろそろ、人参の味も大丈夫なんじゃないの?」


 僕は、先程の玄関での閉め出しの恨みをここで晴らす。


「私は好き嫌いしてもいいのよ。いずれ遺伝子組み替えで、完璧な栄養価のイチゴを作るから。だから、それまでは、嫌いな物は食べないの」


 馬鹿と天才は紙一重と言うが、この姉はひょっとすると馬鹿よりの天才なのかも知れない。


 姉と弟の言い争いを見かねてか、母が口を開く。


「それにしても、遺伝子組み替えで栄養を自由に出来るのなら、好きな物だけが並ぶ食卓になるのね。それはそれで味気ない気がするわ?」


 母も論点のズレたことを言う。


「いや、そもそも、万能食が出回ってみんなが健康に暮らせる世界になったら、新谷家は火の車じゃないか?」


 父は医者で母は薬剤師だぞ? 病人がいて成り立つ職業だ。


「それはそれで幸せな世界じゃない?」


 アゴに手をやり可愛らしく首を傾げる優衣。


「まぁ、うちには、希美がいるし、金銭面の心配は無いわね」


 母が朗らかに笑いながら言った。


「まぁ、姉さんが、世界規模の犯罪でもやらかさなければね」


 この姉には危険思想が標準装備されているからな。


「なんで、こんなに楽しい世界を壊すのよ?」


 犯罪=世界の滅亡って、どんな思考回路が弾き出した考えなのだろうか……。

 そもそも、楽しいから壊さないと言う発想が、人として壊れている。


「やっぱり、お姉ちゃんとお兄ちゃんがいると食卓が賑やかだね!」


 そう言って嬉しそうに微笑む優衣。


 * * *


 夕飯を食べ終えた僕は、風呂に入り、久しぶりの自分の部屋のベッドへと潜り込んだ。シーツからは柔軟剤のいい香りがする。僕がお風呂に入っている間に、母がベッドメイクを済ませてくれたのだろう。


 手元にあるリモコンで室内の照明を落とそうとした瞬間、部屋の扉がノックされた。

 ノックなのに、一回しか叩かないこの独特の音の正体は姉によるものだろう。


「どうぞ」


 僕がそう言うと、姉が淡々と部屋に入ってくる。僅かに水気を帯びた髪からお風呂上がりなことがわかる。


「ねぇ、哲也、電気消して……」


 姉が小さな声で囁く。


「は? なんで?」


「いいから……」


 これ以上は時間の無駄だろう。僕は諦めて、リモコンのボタンを押す。


 部屋の明かりが消えると、そこには驚きの光景が……。姉の黒髪のロングヘアーが暗闇の中で煌々と光を放っているのだ。その緑の輝きはまさか……。


「綺麗でしょ、ホタルの発光遺伝子を入れたのよ」


 姉は無邪気に楽しそうに語る。

 これは流石に笑えない。常軌を逸している自覚がないのか。凡人の僕にはこれを笑うことなど出来ない……。


「おい、自分のしていることがわかってるのか!」


 僕はあまりの衝撃に怒鳴り声をあげる。


「なんで?」


 姉は只々不思議そうな表情を浮かべている。本当にわかっていないのか、それとも、僕を試しているのか?


「そりゃ、だって、その……」


 この感覚は、凡人の僕が悪いのだろうか。


「冗談よ、暗闇で光る塗料みたいなものよ、ただシャンプーとして少し使ってみたの」


 そう言って、彼女らしくない、優しい笑顔を浮かべる姉。


「あぁ、そうか。なんか、ごめん」


「いや、いいのよ、心配してくれたのでしょ?」


 こんなにらしくない言葉を吐かせてしまっている現状が苦しい……。


 長い沈黙の末に姉は部屋を後にした。緑の輝きが照らす部屋の中で、彼女の頬から流れた雫が網膜から離れない。姉の涙を見たのは、生まれて初めてだった。


 凡人である僕は、何か、決定的なミスをしたのだろう……。


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