第百三十七話『僕らの道』
君から貰った瞳ですら、この空間に色を咲かすことが出来ない。
あたりを見回しても、一面に広がるのは黒一色。空間の広さどころか、今、自分がどこに立っているのかすら分からない。
「この空間は黒いわけじゃない、ただ単に暗いのさ。光があたらず、色を忘れてしまった場所なんだ。僕にだって、君と同じ色があったはずなんだけれどね」
闇の中から、声がした。それは、とても聞き馴染みがあって、それでいて、初めて耳にするような違和感を伴っていた。
「誰?」
僕は目の前の虚空へと問いかける。
「僕は君のあらゆる結末さ。例えば、あの時、アリスにチェスで勝てなかった君でもあり、戦いでアイを失わなかった君でもあるし、哲学を学ばなかった君、倉橋理沙と出会わなかった君、イデアと繋がらなかった君。僕は君の様々な君なんだ」
その声は諭すように僕へと語りかけてくる。
不思議と僕は理解する、目の前の虚空は、僕ではない、僕なのだと。
そこに、動揺はなく、不思議と話を続ける気になった。
「多世界解釈? 可能性の話?」
僕は再び、目の前の虚空へと問いかける。
「多世界解釈については、地球とイデアを行き来している君にとって、抵抗の無い話かも知れないね。まぁ、厳密に言えば、違うとも言えるけれど、この場はその理解でも問題ない。うーん、しかし、可能性か、それはあまり、適していない言葉だ。結末は一つだからね。あの日僕は死ぬ。世界は最初から分岐していて、君はその中の一つの君だが、どの道、君は死ぬ。文字通り、どの道を選んでもね」
目の前の虚空は、僕に死を宣告する。
「根拠は?」
「それは、あらゆる僕たちが証明してきた。あらゆる死をもってね。僕たちの中には当然、アリスから手を差し伸べられた者も大勢いた。しかし、そのどれもが失敗した」
「だから、僕も死ぬと?」
「そうだ、どうして君だけが特別な結末を迎えられると思う? 君だって科学は信じるだろ? その科学だって、ほとんどは結果論に過ぎない。観測した結果が偶々そうだったから、決まる。それは覆らない程の回数を重ねて出た結論だ」
確かに、地球における科学には、そういう所が多々ある。結果と式が偶然に一致しているものさえあるだろう。だが、それでも、数えきれぬ程の膨大な試行回数がそれらを裏付けしてしまっている。
しかし、目の前の僕たちがそうだったからといって、この僕までもがそうだというのは、思考の放棄に他ならない。それ故に、僕は再び口を開く。
「僕たちが生きる世界には、目的論と予測不可能性が共存している。それは、誰かの手によって紡がれた架空の物語の登場人物と同様に、僕たちも、次に何が起こるかを知らずに生きている。確かに、僕たちの人生は、未来に向けて投影された、何らかの形を持っているのかも知れない。それでも、人生は選択の連続だ。分かれ道がくれば、どちらの道が自身にとって価値のあるものになるかを考える、そうやって、未来を形作るのが人間だ」
だから僕たちは選び続けるのだ。
「あぁ、そうだね。今の積み重ねが未来を作る。じゃあ、その未来の形があらかじめ決まっていたとすれば、どうする? 僕たちの行動が未来の色を変えることはあっても、形までは変えられないのだとしたら?」
虚空が僕へと問いかける。
「君のいう結末が死だというのなら、君たちは一体、なんなんだ? 臨死体験はあり得ても、死の体験はあり得ない。体験する主体そのものが消滅するってことだろ? まさにその体験がありえないことこそが、死の根本的な意味だろうに、君たちがこうして僕に語りかけていること自体が君たちの生を証明しているんじゃないのか?」
当たり前の事だが、死は語り得ないのだ。
「死は、あらゆる体験をする自身が消えてなくなる事だから、ここに僕たちの意識がある以上、僕たちは死んでいないと?」
虚空が僕へと問いかけるのと同時に、闇が僅かに、その濃度を増していく。
「この会話が何よりの証拠では?」
「死んだこともない君が知ったふうな口を」
虚空の語気が強まるのを感じる。
しかし僕は、止まらなかった。
「死を体験することは不可能だ。ならば、死そのものに恐怖を感じることはない。死ぬのが嫌なんじゃない、生きられなくなるのが嫌なんだ。死は、もともとあった何かが、そこにあり得たはずの何かが失われることだ。いずれ失われるという一点が、生の価値を際立たせている。死んだはずの君らが、こうして精神だけで生きながらえていることで、自身の生の価値を下げているんじゃないのか?」
暗闇の先に、僕は思い切り、自論をぶつける。
「言うじゃないか? ならば、見せてあげるよ、死を」
その言葉と同時に、大量の記憶が僕へと流れ込んできた。それは、この世のあらゆる死を再現した記憶。全ての終わり。
死、死、死、死、死、死、死、死、死、死。
その過程に意味などなかった。この結末は覆らない。それは、生物の限界点。
虚空が再び僕に問う。
「全てが決まった世界に生きる意味はあるのか?」
僕はその問いを受けて確信した。
なるほど、それは絶望的な世界だ。
だって君たちには……。
「この世には、生まれてきた意味も、死んでいく理由もない。だから世界は美しい。君たちと僕の、たった一つの違いがわかったよ。君は彼女に貰わなかったんだ。きっと君たちは、あの瞬間、あの子を傷つけずに済んだんだね。僕は君たちよりもずっと愚かだったんだ。モノクロの闇にのまれた僕だけが、彼女に新たな色を貰った。君らからすれば、あまりにも理不尽で救いのない話だ。ならば、せめて、僕が君たちを照らさなくてはいけないね」
僕は左目に意識を注ぐ。
「ラルム、力を貸してくれ」
僕は声に出す。君の名が、力を与えてくれるから。
あぁ、君の温度が世界に浸透していくのを感じる。
僕たちの暗闇に、新たな色が咲く。
目の前には様々な僕がいた。それは、フィロスであったり、哲也であったり、あるいはその両方であったり。色や形の違いなど関係ない。
今ならわかる、これら全てが僕なのだと。
「ありがとう、そしてごめんなさい」
きっとあの瞬間に間違った選択をしたのは僕だけだったのだろう。そしてそれが、新たな形を残す為の、唯一の鍵だったのだ。だから僕は、多くの先人に感謝し、あやまる必要があった。
「なんだよ、最も愚かな君だけが、答えに辿り着いてしまったのか。運命の正体ってのは、運そのものなのか? いや、運なんてのは、選択の連続が引き起こした必然か、まったくこれだから世界は……」
目の前の僕たちは、呆れにも似た笑顔を浮かべている。そしてゆっくりと、新たな光に溶け合い、僕の中へと収束していく。
多くの死を破ったのは結局、僕の愚かさと、君からの愛だった。




