第五十九話『感情表現』
正体不明の謎の眠気に襲われた僕は、畳の上に敷かれた布団の上で目を覚ます。
えっと、確か、ククル族の村でカレーみたいな料理を食べていてそれで……。
意識がはっきりとしないので、洗面台に向かい、顔を洗う。冷たい水が思考の靄を払っていく。鏡に映る僕は紛れもなく、新谷哲也としての僕だ。やはり意識がこちらに戻って来ていると言うことは、フィロスとしての僕が眠りにつくか意識を失った証拠だ。まさか、料理に睡眠薬が入っていたのだろうか……。いや、それならばラルムが誰かの敵意の色を感知したはずだ。
今すぐに眠り、確かめに行きたいところではあるが、生憎とまったく眠気が襲ってこない。あちらの睡眠の深さがこちらの睡眠欲にも関係があるのだろうか?
思えば、イデアと地球との関連性というか、一定の法則性が今だによくわからない。
半年近く今の現状が続いており、判明したことと言えば、イデアと地球における時間の流れが異なること位だ。それは規則性がなく、イデアで十時間近く過ごしたはずでも、地球で起床した際には眠りについてから五時間しか経過していないこともあったし、その逆にイデアで過ごした時間以上の時間が地球で経過していたこともある。そこに一定の規則性を見いだすのは困難に思える。まぁ、ようするに、時間の流れがなんとなく違うと言う曖昧模糊とした検証結果しかないのである。
あれ、何か忘れているような……。今日は何日だ? 僕は部屋の壁にぶら下がっているカレンダーを覗く。あ、今日は理沙と出かける約束をしていた……。背中に薄っすらと冷や汗をかきながらも、すぐに携帯で時間を確認する。
待ち合わせ時間まで残り五分。
イデアと地球を行き来する僕の日付け感覚が他の人よりもズレがちなのは致し方ないように思える。そんな、誰に対しても使えないような言い訳を考えつつも、謝罪メールを作成する。
(ごめん、もう着いちゃってるよね。少し遅れるから、喫茶店にでもいて。コーヒー代は出させていただきますので)
素早くメールを送信し、手早く身支度を整える。理沙は時間にとても厳しい。彼女は他人に厳しく、自分には更に厳しいストイック星人なので、一分でもはやく家を出る必要があった。
(了解。じゃあここで、待ってるから)
簡潔な文と一緒に送られてきたのは、理沙が待っているであろうカフェの住所だ。
* * *
あれから、二十分。最寄りの駅まで全力疾走し、電車に乗り、理沙に指定された住所まで辿り着いた。
『ワンワンカフェ*ショコラ』とかかれたファンシーな看板が人目を引いている。
嘘だろ……。確かに喫茶店のカテゴリーに入らなくもないのかも知れないが、待ち人を待つ場所でないことは確かだ。
そもそも、こう言った類の店に一人で入る度胸がないのは、僕の心が弱いだけだろうか?
しかし、これ以上理沙を待たせる方が余程怖いので、僕は緊張しながらも、ワンワンカフェのドアノブに手をかけた。
カランカランという音とともに、店員さんがかけよってくる。
「いらっしゃいませ、お客様は一名様でしょうか?」
清潔感のある女性店員が話しかけてきた。
「いえ、待ち合わせをしているのですが」
僕がそう言うと、店員さんは直ぐに案内をしてくれた。まぁ、このお店で待ち合わせをする輩など、そうそういないだろうからな。
「ワンワン」
そこには、犬を抱えながら、小さな声で犬語を喋る理沙がいた……。
「……」
理沙が僕の存在に気づき、こちらを振り向いた。
「あら、遅かったわね」
動揺を隠すように、つとめて冷静に話す理沙だったが、頬がほんのり染まっており、なんだか、見てはいけないシーンを見てしまった気がする。
「遅れてごめん。それにしても、独創的な待ち合わせ場所だね?」
慎重に言葉を選ぶ僕。
「誰かさんが遅れてきたことによって発生したストレスをアニマルセラピーで解消していたのよ」
理沙が鋭く返答してくる。今日の切れ味も抜群のようだ。
「申し訳ない……」
愛らしい犬に囲まれながら謝罪をする僕。
「嘘よ、今日ははじめからここが目的だったのよ」
そう言いながら小型犬の頭を優しく撫でる理沙。
「なんだか意外だね。僕はてっきり、理沙は猫派だと思っていたよ」
「いつも一人でいるから?」
理沙の視線が鋭さを増す。
「い、いや、違うよ? 理沙は単独行動が得意なだけだよね。個々の能力や質が重要視される昨今、理沙のようなユーティリティプレイヤーが重要と言いますか、一致団結も大事ではあるけれど、孤軍奮闘に期待したい所もあるみたいな」
何を言っているのだ僕は……。
「猫は気まぐれだし、構ってくれないじゃない。せめて動物とは、楽しくじゃれ合いたいもの。私、友達少ないから」
ツッコムべきか微妙なラインの発言に困る……。
「犬、可愛いよね」
結局は無難な発言に逃げる僕。
「あら、ツッコミを待っていたのだけれど」
「いや、重量感のあるボケは控えてくれよ」
僕がそう言うと、クスリと小さく笑う理沙。その間にも、犬とのスキンシップは欠かさないようだ。理沙が背中を撫でると、気持ち良さそうな表情を浮かべている。
「それにしても、哲也は随分と犬に懐かれるのね」
彼女の言葉通り、僕の周りにはいつの間にか、十匹近くの小型犬が集り、大きく尻尾を振っている。
「これは懐かれているって言うのかな?」
「えぇ、犬が腰を落として尻尾を大きく振るのは、親愛の証よ。興奮状態だと、尻尾を振る速度が上がるのよ。尻尾が真っ直ぐに伸びている時は警戒態勢ね。後は、尻尾が垂れて揺れている時は不安を表しているわ」
次々と犬の知識について語る理沙。心理学も学んでいる理沙だが、まさか、犬の心理にも詳しいとは。比べるのも失礼な気はするが、ククル族との交流では役に立ちそうな知識だ。
「触ると喜ぶ場所とかもあるの?」
僕はワンちゃん博士に問いかける。
「眉間から鼻のラインを撫でると喜ぶわよ。後は耳の後ろから背中にかけてとか、顎の下なんかも鉄板ね」
スラスラと出てくるなー。
僕は理沙に教えてもらった知識を活かし、果敢に子犬達と触れ合う。
「あぁ、モフモフだな」
僕が子犬達を撫でると、気持ち良さそうに尻尾を振り返してくれる。なんだ、このギブアンドテイクな関係は! こちらも癒されあちらも喜ぶ。ここまで需要と供給がマッチする現象があったとは驚きだ。
「友達も多くて、動物にまで好かれるなんて、神様は不公平にパラメーターを割り振っているわね」
心なしか、拗ねたような声音で呟く理沙。
「理沙にだってその子犬ちゃんが懐いているじゃないか?」
「まぁ、そうね。私にはこの子だけで十分。私は不器用だから、いつだって一つで十分なのよね」
そう言って、愛おしげに、自分の腕におさまっている白い子犬を優しく撫でる理沙。
それから、しばらく子犬達とたわむれた僕達は、夕方頃に店を出た。
ふと、今朝考えていた、イデアと地球の時間の流れについて思い出した僕は、脈略もなく理沙に問いかける。
「理沙は時間の流れについてはどう考える?」
「随分と唐突ね、少なくとも、帰り際にぽんっと答えられるような問題ではないわね。相対性理論みたいな大きなくくりの話?」
理沙が顎に手をあてながら考える。
「軽くでいいからさ」
不意に理沙の意見が知りたくなっただけだ。
「少なくとも私には、今日の時間はあっと言う間に感じたわよ。哲也はどうか知らないけれどね」
「僕もあっと言う間だったよ」
動物のいるカフェに行ったのは初めてで新鮮味溢れる体験だった。
「あら、残念ね。これで哲也が時間を長く感じていれば、同じ時間を過ごしたはずの私達の感覚のズレによって、相対性理論が簡単に証明されたのに」
微笑を浮かべながらも、楽しそうに語る理沙。その面差しは、子犬達と触れ合っていた時とはまた違う魅力を湛えている。もし、理沙に尻尾が生えていたなら、今この瞬間には、どんな反応を示したのだろう。大きく振ってくれただろうか。ふと、そんな取り留めない思考が頭をよぎった。




