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世界で唯一のフィロソファー  作者: 新月 望


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第五十三話『心の傷』

 秋も深まり、張り詰めた青空の下に、頬を撫でる冷たい風が吹く。千葉の秋は意外にも寒い。うだるような夏の暑さが嘘だったかのように、新たな一面を見せはじめる。


 今日は朝から講義を受け、現在は図書館のある別館にまで、移動している最中だ。


 肌寒い空気が首筋を撫でる。僕は室内の温もりを求め、入り口の扉に素早く手をかけた。


 今日の目的は、心理療法や精神療法について書かれた本だ。ウェスタ王女という命の恩人に頼まれた以上、出来るだけの準備をして、精神治療の依頼に臨みたい。精神魔法による精神の治療に、この世界の知識がどこまで役立つかはわからないが、知っておいて損はないだろう。


 目的の本棚の前で足をとめ、分かりやすそうな本を数冊選び、棚から抜き去る。


『PTSD(心的外傷後ストレス障害)とは、強烈なショック体験や強い精神的ストレスが心の傷となり、そのことが何度も思い出され、恐怖を感じ続ける病気である』


 最初の数ページは、僕でも知っているような情報が書かれている。


『症状には、繰り返される悪夢や強度の抑鬱症などがあり、酷いケースでは自殺などがある』


 理沙と見にいった戦争映画のワンシーンで、主人公がPTSDにかかり、戦場の記憶を突然思い出し、パニックに陥いるシーンがあったな。

 実話をもとにした映画だったので、妙に印象に残っている。


 そんな記憶を思い出しながら、ページをめくっていると、治療法について書かれたページが目にとまった。その中でも、特に目をひく文に視線を落とす。


『持続エクスポージャー療法。トラウマとなった場面をイメージし、安全な場所でその記憶を思い出すことで、その記憶を思い出しても、危険は無いと言うことを実感させる治療法である』


 なるほど、この治療法は精神魔法との相乗効果が高そうだ。精神の同調により、患者が思い出している記憶も共有することが出来れば、心の傷の原因が明確にわかるはずだ。しかし、言わずともわかることだが、患者と記憶を共有すると言うことは、その記憶に触れる側の人間にも心の傷が残る危険性がある……。


 そんな考えが頭をよぎった瞬間、背後から不意に声をかけられた。


「あら、心理療法の本?」


 僕が広げている本の内容を見て、興味深げに問いかけてきた理沙。

 いつの間に、後ろにいたのだろう?

 何かに集中している人間が、いかに無防備な状態にあるのかがわかる。


「あぁ、ちょっとね」


 一から事情を話すわけにはいかない。


「そういえば、この間の井上教授の講義でもPTSDについての話が出たわね」


 理沙が僕の正面の席に座りながら言った。


「そうだね、アメリカの名誉負傷勲章についての論争だったよね?」


 アメリカ軍は戦争における敵の攻撃によって、負傷もしくは死亡した兵士に、勲章を授与し、退役後の生活を保障している。


「えぇ、問題になったのは、その勲章を授与する基準についてよ」


 記憶を振り返りながら、理沙が言った。


「あぁ、体に傷を負った兵士は勲章を授かるのに、PTSDなどの精神への傷は勲章の対象にならないのが問題になっていたね」


 心の傷は客観的な診断が難しいというのもあるのだろうが。


「心の傷は、精神の弱さとみなす、軍隊の姿勢が透けて見えるような話よね」


「うん、アメリカに限らず、日本にもそう言った空気は流れているよね。うつ病で、学校や会社などを休む人を弱い人間として捉えている人は一定数いるからね」


 他人の心を直視出来ない以上、この問題に、正解はないのだが。


「精神を強弱で語ること自体が、私にはしっくりこないわね。強いとか弱いっていうよりも、タイミングとかリズムの類だと思うの」


 相変わらず、独特の言葉を選ぶ理沙。


「まったく同じ人でも精神状況によって、振れ幅が大きくなるからね」


 僕なりの解釈を理沙へと披露する。


「まぁ、そんな感じね。安定と不安定。調和と不調和。波のイメージかしら? まぁ、様々な状況が様々な精神状況を作り出すというか」


 自分でも言いたいことが言い切れてはいないのだろうが、不安定なイメージをなんとか形にしようとする理沙。


 「確かに、周囲の状況によって精神状況は大きく左右されるよね。それでも、心のキャパシティみたいなものには、個人差があると思うし、それを強弱と呼ぶのなら、僕は心の強さにも強弱はあると思う」


 そして、その差があるが故に、強靭な精神を要求する文化が生まれ、戦場という異常な状況において、戦争の暴力が健全な精神すらも傷つけるという事実を隠してしまっている。


「うーん……」


 半分は納得、残り半分は消化不良といった所か。あごに手をやり、静かにうなる理沙。


 精神魔法の素養に差があるということは、精神の強さにも強弱があることを示しているのだが、これを根拠として口にするわけにはいかなかった。


 精神の強弱に疑問を持っている理沙だが、彼女もまた、強靭な精神を持つ一人だと思う。まぁ、こちら側の僕は、彼女の精神を覗くことが出来ないのだから、こればっかりは説明のしようがない。

 それに、精神の構造は複雑で、そのメカニズムの多くは、科学でも哲学でも、証明しきれていないのだ。


「あ、糸くず」


 脈略もなく、不意に理沙がそう言って、僕の肩にのっていたゴミを白く細長い指で摘む。その際に彼女の華奢な体が僕に触れ、僅かに体温を伝えてくる。それと同時に、その黒く長い、真っ直ぐな髪が僕の首元をくすぐり、清潔感のあるシャンプーの匂いがふわっと香る。触覚と嗅覚が同時に刺激された。


 まいったな。先ほど理沙が言った考えの方が正しいのだろうか。そう思える程には、今の僕の精神は荒波のごとく強く揺れ、動揺していた。


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