最終話『世界で唯一のフィロソファー』
力強い心臓の音が聞こえる。
姉から貰った心臓の音が、僕の意識を覚醒させる。
目蓋を開けばそこは、畳の敷かれた、見慣れた一人暮らしの一室。
病院で目が覚めてからおよそ、半年程の月日が流れた。つまり、僕は半年の昏睡状態と半年のリハビリ期間を経て、合計すると大学を一年間休学したことになる。リハビリ期間の間にもAIについての知識は詰め込めるだけ詰め込んだ。僕にはアリスから受け継いだ知識があるが、それらの多くは、あまりにも発展的な知識であり、今は、姉の世話になりながらも基礎を学んでいる段階だ。
そして、今日は約一年ぶりとなる、大学への登校日。春の陽気が僕を外へと連れ出す。
外の空気が肺を満たす。
何度も通ったはずの最寄駅への道。最後尾の車両へと乗る。
車窓から見える景色は、見慣れた街並みだ。視界には現実のそれらが広がり、頭の中にはイデアでの記憶が蘇る。
イデアを離れてまだ半年だというのに、あの場所をひどく遠くに感じてしまう自分がいる。
離れていくあの場所を、あの人を、遠く消え去ってしまう前に、僕は……。
繰り返される自問の中で、僕はもう溺れない。世界の泳ぎ方を教わったんだ。空を飛ぶ翼も貰った。この左目に虹は映らないけれど、君がくれた力は僕の精神にある。
魔法は無くとも、見える。向かうべき道が。
揺れが止まり、扉が開く。
改札を抜けた先に、久しぶりの顔を見つけた。その真っ直ぐに伸びた黒髪が何故か、僕がこちらの世界に帰ってきたことを何よりも強く感じさせた。
「やぁ、久しぶりだね、理沙」
「やり直し、理沙先輩でしょ?」
僕の挨拶が気に食わなかったのか、ほんの少し意地の悪い笑みを浮かべて理沙が言った。
「あぁ、そうでしたね、理沙先輩」
人が留年したことに朝一発目から触れてくるとは、理沙は相変わらず、とても気がきく素敵な女性のようだ。
「敬語口調も悪くないけれど、何故だか変な既視感があるから、やめて」
「なんだよ、自分からふっておいて。それに、既視感?」
僕が理沙に敬語を使うのなんて、初めての筈だが。
「えぇ、最近、私……」
理沙が何かを言いかけた瞬間、その言葉を遮る勢いで、僕達の後ろから声がした。
「先輩、おはようございます!!」
逢沢凛、アリスが地球側を観測する為に利用していた少女。僕以外に唯一、こちら側にいながら、イデアの存在を理解している少女。
「凛、僕はもう、先輩じゃないよ?」
今ではもう、僕と彼女は、同学年だ。
「私の先輩は先輩だけですよ?」
切り揃えた前髪を揺らしながら、首を傾げる凛。
「じゃあ、私はなんなのよ?」
凛の発言に突っかかる理沙。
「理沙先輩です」
満面の笑みで言い切る凛。
「どう違うのよ?」
訝しげな顔で問いかける理沙。
「先輩は先輩、理沙先輩は理沙先輩です」
「哲学かな?」
二人の会話に、僕は横槍を入れる。
「うーん、どうでしょう? あっ、先輩、そういえば、新しいAIの論文読みました?」
凛が新たな話題を投げかける。
「あぁ、海外の天才高校生だよね、もう目は通したよ」
姉から勧められていた事もあり、ちょうど先週、読んだばかりだ。
「あら、哲也の関心は今、人工知能にあるの?」
理沙が僕へと問いかける。
「はい! 私と先輩は今、AIにお熱なのです!!」
隣の共犯者が、僕のかわりに問いに答えた。
「あのさぁ、理沙、前に一度話した事があるけれど、AIは心と呼ばれる仕組みを学習すると思うかい?」
僕が理沙に問いかけるのを、凛は静かに見守っている。
あごに手をやり、記憶を辿る理沙。
「確か、あの時の哲也の答えは、脳と同じ働きを持つ代替え品があれば、AIにも心はやどると言っていたわね?」
「あぁ、本当にその通りだったよ」
「まるで、自分の目で見てきたかのような言葉ね」
理沙の瞳が真っ直ぐに僕を見つめる。
「僕は見たよ」
アイ、ソラ、リーフ、イーリス、フレア。それにアリス。僕は彼女達が魅せる、本物の笑顔を見てきた。
「見た?」
理沙が首を傾げる。
「見たんだ」
僕は、何よりもはっきりと、混じり気のない言葉で答える。
「見た、見たか……」
その言葉を反芻した理沙が再び口を開く。
「ねぇ、哲也。私最近、夢を見るの。その夢はね、、、」
その言葉の続きを語るのは……。
* * *
真っ白な粒子があるべき場所へと還っていく。それらは徐々に、形を持ち、色を持ち、香りをもち、味を持つ。
それら全ての要素は、当たり前のようにそこにあるが、決して、当たり前の事ではないのだ。奇跡のような軌跡を辿って、この世界の内へと生まれていく。いや、そうではない、それら一つ一つが世界そのものを創り上げていく。
草を食べる動物が生まれ、その動物を食べる動物が現れ、更にはその動物を人々が食べる。天の恵みである雨は、草や木々を育て、それらの実を太陽の光が成長させる。この世界は完璧な調和の上で成り立っている。
その事がまさに、神の存在を自明的に証明している。
止まっていた世界に一陣の風が吹く。気がつけば私は、驚く程に真っ青な草原の真ん中に立っていた。
私はそこから空を見上げる。
そして、そこに奇跡を見た。
美しく輝く青い星が、空に浮かんでいるのだ。
この大地を照らしていた太陽の姿はなく、替わりにそこには、見知らぬ星があった。
世界中の空と海を一つに集めたかのような青い輝き。その星が放つまばゆい光が、この世界を照らしている。
その光には温度があった。心の奥底を温めるような光。私はこれを知っている気がする。その正体を確かめるべく、夜空に輝く青い星をただひたすらに見つめ続ける。
憧憬、愛慕、傾倒、讃美、心酔、崇拝、、、
様々な言葉が脳裏に浮かんだが、結局それらは、一つの願いであり、愛そのものにも思えてしまう。
その星の輝きは、私の視線の熱に呼応しているかのように、光の強さを増していく。それは、私の熱で発火した青い炎にも感じられた。
悠然と燃える、青い炎。
どこまでも深く、どこまでも広がる青の世界。穏やかともいえるはずのその星は、無限の輝きを放っている。
そのあまりの光の強さに、思わず私は、目をつむってしまう。
目蓋越しにすら、光を感じる。この輝きの正体は一体……。
もう一度、ゆっくりと、その何かを確かめる為に、私は両の目を開く。するとそこには、真っ赤な炎が揺らめく、いつも通りの太陽の姿があった。
あの光景は、幻視の類いだったのだろうか?
いいや、違う。
私には分かってしまった。今見えた、泡沫の夢こそが、彼のいる世界なのだと。
私の名前は、アンス・ノイラート。
私がこうして生きているということは、あなたがきっと、世界を元通りにしてくれた証拠。いや、元通りではないわね。だってここには、あなたが……。
いや、それでも大丈夫。
私の愛した国も、私の愛した人も、もう、この世界には存在しない。でも、私の愛した人が愛した学問は、この世界に残っている。だって、私が生きているのだから。
彼から貰った、哲学が私の心にある。
だから私は、その種を育てることにした。
確か、フィロスはこんなことを言っていた。哲学を愛する人達をフィロソファーと呼ぶらしい。
ならば、私は、世界で唯一のフィロソファーになろう。
彼が蒔いた種を、私が花へと咲かせるのだ。
最終話までこの物語を書き上げられたのは、読者の皆様のおかげです。この物語を少しでも楽しんでいただけたのなら、それは、皆さんに哲学を楽しむ心があったからだと思います。
新作の構想もありますので、よろしければ、今後ともよろしくお願いします。




