第百三十話『月と太陽』
夜空を照らすお月様は、日毎に満ち欠け、その姿を変えていく。新月から始まり、満月へと。それは確かな時間の流れを感じさせる変化だ。
アンスと話し合ったあの夜は、弓の形をした、綺麗な三日月が空へと浮かんでいたはずだ。それが日を追うごとに丸みを帯びて、その全貌を露わにする。今宵の月は、満月だ。欠けている僕が見るには、あまりに強い光。天高く輝く満月の光は、小さな星々の光をかき消してしまう。
欠けた気持ちのまま、時だけが満ちてしまった。
こんな考えが過ぎるのは、感傷的になっている証拠だろうか。
真っ暗な廊下を月明かりが照らす。
もう何度も往復したこの廊下を、音を立てぬようにひっそりと歩く。僕を監視しているのは月明かりだけだ。
今日はノックはいらない。余計な音はなるべく立てない方が良いからだ。
彼女の部屋の扉をゆっくりと開ける。
部屋の中央にはすでに、黒色のレザーアーマーに身を包んだアンスが待っていた。その腰には細剣が装備されている。
「お待たせ」
僕は部屋の主へと語りかける。
「むしろちょうど良いタイミングだったわ」
月明かりに照らされたアンスが静かに返事をした。
「武器はどこから調達したの?」
僕はなるべく、声のボリュームを抑えて問いかける。
「大丈夫、安心して、フィロスの分もちゃんとあるわよ」
アンスはそう言いながら、壁にかけられている大きな絵画を取り外す。絵画が退けられた場所には、他の場所と変わらない、なんの変哲もない壁があるのみだ。その壁に向かって、アンスが拳を構える。そして、勢いよく、壁に向かってその拳を振り抜く。
彼女の拳が勢いよく壁にぶつかる。当然、部屋中に大音量の破壊音が響き渡ると警戒したが、その心配は杞憂に終わった。まるで、紙切れを破るかのごとくすんなりと壁にまん丸の穴が空いたのだ。
「ここの壁だけは、かなり薄く作られているの、ノイラートの王族にだけ伝わる抜け道よ、この先の道すがらに武器もあるから安心して」
無表情で壁に穴をあける少女の姿は、先程まで飾ってあった絵画よりも数段、迫力ある絵面に仕上がっていた。
隠し通路を作るのであれば、もう少し穏便な方法があるだろうに……。
しかし、この使い捨ての隠し通路が初めて使われたということは、彼女は別の場所で装備を整えたことになるが。
「えっと、アンスはどうやってその武器を準備したの?」
「さっき、宮殿内の武器庫に侵入したわ。どうしてもこの使い慣れた剣が良くてね。まぁ、元々私のなんだから、問題ないわよ」
腰の細剣を指でなぞりながら、淡々と語るアンス。
さらっと、リスキーな事をやってのけたようだが、それだけその細剣には思い入れがあるのだろう。
「よし、じゃあ、外に出るわよ」
壊れた壁の先に現れた、細長い道を指差し、アンスは言う。
こうして、密かに外に出れば、流石にヴェルメリオからの監視の目も掻い潜れるはずだ。
彼女の背を追い、出来たばかりの壁の穴を潜り抜ける。
非常時用の抜け道だというのに足元には、灰色の石で作られたタイルが丁寧に敷き詰められており、思っていたよりも歩きやすい。
真っ直ぐに伸びる薄暗い道を黙々と歩いていると、不意に、目の前のアンスが足を止めた。
何やら、床に敷かれたタイルを見つめているようだ。
「多分これね」
そう言って彼女は、床のタイルを一枚めくり、その下にある土を、手に取ったタイルで掘り始めた。
土を抉る静かな音の中に、何やら硬いもの同士がぶつかり合う、高い音が混ざり始めた。
その音の正体を土の中からゆっくりと取り出すアンス。
それは細長い銀色の箱だ。
箱の中身が気になる僕は、彼女の手元に意識がいく。
アンスがそのまま優しい手つきで箱を開くとそこには、一本の短剣が……。
「これは、お父様が残してくれた、特別な短刀よ。魔導具の一種で、特別な力がやどっているそうよ」
短刀の持ち手には、赤色の宝石が埋められている。
「特別な力?」
「私も力の内容は聞かされていなかったのだけれど、非常時に備えてのものだから、必ず役に立つはずよ」
そう言いながら、鞘に入っているそれを、僕に手渡そうとするアンス。
「そんな大事なもの貰えないよ」
この短刀はある意味、彼女にとっては形見でもあるのだから……。
「あげないわよ、貸すの。今はフィロスに持っていて欲しいだけよ」
そう言って、笑顔で短刀を差し出してくるアンス。
「わかったよ、ありがとう」
これ以上何かを言うのは無粋だろう。今は彼女の心意気を素直に受け取ろう。
僕は受け取った短剣を腰のベルトへとしっかり固定する。腰に確かな重みが増えたのを感じながらも、再び、真っ直ぐな道を歩き出す。
この先を考えれば、足取りは決して軽い物ではないが、先程よりも確かな重みが、僕の足をより前へ、より前へと進めている。
* * *
隠し通路を抜け、僕達は月明かりの下へと姿を現した。
冷たい夜風が意識をはっきりとさせる。
「迎えの人の特徴は?」
風に揺れる草原の中、辺りを見回すアンス。
「えっと、わからない……」
突然の出来事で、そこまで気が回らなかったのだ。
「まぁ、なんとなく、心当たりがあるから、大丈夫だとは思うわ」
周囲を警戒しつつも、すぐに返事をするアンス。
「良かった、なら、大丈夫そうだね」
アンスの言葉に安堵する僕。
「大丈夫じゃねーよ、俺がお前らを行かせねーからよ!!」
その声は、アンスと僕の警戒網にかかることなく、僕達の背後から、唐突に聞こえた。
「よう、フィロス、久しぶりだな? いや、今のお前にとっちゃ、初めましてか?」
すぐさま背後を振り返るとそこには、月の光に照らされた、真っ赤な少女が悠然と仁王立ちしていた。
周囲の草原を燃やし尽くしてしまうのでは、と一瞬そんな心配をさせる程に、その少女の髪がたなびく様は、激しい炎を連想させた。
「あなたは、リザ・ヴェルメリオ王女ですよね?」
僕はこの国の王女へと恐る恐る問いかける。
「そっか、やっぱりな、わかっちゃいても、悲しいもんだな……」
そう言って満月を見上げる王女の姿は何故か、彼女らしからぬように思えた。僕が言葉を交わすのは、これが初めてのはずなのに。
「リザ、なんであなたがここに?」
口を噤んでいたアンスが問いかける。
「わりぃ、あの日、部屋の前で盗み聞きしていたのは俺だ。そんで二人を止めにきたわけだ。俺はもう、失うのは御免だからよ」
「これはフィロスの選択よ、見逃しては貰えないかしら……」
アンスが複雑な表情で言葉を紡ぐ。
見逃すという言葉を選んだということは、目の前のリザ王女は、アンスよりも強い格上であるということだ。その事実が、急激に緊張感を生み出す。
「フィロスの選択? 違うな、そいつの選択だろ?」
そう言って、リザ王女は、すらっと伸びた白い腕で、背にある巨大な大剣を引き抜く。
「フィロス、構えて、迎えが来るまで、死ぬ気で耐える。それが今、私達に出来ることよ」
アンスが力強く叫ぶ。それは、僕というよりも、自身に言い聞かせているようだった。
「アンスと打ち合うのは、オグル族の里以来だな、お前が一番わかってるんじゃねーか? この先の結末を」
炎のような言葉が、熱をもってアンスを襲う。
「それでも、私は進むのよ!」
直後、アンスの姿はかき消え、金属音が鳴り響く。
二人の刃が混じり合う。
一人は黄金に輝く月の光を背負う少女、対するは、太陽の光そのものかのような、紅蓮の髪を揺らす少女。
二つの輝きが激しい攻防を繰り返す。
わかったことが一つある。
月と太陽が同時に現れない理由が。
それは、それぞれの輝きがあまりに強く、揃ってしまえば、人の心を強烈に揺さぶり、不安にさせてしまうからだ。




