第百二十四話『夢から醒めた夢』
寝ぼけ眼を擦りながら、僕はゆっくりと身体を起こす。鮮やかな深緑色の掛け布団が上半身からずり落ちる。
家具の類は少ないものの、僕には不釣り合いな程に立派な部屋だ。テーブルの上には一冊の本が置かれている。背表紙の著者名には、フィロスと書かれてある。その四文字は確かに僕の名前だ。しかし僕にはその本を書いた記憶がない。いや、そもそもがほとんどの記憶が失われている。
今から二年前、大きな戦争があったらしい。ノイラートがまだ、独立した一つの国だった時の話だ。ノイラートはヴェルメリオに戦争を仕掛け返り討ちにあったという。その結果、ノイラートは国王の首と多くの兵士を失った。そして、ノイラートは一つの王国から、ヴェルメリオの領地へと成り下がった。その戦争で僕は記憶を失ったそうだ。
国王は死に、王妃は逃亡。ノイラートに残された王族はアンス王女のみとなった。僕はもともと、アンス王女に仕える従者だったらしい。
今もこうして、ノイラートの宮殿にて、アンス王女と生活がおくれているのは、ヴェルメリオの第三王女による計らいらしい。ヴェルメリオの領地となったノイラートを治めているのがその、第三王女であるリザ・ヴェルメリオ王女というわけだ。そんな経緯があって、今の僕は生かされている。そう生かされているのだ、ある意味で、生まれ変わるという奇妙な経験を経て。
自分自身が生まれた日のことを鮮明に覚えている人は存在するのだろうか? この答えを僕は知っている。少なくとも僕は、今の僕として生まれた日のことを鮮明に覚えている。何せ僕は、生まれてこの方二年なのだ。忘れるはずもない。僕は二年前にこの宮殿で生まれたのだ。
そう二年前のあの瞬間に……。
* * *
ここは死後の世界だろうか、色とりどりな黒が限りなく広がっている。様々な黒が埋め尽くすこの世界は、一見すると地獄のようにも思える。そうかと思えば、次の瞬間には、汚れきった白で塗り尽くされた天国のようにも感じる。色彩豊かな黒の世界で死に、虚飾に塗れた白の世界で生まれ変わる。この世界には救いのない命の流れを感じる。循環などではない。流れなのだ。ただひたすらに、下へ下へと流れ落ちる感覚。そうして、僕を僕たらしめている要素がひとしきり流れ落ちた瞬間、僕は死に、生まれたのである。
長い夢を見ていた気がする。
ここではない、別の世界での話だ。
見知らぬ真っ白な病室で目が覚めた。目の前には見覚えの無い少女が立っていた。
その子の翡翠色の瞳からは涙が溢れていた。
「どうして、泣いているの?」
何一つとして状況がわからなかったが、この時の僕が知りたかったのは、この少女を泣かせてしまっている原因だけだったのかも知れない。
「フィロス、フィロス、良かった、目が覚めて……」
少女の瞳からは止めどなく涙が溢れ続けている。
「フィロス?」
その言葉がこの美しい少女を泣かせているのだろうか。僕が発したその疑問が、どうやら目の前の少女をより焦らせてしまったようだ。
「フィロス、どうしたの? 何か、変なことでもあるの?」
切迫感のこもった表情で少女は早口に問いかける。
「フィロスとは誰のことですか?」
僕のこの言葉が、何かを決定的に壊してしまったのだろう。少女は膝から崩れ落ち、更に大粒の雨を降らすこととなる。
* * *
あの涙から二年、僕は今日も、僕であろうとした。
コンコンというリズミカルな音が部屋中に響く。
「フィロス、入るわよ?」
部屋の扉越しからは、機嫌の良い女の子の声が聞こえる。
「はい、どうぞ、アンス王女」
僕の返事のすぐ後に、部屋の扉が開かれ、少女が中へと入ってくる。そして開口一番、アンス王女が物申す。
「フィロス、私はもう王女じゃないの、その呼び方はやめてよね」
「すみません、何故かその呼び方で呼んでしまって……」
僕には、アンスという少女が王女だった時の記憶などないのに、どうしてか、自然と口が動いてしまうのだ。
「まったく、仕方がないわね。私はただのアンスよ、敬語も使わないでって言ってるでしょ?」
一瞬、寂しそうな表情を浮かべたが、彼女はすぐに明るい声音に切り替える。
「す、すみません」
思わず、頭を下げる僕。
「違うでしょ? わかった、でいいのよ」
心なしかお姉さん口調のアンス王女。
「うん、わかったよ」
僕はぎこちない返事をする。
「まぁ、及第点かしら、じゃあ次は名前を呼び捨てにしてよ」
最近のアンス王女はそのことについて、やけにこだわる。
「えっと、その、あっ、アンス」
スマートさの欠片もない対応だ……。
「そ、それでいいのよ……」
顔を真っ赤に染めたアンスがそう言う。
「そ、それで、今日は何の用事?」
敬語を廃した僕はテンポ悪く問いかける。これでも毎日、練習はしているのだが。
「えぇ、今日は少し、面白い話をしようかと思ってね。フィロスも昔、好きだった話……」
笑顔の中に見え隠れする陰が、何故だか僕の胸を締めつける。
「どんな話?」
僕がそう問いかけると、彼女は何か大切なものを思い出すように、優しげに語り出す。
「フィロスは神様を信じているかしら?」
僕の瞳を真っ直ぐに見つめながら、ゆっくりと問いかけてくるアンス。
「うーん、どうだろう。あまり、真剣に考えたことはないかな」
唐突な問いに、悩みつつも曖昧な答えを返す。
「フィロスは、青い空や、道端の花を見た時にどんな気持ちになる?」
「えっと、その、綺麗だとか、美しいだとか、そんな事を考えるかな……」
空よりも花よりも美しい翡翠色の瞳がすぐ目の前にあり、僕の言葉はより一層ぎこちないものへと変わる。
「その通りよ。澄みきった青い空も、健気に咲く白い花も、とても良く出来ているわ。そして動物の体はそれらよりも更に精巧に作られているの。私達の身体の仕組みともなると、信じ難い程に精巧に作られているわ」
宝箱から宝石を取り出すかのように、一つ一つの言葉を丁寧に紡ぐアンス。
「それがどうしたの?」
僕は当たり前の事実に首を傾げる。
「この世界には、草を食べる動物がいて、その動物を食べる動物がいて、更にはその動物を私達が食べる。天から降り注ぐ雨は、草や木々を育てて、それらの実を太陽の光が成長させる。この世界は完璧な調和の上で成り立っているの」
「確かにそう言われると整い過ぎている感じがするね」
その興味深い語り口調に、僕は自然と引き込まれていた。敬語をやめたことによる、言葉の硬さは自然と無くなっていた。
「そう、世界は不自然な程に整っているわよね? 人類にここまでの仕組みが生み出せるかしら」
金色の髪を僅かに揺らし、楽しそうに語るアンス。
「無理だろうね」
少なくとも僕には思いつかない。
「じゃあ一体、この世界はどうやって生まれたのかしら?」
彼女は何かを試すように問いかけてくる。
「人類を越える存在が世界を作った?」
世界が人知を超えた精巧な仕組みで出来上がっているのならば、それは、人知を超えた者が世界を設計したと考えなければ、説明がつかない……。
「流石はフィロスね」
そう言った彼女の顔には、慈愛が満ちており、僕は自然と女神様の存在を連想した。
「なるほど、確かに、女神様はいるのかも知れない」
僕は小さくつぶやいた。
「のみこみが早いわね」
そう言って、アンスは満足気に微笑む。
あぁ、しかし、僕は気づいてしまう。その微笑みが向けられた先は、僕であって、僕ではないのだ。こんなにも残酷なことが、他にあるだろうか。僕は満たされたと同時に干上がるのだ。そうして乾いた喉を潤す為に、また水を求めて、彼女の瞳を覗いてしまう。そこに、この僕が映っていないことを知りながら。
満たされては削られ、満たされては削られるのだ。




