第百二十九話『存在価値』
黒い蝶との邂逅から、数時間が経過した。僕は今、アンスの部屋へと向かっている。僕が相談出来る相手など、彼女の他にいない。
誰の姿もない長い廊下は森閑としていた。静けさが支配するその空間に、僕の足音だけが響く。
真っ直ぐに続く廊下を脇目も振らずにただひたすらに歩く。頭の中はぐちゃぐちゃにかき回されていたが、それ故に僕の足取りに迷いはなかった。この現状を整理するには彼女と話すのが一番だからだ。
目的の部屋の前へとたどり着き、僕は足を止めた。
「アンス、僕だけど、ちょっといい?」
扉を数回ノックしてから、この部屋の主へと問いかける。
「えぇ、いいわよ」
アンスの返事にしたがい、ゆっくりと扉を開ける。
部屋の中へと視線を移すと、そこにはもこもこの部屋着に身を包むアンスがベッドの端へと腰掛けていた。よく見れば、髪はしっとりと潤っていて、頬は上気し朱に色づいている。大きな翡翠色の瞳は僅かに眠たげに見えた。
僕の姿を視界におさめたアンスは、ゆっくりと立ち上がり、化粧台の引き出しから、髪留めを取り出して、乱れていた前髪を留めた。それから部屋の中央にあるテーブルの方へと向かい、手前の椅子へと座る。僕もテーブルを挟んだ彼女の対面へと座り、口を開く。
「その髪留め、とても大切な物なんだね」
それは、いつもアンスが身につけている髪留めだ。彼女の瞳と同じ、翡翠の髪留め。
「うん、これはその、ある人から貰ったの……」
愛おしいという感情が、その瞳から溢れてしまっている。それを僕には気づかれないようにと、気を遣っているのが分かる。
この反応をする時の彼女は、以前の僕を思い出している時だ。
なるほど、やっぱりだ。彼女に必要なのは僕じゃない。今の反応で、踏ん切りがついた……。
「アンス、僕に隠していることはない?」
「え?」
彼女の発した、たった一文字が震えていた。
「さっき、見たんだ。少女の首を……」
なんだか、要領を得ない言葉になってしまったが、あの状況を上手く説明するには、僕の知り得た情報はあまりにも少ない。
それでも彼女には充分だったようで、少しの間をおき、アンスが再び口を開く。
「地下に入ったのね……」
「やっぱり、アンスはあの存在を知っていたんだね?」
「どこまで思い出したの?」
「思い出した記憶なんて一つもない。彼女の首に触れた時、イメージが頭の中に流れこんできたんだ。あの少女が僕を庇って死んだ瞬間の……」
僕はありのままに起きたことを語った。
「私もその場にいたわけではないけれど、アイがフィロスを庇って今の状態になったのは間違いないわ……」
神妙な面持ちで静かに語るアンス。
あの少女の名前はアイというのか……。
「僕に記憶はないけれど、僕が彼女を死なせてしまったのなら、責任がある。知恵の塔という場所に行けば、あの少女は救われ、僕の記憶も元に戻るらしい」
流石に胴を失った少女が助かるとは思えないが、少なくとも僕には、あの少女のことを思い出し、向き合う義務があるはずだ。それが例え、今の僕を消滅させる事になったとしても。
「誰がそんなことを?」
僕の思考が終わるか終わらないかのタイミングで再びアンスが口を開いた。
「黒い蝶が僕に語りかけてきた」
「精神魔法による使い魔かしら、怪しいわね……」
顔をしかめて小さく呟くアンス。
「アンスは知恵の塔がどこにあるのか、知っているの?」
「知ってはいるわ、でも、今のフィロスを行かせるわけにはいかない」
僕の瞳を真っ直ぐに見つめながら、アンスが言い切る。
「次の満月の夜に迎えが来る」
間髪を入れずに、僕は意思表示をする。
「駄目よ、リスクが高すぎるわ」
「僕は記憶を取り戻したいんだよ!!」
力の限り怒鳴った。
僕の嘘が部屋中に響く。
僕がこう叫べば、彼女にはもう、手がないはずだ。
本当は記憶なんていらない。確証は無いが、僕が記憶を取り戻したその瞬間、今の僕は消えるだろう。上手く言い表せないが、漠然とした予感がある。しかし、それでも、彼女に必要なのは、以前の僕なのだ。
「本当にそれでいいの? 私は貴方に聞いているのよ?」
その問いの意味がわからない程に鈍ければ、おそらく僕は、幸せになれただろう。この選択はある種、自暴自棄にも見えるだろう。そしてそれは、限りなく正解に近い。しかし、やけになったのではない。自分に見切りをつけただけの話だ。それでもなお、僕に残った感情はアンスへのものだった。
ならばそれが、間違いであるはずがない。
「あぁ、僕は、取り戻さなくてはいけない」
彼女にとっての彼を。
「そう、、、貴方が言うのであれば、私にはもう、打つ手がないわ。だから一つだけ、条件を出させて貰うわよ?」
「条件?」
「その迎えとやらが来る場所には、私も一緒に同席するから。それが駄目と言うのなら、力づくで貴方を押さえつけるまでよ」
彼女の身体に力が巡るのを感じる。何度も手合わせしたからこそ理解出来る。今のアンスが本気なことを。
「わかったよ、というしかないようだね」
僕の返答を聞いたアンスは、一時的に強めていた身体魔法を緩める。
「わかればいいのよ」
そう言って、アンスが静かに頷く。
「打つ手がないどころか、僕の首を取りに来てるじゃないか」
「チェックメイトだったかしら?」
「え?」
聞き慣れない言葉に、思わず問い返してしまった。
「いや、何でもないわ。それよりも、旅の支度をしなくてはね」
一瞬、寂しさを感じさせる表情を見せたアンスだったが、すぐに話題を切り替えて話を進めた。
「そうだね、じゃあ、、、」
僕が口を開きかけた瞬間、アンスが急に立ち上がり、部屋のドアへと猛然とダッシュし、勢いのままに扉を開け放った。
「誰!?」
緊張感のこもったアンスの声が、部屋の外の廊下へと響く。
しかし、その言葉に返事はない。
「おかしいわね、確かに気配を感じたのだけれど」
首を傾げながら、室内へと戻ってくるアンス。
「アンスよりも速く動ける人間が、そうそういるとは思えないけど?」
僕はありのままに思ったことを口にした。
「うーん、それもそうかしら? でも、警戒するに越したことはないわ」
思案顔のアンスが静かに言った。
「確かにそうだね」
僕のその言葉は、どこか楽観的な響きを持って発せられたのが、自分でも分かる。
アンスの説得が一番の難所と決めつけていたのだから、それも当然だ。
悲観し、厭世的な僕は、それでも矛盾なく楽観的なのだろう。
自分を犠牲にすれば、ただそれだけで叶うと思っているのだから。それはもう、楽観的と言っていいのだろう。




