第百二十三話『ピリオド』
僕は酸素を求めて、目を覚ます。
肺を空気で満たす為、大きく深呼吸をする。
目蓋を開けるとそこは六畳一間の小さな和室。
この古びたアパートで目を覚ましたと言うことは、ここは日本であり、見慣れたはずの、一人暮らしの小さな部屋だ。しかし、僕の視界には信じられない光景が広がっていた。
色がないのだ……。
古く黄ばんだ畳も、テーブルの上の買ったばかりのマグカップも、いつも目にする天井すらも、全てが等しくモノクロだ。
目の前の状況が飲み込めない。色覚異常についての知識を思い出そうとするが、ここまで極端な例は思い当たらない。
この症状は何か精神的ストレスによる一時的なものなのか? それともまさか……。
嫌な想像だけが広がる。
僅かな希望にすがるように、僕はゆっくりと目蓋を閉じる。
あぁ、頼む。何かの間違いであってくれ。
目を開けるのが怖い。
現実が侵食されている実感がある。
文字通り、現実から目を背けたいのだ。目の当たりにすることが、只々恐ろしい。
壁掛け時計の秒針の音がやけに気になる。
目を開けることによる恐怖とじりじりと進む時間経過による重圧がせめぎ合い、そのプレッシャーに耐えかねた僕は、重い目蓋を開ける。
一昔前の映画の世界に迷い込んでしまったかのような白黒の世界。喜劇王が一世風靡したモノクロの世界も、いざ自分が飛び込むとなると、ここまで悲劇的な世界になるのか。いや、僕自身が道化を演じるのであれば、ある意味喜劇的なのかも知れない。
誰かの声を聞いて安心したかったのか、僕は赤色だったスマートフォンを手に取り、連絡先の一覧を見る。
気がつけば、連絡先の一番上に表示されている『姉』の一文字を自然とタップしていた。
三コール目で電話が繋がった。
「あら、哲也から電話なんて珍しいわね」
「助けて欲しい」
「そう、今から行くわ」
たったそれだけのやりとり。何一つとして必要な情報がない会話。
電話越しからは姉の声の他にも国際線のアナウンスが聞こえてきた。おそらく姉はアメリカへと戻る為、空港にいたのだろう。こうして姉の足を止めてしまうことは、様々な分野における研究の進捗を滞らせると言っても過言ではない。それでも僕は今、姉に頼る他にない。
思えば僕は、小さな頃から姉の足を引っ張ってばかりだ。あれは十年近く前だろうか、姉は当時ピアノを習っていた。彼女は音楽の世界でも非凡な才能を発揮しており、周りの期待を一身に背負っていた。金賞確実と言われていたコンクール当日。そんな大事な日に僕は風邪にかかり、看病が必要な程の高熱を出してしまったのだ。コンクールの為に仕事を休んでいた母は僕の看病の為、家に残った。あげくの果てには、僕を心配した姉はそのコンクールを欠席した。
非凡な姉に対して、平凡な弟。
当然生まれる劣等感。
あの時のような思いはしたくないと、その一心で姉との距離を作ろうとしていた。
それでも最後には頼ってしまうのか。
どこかでは思ってしまっているのだ。この身に起きた現象も、姉の天才性が解決してくれると。それは身勝手で、醜い押し付けなのだろう。
そんな思考に身を置きながら、一体どれ位の時間が流れたのだろうか。
スマートフォンが短く震える。
姉からの一通のメール。
(もう少しでつく)
その文面を見た瞬間、僕は立ち上がり、玄関へと向かっていた。白黒のドアを開け、白黒の世界へと飛び出す。この世界から脱出する為に。
空港からうちまでの道のりは渋滞がひどい、その事も分かっている姉ならば、タクシーではなく交通機関を使うはず。
じめっとした空気の中、僕は最寄りの駅まで走っていた。
色の消え失せたコンビニを横目にひたすらに走る。
信号が見える。その先には姉がいる。
僕はあらゆる思考を放棄して走る。
その信号に色は無かった。
そう、全ての色が失われているのだから。
鳴り響く、クラクションの音。
しかし、僕の目には信号の先の姉しか見えていなかった。
信じられない程の衝撃が走る。
自身の身体が宙に浮く。
時間は止まっていた。
自身の思考が何百倍のスピードにまで跳ね上がっている感覚がある。そこには、恐れも、後悔も苦痛すらない。むしろ、幸福すら感じる。
客観的な明晰さを持って僕は、第三者の視点でこの事実を受け止めている。今まさに僕は車に轢かれたのだ。きっともう、死ぬのだろう。
脳内には複数のスクリーンが表示され、そこに映し出されているのは過去の記憶、あるいは未来の映像。
それらは生に縋る為の情報か? それとも、この世を去る為の通過儀礼なのか?
昔、姉から聞いた話を思い出す。
『走馬灯はね、脳の防衛機能と関係しているの。解離性障害に近いとも言われているわ。時間の認知は歪み、思考は高速化され、意識は現実から離れていく』
あぁ、なるほど、その通りだ。これが走馬灯ってやつか。
この数秒で感じた事柄はきっと、一生をかけても説明出来ないだろう。まぁ、その一生とやらもここで終わりを迎えるようだけれど。
どうやら、自身の死というのは、この世で一番の他人事のようだ。




