第百二十二話『器』
アイの頭を抱えながら、無機質な階段を下り、僕は次のフロアへと足を踏み入れる。
白黒の部屋には見覚えのある男が一人。いや、部屋が白黒なんじゃない。僕の世界が白黒なんだ。まぁ、どちらにしても、同じことか。
〈何を冷静に観察しているのさ? 今すぐにでもやりたいんだろ?〉
目の前には、この戦争の引き金を引いた人物がいる。
「お待たせしました。バールさん」
この言葉は僕が発したものだろうか? それとも君かな?
「ふむ、ワシの記憶が確かなら、君とは初対面のはずじゃが」
僕の中身を覗き込み不敵に笑うバールさん。
「人の心を覗き見するなんて、いけない人ですね?」
無礼な人だ。殺さなくちゃ。
「人の心を奪いとっているお主よりかはマシじゃろ?」
「人聞きが悪いな〜。これは元々僕のですよ」
お喋りはここまでにしよう。この人の言葉は危険だから。
「口を閉じろ」
僕の色で塗りつぶしてやる。
「なんじゃ、素っ気ないの、もう少し年寄りの話に付き合ってくれても良かろう?」
目の前の男は僕の言葉を聞いた上で、口を開いている……。
「お前、まさか……」
「口調が崩れているぞ? そう、そのまさかじゃよ。ワシの中身はとっくにアリスにくれてやったからのぅ。お主の支配は受けんよ」
「正気じゃない……」
まずい、まずい、まずい。
「お主が正気を語るのか? いや、お主ほど正気の人間は他におらんか。狂気を演じる操り人形じゃな」
「黙れ!!」
演じてなどいない! 僕の心は傷つき、壊れたのだ。
「黙らんよ、ワシはおしゃべりじゃからな。お主に問う。一を犠牲にして九が救われる世界があるとすれば、一体どうする?」
フローラ王妃と同じ問いを投げかけてくるバール。
「その問いには一度答えた」
「フィロス君は答えたかも知れんが、今はお主に問うている」
射るような視線とともに、その言葉が襲いかかる。
「無意味な問いだ。答える必要はない」
「違うな、答えを持たぬのだろう。お主には九はおろか、一すらもない。空っぽなのじゃから」
「黙れ!!」
一体全体、僕は何に怯えているのだ。
「では空っぽなお主に、年寄りの戯言を聞いて貰うとするかのぅ」
「黙れ!!」
これ以上は聞きたくない。しかし、アイの頭を抱えた僕には、耳を塞ぐことすら出来ない。
「耳を塞いだとしても、お主には心を塞ぐことは出来ぬよ。お主自体が蓋であり、避難先なのだから」
「黙れ……」
訳の分からない妄言は聞きたくない。しかし、目の前の男は、僕の意思とは無関係に語り始める。
「ワシにとってはのぅ、関わりのない九など、本当はどうでも良かったのじゃ。ワシの幸せは、ワシの周りにしか無いからの。じゃが、大切な一を盾にされれば、抗うことは出来なかった。一を救いたければ、九を救えと。だから大切な一を守るために、関わりのない九の中から一を犠牲にしたのじゃよ。結局は辻褄合わせに過ぎない。全てはババァ一人とそいつの娘の為に。大賢者が聞いて呆れるじゃろう?」
奴の言葉とともに、頭の中に映像が流れ込む。
それは、一人の男の記憶。
大量の本に囲まれた部屋には、男と女が一人ずつ、小さなテーブルを囲み、木製の椅子に腰掛けている。
女の腹は、その細い身体とは不釣り合いに大きく膨らんでおり、胎内に新たな命を宿していることがわかる。
「俺とお前の子どもだからな、きっとこの子は凄い魔法師になるぞ」
男は立ち上がり、女の腹を愛おしげに見つめ、優しく撫でる。
「そうね、貴方と私の子どもですもの」
「あぁ、間違いなく、一流の国家魔法師になる」
「貴方ったら、そればかりね?」
「はは、今からこの子の将来が楽しみだ」
幸せを絵に描いたような顔で、男は笑う。
「産まれる前からプレッシャーをかけないで下さいね」
女はそう言って、優しく微笑んだ。
「エルヴィラ、本当にありがとう。愛しているよ」
男は不意に真面目な面持ちで、その女に語りかける。
「何ですか急に……。それよりもこの子の名前はどうしましょう?」
女は照れ隠しの為か、話題の矛先を変える。
「そうだな、男の子ならルーク、女の子なら……」
男の記憶はそこで途切れた。
その原因は明白だった。
記憶の主が、背後から心臓を貫かれていたからだ。
「しゃべり過ぎよバール。その子に個を与えては駄目。器の役目が果たせなくなるじゃない」
小さな短刀を手に返り血を浴びているのはこの国の王妃。
今の僕には彼女の金色の髪も翡翠色の瞳もモノクロにしか見えないのだが、そんな事情など関係なしに、フローラ王妃の瞳には、感情の色は存在しない。
血反吐をこぼしながら、死の瀬戸際を彷徨う男が残された力で言葉を紡ぐ。
「シェイネ、我が娘よ、強く生きろ……」
宮殿に仕えた大賢者の最期は、自らが仕えたはずの王妃によって幕を閉じた。
一瞬の沈黙の後、再び時間は動き出す。
「そろそろかしらね、タイミングがずれると何もかもが水の泡。泡沫の夢にはさせないわ。では、お休みなさい、フィロス君」
彼女のその言葉が僕の鼓膜を揺らした瞬間、僕の意識は、深く、より深く、押し込まれていく。光の届かぬ深海へと。




