第百二十五話『唇と熱』
今から二年前、私は全てを失った。
ノイラートの地下に囚われていた私が解放された時には既に、全てが終わっていた。
戦争は当然、ノイラートの敗戦で終わり、ノイラートはヴェルメリオの領土となっていた。
師であるバールは生き絶え、お父様は首をとられ、お母様はどこかへと消えてしまった。ノイラートに残された唯一の王族である私は、リザの計らいによって生かされた。
私に残された唯一の希望であるフィロスは、意識が目覚めた時には記憶を失っていた。
ラルムの精神魔法によって私は、フィロス達の戦いの一部を覗き見た。あれ程までに凄惨で残酷な戦いを目にしたのは初めてだった……。
大蛇の攻撃からフィロスを守るため、自らの身体を賭して盾になったアイ。彼女の首が宙を舞った次の瞬間、そこには私の知らないフィロスがいた。
彼の目は完全に光を失っていた。
アイの首を抱えたフィロスは狂いきっており、その時の彼の言葉には絶対的な支配力のようなものが感じられた。それは、ラルムの記憶越しに見た私ですら感じ取れる程の強力なものだった。
フィロスはその絶対的な支配権を行使し、大蛇の首を絡ませて、その化け物を死へと追い込んだ。それから後ろを振り向いた彼は、おそらく敵であろう、怯えきった中年の男を言葉一つで殺してみせた。そして、何事も無かったように階段へと向かうフィロス。その背中に向かって、ラルムが声をかける。しかし、その言葉は彼の心には届かなかったようだ。その直後にフィロスは、リザにラルムを連れて逃げるようにと命令を下した。そう、あれは仲間へ投げかける言葉ではない、明確な命令だった。
そこで、ラルムの記憶は途切れていた。
もちろん、フィロスの記憶を取り戻したいという気持ちはある。しかし、それは同時にアイの死と向き合う事でもあり、下手をすると、フィロスの瞳からまた、光が失われてしまうかも知れない。
記憶を取り戻してあげたい気持ちと、今の穏やかな生活を維持したい気持ち。その心の葛藤が二年もの間続いている。
現状フィロスの中には三人のフィロスがいるのかも知れない。
一人目は、記憶を失う前のフィロス。
二人目は、ラルムの記憶の中で見た、瞳の色を失ったフィロス。
三人目は、記憶を失っている現状のフィロス。
一人目のフィロスを取り戻そうとすると、二人目のフィロスを目覚めさせてしまうかも知れない。そのリスクを考えると、私は二の足を踏んでしまうのだ。結果私は、宙ぶらりんな気持ちのまま、三人目のフィロスと過ごしている。
そもそもが記憶の復活自体が可能なのかはわからないが、少なくとも、ラルムの中にあるフィロスの記憶を彼自身に見せることは可能だ。しかし、そうなると、先程の二人目のフィロスが顔を出すかも知れない。そう言った経緯で、今のフィロスには、ラルムともリザとも会わせてはいなかった。どこに引き金があるかわからないからだ。
しかし、こんな状況にも関わらず、私には幸せを感じてしまう瞬間があるのだ。
二人で同じ食卓を囲む瞬間、ちょっとした会話の中でみせる彼の笑顔に、私は罪悪感を意識しながらも、幸せを感じてしまっている。
罪の意識と幸せと寂しさが混同した生活。
そんなことを日がな一日考えていた。
気がつけば朝陽が夕陽に変わっており、夕陽が月明かりに変わっていた。
窓から射し込む幻想的な光だけが、灯りを消した真っ暗な部屋を照らしている。
見慣れたはずの自室がまるで違う空間のように感じられた。そんな不思議な感覚から私を引き戻したのは、控えめなノックの音だった。
「入っていいわよ」
フィロスの銀色の髪が、月明かりを反射して、金色に輝いている。私と同じ、金色だ。それはまるで、私とフィロスの境界線を無くし溶け合わせる魔法のようで、なんだか、少し、変な気持ちにさせる。
この二年間でフィロスはかなり身長が伸びた。
記憶をなくしはしたが、見た目は成長によって変わっていくフィロス。私の中にいる二年前の彼とのイメージからは日々遠ざかっていく。
「こんな時間にごめんね、アンス」
二年前よりも少し低くなった声でフィロスが私に話しかける。
自分から申し出たことではあるが、敬語をやめたフィロスの話し方には正直、ドキッとしてしまう自分がいる。なんと言えばいいのか、とても恥ずかしい気持ちになるのだ。今も自分の顔が赤くなっているのを感じる。
そうして私が黙っていると、フィロスが再び口を開く。
「どうしたの?」
私の顔を覗き込むようにして近づいてくるフィロス。
「な、なんでもないわ、そ、それよりも、フィロスは一体、何の用事で来たのよ?」
火照った顔を隠す為、私は月明かりが当たらない部屋の隅へと移動する。
「魔法学について話がしたくて」
私の不自然な動きに対して首を傾げながらも、問いに答えるフィロス。
「あぁ、魔法学ね……」
正直、この二年間、私はフィロスを魔法学から遠ざけようと、あえてその話題には触れないできた。彼が再び精神魔法を使うことになれば、あの人格が再び現れるかも知れない。私はそのリスクを恐れたのだ。
「僕は元々、精神魔法師だったんだよね? なら、精神魔法を使えるようになれば、記憶も元に戻るかも知れない」
フィロスは真剣な眼差しで語る。
「そ、それもそうね、でも今日はもう遅いし……」
「じゃあ、明日は?」
一歩、二歩と、部屋の隅へと移動した私に向かって距離を詰めるフィロス。
「あ、明日は、その、久しぶりに外出許可が出たから、街へ出かけない?」
話題を別の矛先へと向けなければと、その一心で出た言葉だった。
「うーん、確かに、たまには気晴らしも大切か。わかった、明日は二人で出かけよう」
「えっ、あぁ、うん」
予想外にあっさりと納得したフィロスに、私は動揺したのだろう。足の力が抜け、そのまま地べたへと座り込む。
「大丈夫?」
そう言って、こちらに歩み寄ってくるフィロス。顔の距離が近づき、冷めてきたはずの頬に再び熱がこもるのを感じる。
「だ、大丈夫よ」
「本当に? 顔が赤いよ、熱かな?」
そう言って、私の額に自らの額を重ねるフィロス。
あぁ、心臓が破けてしまいそうな程に早鐘を打っているのがわかる。月明かりの届かない部屋の隅の暗がりですらわかるほどに、私の頬は紅潮しているのだろう。こうして近づくと良くわかる。二年前までは、私よりも小さかったフィロスの身体が、今では私よりも少し大きくなったことが。
彼の唇がまさに、目と鼻の先にある。
私はそれに触れてみたい。
ゆっくりと目を瞑り、少しだけ唇を尖らせてみる。
すると、フィロスの身体が強張るのが、何となくだが、気配でわかる。
目蓋越しからでも、彼の唇が僅かに近づいてくるのがわかり、私の心臓は破裂寸前だ。
薄く、目蓋を開けると、彼の唇が私のそれの数ミリ先にある。
その数ミリが無限の距離にも感じる。
「や、やっぱり駄目……」
気がつけば私はそう言って、顔を横に背けてしまっていた。この流れに身を任せては、きっと私は後悔する。こんな状況でするべきではない。
「ご、ごめん」
音の無い空間に、フィロスの声が響く。
「ち、違うの、私こそ……」
「大丈夫、分かってる……。君の瞳に映っているのは僕じゃない。えっと、その、明日、楽しみだね、じゃあ」
早口でそう言ったフィロスは、足早に私の部屋から出て行った。
月明かりに照らされた彼の背中はひどく遠くに見え、その背にかける言葉が見つからず、私は彼が出て行くのを見送る他になかった。
月の光と私だけが取り残された部屋には、静寂のみが鳴り続ける。無音が響き渡り、寂しさが熱を持って染み渡る。




