第百三十四話『最期の魔法』
色のない、静かな空間。色がないという言葉を聞いた時、頭に浮かぶイメージの多くは白色だろう。しかし、この空間には白すらなく、無という状態が存在するなら、これはきっとそれに近い。
そんな空間に、ぽつぽつと記憶の雨が降ってくる。それは、自身の名前であったり、家族の事であったり、友人と語り合った思い出だったりする。
この空間での僕は、色のないバケツだ。
記憶の雨が、バケツを満たし、溜まった中身が、僕に色と輪郭を与える。
新谷 哲也、それが僕のもう一つの名だ。哲学科に所属するごくごく一般的な大学生。そんな僕にも一つだけ、悩みがある。
僕は眠りにつくと起きるのだ。
イデアという世界と、地球という世界を、夢を介して行き来している。
しかし、そんな悩みも今や、ある結末を迎え、解決したともいえる。
地球側での僕は交通事故にあったのだ。完全に僕の過失だった。どうして、こんなにも重要なことを忘れてしまっていたのだろうか。イデアにおける時間では、二年もの月日が流れてしまった。地球では一体、どれくらいの時間が過ぎているのだろうか? いや、そもそも、哲也としての僕は生きているのだろうか?
僕は自身の記憶の流れを眺めながら思考する。
『あぁ、やっとここまで来れたんだね。後は仕上げだ。醜い自分と向き合い、統べる力を手に入れなくては』
その声は、僕の思考を断ち切るようにして、不意に意識へと語りかけてきた。
『アリス・ステラ……』
僕はその声の主を知っている。姿形は見えないが、彼女はすぐ近くにいる。
『まったく、君は、自身が死にかけている瞬間も他人事のように死を見つめていたね?』
『それは……』
確かに、僕は自身の死をどこか他人事のように感じているふしがあった。
『今から君には、私の味わった苦しみをお裾分けしてあげるよ、自身を他者に置き換えてみるといい』
その言葉の直後、色づき始めていた僕のバケツは歪み、中身が溢れるのを感じた。
目の前には、赤信号の横断歩道。道路を挟んだ先には、姉の姿がある。姉の瞳には色がなく、その視線の先には僕しかいない。
赤信号など見えていないのか、姉は当たり前のように、こちらへと走ってくる。
激しいクラクションが鳴り響く。
それでも姉は止まらない。
そして彼女は、勢いよく轢かれた。
当たり前の結果として。
僕の中を満たしていた雨が一気に蒸発するのを感じる。
僕は否定した。
これは夢だと。
すると、今度はどうした事か……。
目の前で姉が、見知らぬ男に刺されている。
違う、夢だ、夢だ!!
そこからの旅は地獄そのものだった。
謎の病で倒れ伏す姉、自殺する姉、天災に巻き込まれる姉。
結果は一つに収束する。姉の死を残して。
『こんな世界なら、見えない方がマシだ……』
僕のその一言が、意識を再び、彼女達の元へと帰す。
* * *
目の前には、二人の少女がいる。翡翠の瞳に警戒心をやどすアンス王女と、様々な色が複雑に変化し合いながらも、何かを悟ったような瞳でこちらを見つめるラルム。
先程の姉の死のイメージが、脳内にこびりついて落ちない。
視界からは徐々に色が薄れていく。
繰り返し再生される死が、僕の世界を白黒に染める。
「に、逃げて……」
身体の支配権が僕から僕に移り変わるのを感じる。
まったく、君ってやつは、どこまで調子の良い男なんだ。見たくないものは、全部僕にお任せってわけかい? 逃げたのは君だろ? まったく愉快な奴。
君がそんなに体たらくなら、僕が全部消してやるよ。僕の隅っこで見てな、見られなくなるまで、いや、見なくていいよう、綺麗さっぱり消してやるからさ。
全てはあらかじめ決められているんだ。生きることも、死にすら意味がない。問いが間違っているのに、いつまで答えを探しているんだ。
生まれてきた意味、正しさの証明、宇宙の真理、神様の有無、それらを語ろうとすれば、その論理の外に出なきゃならない。君も知ってる有名な話だろ?
言葉がどうやって世界を切り取っているのかを、言葉そのものでは説明が出来ない。
「間違った問いに答えちゃいけない、間違った問いなら、問い自体を消さなきゃいけないだろ?」
「フィロス!」
僕の異変を察知した少女が一人、こちらに向かって叫んでいる。
「消え、、、」
消えろ、そのたった三文字が、発せられない。
なぜだ、自身の口が僕の支配下にない……。
「アンス、僕の視界に入るな、背中から僕を取り押さえるんだ」
紡ぐはずのない言葉が、自身の思惑とは別に、勝手に口から溢れ出す。
畜生、この人格は警戒していなかった!!
一瞬ではあるだろうが、身体の主導権が奪われるのを感じる。
「アンス、記憶を失っていたこの僕にとっては、君が全てだった、この僕は消えてしまうけれど、君の心の隅にでも置いてくれるのならば、それ以上の事はない。さぁ、今のうちに!!」
僕の言葉足らずな叫びだけで、彼女は状況を理解したようだ。その表情を見ればわかる。だって僕の二年間の人生は、君だけを見ていたのだから。
「約束するわ、私はあなたを忘れない」
彼女の翡翠の瞳からは、許容値を超えた涙が溢れ出している。その瞳には、この瞬間の僕だけが映し出されている。
「アンス、ありがとう……」
その言葉の直後、僕の身体は愛する人の拘束を受け、自由を失った。
「ラルム、お願い、フィロスを!」
アンスの声が後ろから響く。
「うん、その為に、私がいる。でも、私の全力でも、引き戻せるかはわからない。だから、アンスちゃんは絶対にフィロス君を離さないでいてね、私に、何があっても……」
「畜生が離せ、離せ!!」
ようやく、身体の主導権が戻ってきた。だが、背後の女の拘束を解く手段がない。
為す術もなく、ただただ、前を向かされる。
正面からは、モノクロの世界を無視するかのような、目が焼け落ちる程の強烈な色彩を放つ少女が、一歩、二歩と近づいてくる。
暴力的なまでの色を放ち続ける少女が、捕らえられた僕の瞳を覗く。
急激に色が染み渡ってくる。
そして、彼女は答える、僕の心に。
「生まれてきた意味も、死んでいく理由もないのなら、こんなに素敵なこと、他にないよ。私はフィロス君が好き。意味がないのなら、好きって気持ちの在り処も自由なんだよね。ごめんね、私、きっとあなたが思い描いた私にはなれなかった。絵本の中の泣き虫な少女にはね。でも私は愛を知った」
小さな声のはずなのに、その言葉は僕の心のどこかを震わす。
あぁ、全てを肯定するな、それは諦めることと何が違う、僕にはわからない。
「そんな目で僕を見るな!!」
明確な拒絶の意思を持って、今までで最大の力を込めた命令を放つ。
その言葉を正面から受けた少女は、自らの右目を自身の素手で抉り取り、投げ捨てた。
しかし、それでも、目の前の少女は揺るがない。
彼女の右目のあった位置からは、虹色の血が流れている。それは次第に僕の心を染める。
彼女から僕へと、命が流れ込んでくるのがわかる。
次第に少女に残された左目からは色が薄れ、それに反比例するかのように、僕の左目には少しずつ色が満たされていく。
背中を拘束する少女の腕が、震えている。
「人を信じられる心をくれてありがとう。私からのお返しがこれで足りるかはわからないけれど、私の力であなたは生きて。そして、私は、あなたの瞳の中で生き続けるの。 一緒に色んな景色を見ようね、私に愛を教えてくれてありがとう。これが私の最期の愛、、、トレース……」
彼女の全てが、左の瞳を通じて流れ込んでくる。冷たさも温かさも、余すところなく。
あぁ、君の世界は美しい。
僕は何かに導かれるように、ゆっくりと目蓋を開ける。
右目には白黒の世界、左目には虹色の世界が広がっている。
生死に意味がないのなら、優しさや愛にも意味なんてない。
「意味なんて、ないんじゃなかったの?」
僕は小さく問いかける。瞳から色を失った目の前の少女に。
右目からは白黒の涙が、左目からは虹色の涙が溢れる。
背後からは、声を殺して静かに泣く声だけが聞こえる。
僕の身体を拘束していたアンス王女の力は抜け、僕は床へと倒れ伏す。
床に混ざり合う涙は、僕と君の……。




