第六十三話『遺伝子』
机の上のスマートフォンが着信音を鳴らしている。三秒きっかりでその音は止んだ。
メールではなく、電話の着信音だと言うのに、ひどく短い。このコールの正体はわかっている。あの人は僕への電話は必ず、三秒きっかりで切るのだ。その行為に深い意味などないのだろうが……。
出来ることならメールの類で済ませたいのだが、あの人はメールでのやりとりを好まない。だから、あまり気乗りはしないが、着信履歴からその相手へとかけ直す。
「もしもし、今日は予定がありますので、また別の機会に」
僕はそう言って、三秒きっかりで通話を切った。
すると直ぐに電話がかかってきた。
「まだ要件を言っていないのだけれど?」
高過ぎず低過ぎない、聞き取りやすい声が僕に問いかける。しかし、聞き取りやすいのは、滑舌が良く、高さが丁度良いだけで、その声音からは感情が読み取れない。
「姉さんの要求が僕にとって嬉しい事である確率が低過ぎるからね」
通話の相手は実の姉の新谷希美であった。
「ちょうど今、日本に帰ってきたのよ」
僕の姉はアメリカのサンフランシスコで遺伝子工学に関する研究をしている。
「なら、まずは実家に帰りなよ」
姉が帰国するのは珍しく、以前に帰ってきたのは確か三年前だったはず。
「哲也に言われたくないわね。あなたなんて、日本にいるのに顔を見せないそうじゃない?」
電話越しの姉が僕に言い返してくる。
「僕は大学に入学してから帰っていないだけさ。姉さんの三年とは比べるまでもないと思うけれど」
僕の場合は、一人暮らしをはじめてから八ヶ月ちょっと実家に帰っていないだけの話だ。
「サンフランシスコから日本までの飛行時間は9時間半よ? 空港までの道のりや空港内での諸々を合わせれば日本に来るまでに12時間はかかるの。哲也は実家に帰るのに、精々1時間よね? 私はあなたの12倍の時間をかけて来ているわけ。つまり私の3年に一度の帰省を哲也の帰省に換算する場合は、36カ月を12で割るわけ。36を12で割ると3になるわけだから、あなたは3カ月に1回は実家に帰らなくてはいけないのよ」
どれだけ長台詞を並べようとも屁理屈は屁理屈である。
「とんでも理論の押し売りはやめてくれ」
帰省頻度の換算ってなんだよ?
「相変わらず冷たいわね。遺伝子が同じでも、姉と弟でこうも変わるものなのかしら?」
「はぁ、もういいよ。要件はなに?」
この不毛な電話を終わらせる為にも、早々に降伏しよう。
「あら、今日はあまり抵抗しないのね? じゃあ、いつもの喫茶店で待ってるわ」
その一言を最後に通話が切れた。
相変わらず唐突な人だ……。僕は重い腰を上げ家を出る支度を整える。
* * *
僕と姉が昔から待ち合わせ場所に使っている喫茶店の中へと入ると、店の一番奥の席にはすでに、姉の姿があった。
「あら、遅かったわね?」
僕の次の反応を試すかのように、口の端を歪めながら笑う姉。
「気のりしない場所へ行くにしては善処した方だよ」
僕は皮肉を込めて返す。
「あら、喫茶店に失礼よ」
飄々と僕の皮肉を躱す姉。
「問題は待ち合わせ場所ではなく、待ち人の方だよ」
「哲也は相変わらず、私にだけは手厳しいわね。愛情の裏返しかしら?」
表情や声音からではわかりにくいが、姉はこの会話を間違いなく楽しんでいる。
「ここで僕が何を言っても、姉さんは好きなように捉えるでしょ」
僕の発言が姉に対して正しく届くことは稀だ。いや、正しくは届いているのだろう。届いた後に勝手なデコレーションをはじめるのだ。
「やっぱり、私の一番の良き理解者は弟ね」
平坦な声音ではあるが、これは機嫌の良い時のイントネーションだ。
「姉さんのことをちゃんと理解したことなんて、僕には一度もないよ」
この人は、自分で決めた常人には理解出来ない自分ルールに縛られながら生きている。一見自由な人に見えるが、捻れきった思考が彼女を離さない。
「哲也だけは、私を理解していないことを理解しているじゃない?」
この人が一番嫌うのは、自分を理解しようと歩み寄ってくれる心優しい人だ。
「哲学は合わないとか言ってなかった?」
「今のは哲学じゃないわよ。ただの私の本心。みんな私を等しく理解出来ないなら、理解出来ないことを理解している人間が私を一番理解していることになるもの」
聞き様によっては酷く傲慢な発言だが、それを裏付けるだけの才能が姉にはあった。だから僕は姉が苦手だ。才能を自覚しながらも、驕り高ぶるのではなく、ただ自身を冷静かつ正当に評価する姉に、いつからか、尊敬以上の恐怖を感じるようになっていた。
「研究の方は順調?」
僕はわかりきった質問をする。
「あら、哲也が私の研究に興味を示すのは珍しいわね」
姉は気軽な調子でそう言うが、実際のところ僕は、姉の発表した論文には全て目を通している。口が裂けても言わないが、姉の発想力は、遺伝子工学という最先端かつ魅力的な分野においてもなお、革新的だ。
「まぁ、なんとなくね」
僕は素っ気ない返事をするが、なぜかその態度に満足気に頷く姉。
「じゃあ、確認するわね。DNAとは何?」
姉が僕に問いかける。
「アデニン、チミン、グアニン、シトシンの四種類から構成される物質」
姉の論文を読むために、ある程度の知識は入れてある。
「じゃあ、それらの役割はなに?」
質問を続ける姉。
「生物の肉体を形成するためのタンパク質の設計図」
僕は淡々と答える。この知識は確か、姉の部屋にあった本で学んだ記憶がある。
「そう、つまり、人間の親から人間の子が生まれるのも、猿の親から猿の子が生まれのも、DNAの複製によって遺伝子が継承されているに過ぎないのよ」
「だから、外部から遺伝子情報に手を加えれば、ある程度生物の特質がコントロール出来るって話だろ?」
僕は姉の言葉に先回りしてそう言った。
「あら、私の研究に興味がなかった人とは思えないわね?」
そう言って、底意地の悪い笑みを浮かべる姉。
「この程度の情報ならネットにだって転がっているだろ?」
我ながら、少しムキになった態度が恥ずかしい。
「まぁ、そうね。有名どころで言えば、ホタルの発光遺伝子を植物に組み込んだ、光る植物なんかが有名ね」
少しずつ興が乗ってきたのか、姉の口調には熱がこもりはじめていた。
「へぇー、遺伝子組み替えによる栄養価の高いバナナの品種作りとかはよく聞くけれど、時代はそこまで進んでいるんだね」
思わず、素直に感心してしまった。
「まぁ、ここまでが世間一般に公開されている情報よ。実際はもっと先の研究がされているわ」
声のトーンを落とし、静かに語る姉。
「まさかとは思うけれど、いや、やっぱりいい……」
知的好奇心よりも強い恐怖心がその先の言葉を奪い去った。
「まぁ、私としても、大事な弟に嫌われたくはないからね。どの道これ以上は語らないわよ」
その言葉が既に、僕の質問への答えだと、明確に理解した上で淡々と口にする姉。
「人工知能が人を追い越して、そのAI達がDNAの操作で生物を作り始めるなんてSF見たいな世界も近いのかもね」
僕は、先程まで、すぐそこに迫っていたリアルな恐怖心から目を背けるため、話の規模を大きくして冗談めかした。
「そうなる可能性もあるけれど、AIよりも先に私が完成させちゃうかもね?」
僕の冗談めかした発言に、真顔のまま淡々と答える姉の姿が、やはり僕には恐ろしく映った。




