第百二十話『愛』
石造りの階段を下り、次のフロアへとたどり着いた僕ら。
先程の囚人達がごった返していた空間とは対照的に、この部屋の中央には美しい女性が一人。
「やはり、アルヴァロでは話にならなかったようね。流石はフィロス君、娘が夢中になるわけね」
翡翠色の瞳でこちらを見つめながら、楽しそうにフローラ王妃が語る。
薄暗い監獄の中であろうと、その美貌には一点の曇りもない。
「すみませんが、そのまま道を譲っては貰えませんか」
ここに来て、そんな選択肢が存在しないのは重々承知だ。それでも僕は問いかける。覚悟の足りない僕には、戦う為の理由を再確認する必要があった。
「踏み切る覚悟が欲しいのかしら?」
僕の心を見透かすように、問い返してくるフローラ王妃。
「そうなのかも知れません……」
「ふふ、正直者ね。フィロス君はもし、一を犠牲にして九が救われる世界があったとすればどうするのかしら?」
「その一が僕にとって関わりのないものであれば、犠牲にすると思います」
急な質問の意図がわからないが、この人相手に嘘は意味を成さないだろう。
「じゃあ、その一が、かけがえのないものだとしたら?」
「一を取るかも知れません……」
かけがえのないものとは文字通り、掛け替えがない、他では埋める事の出来ないものを指すのだから。
「では、その一を取れば世界そのものが消えて、一も九も全て滅ぶとしたら?」
更に条件を重ねる王妃。
ふと頭の中に、理沙の言葉がよみがえる。『命を単純に数えた場合、足し引きで助かる命が多い方が良いでしょ?』
あれは確か、生命倫理の講義の時か……。
「全員が滅ぶよりは、一を犠牲にした方が良いでしょうね……」
単純な足し引きの問題。小学生ですら解を出せる。
「それは君自身の答えなのかしら?」
その問いには鋭さが感じられた。
「それは……」
「意地の悪い質問だったね。少なくともその様な言葉を口にするということは、その考え方を理解してはいるのよね、心とは別に。ならば私も気兼ねなく始められるよ」
話すべきことはもうないと、フローラ王妃が口を閉じた瞬間、僕達の目の前には信じられない光景が広がっていた。
先程まで王妃が立っていた場所には代わりに、いや、代わりというにはあまりに巨大な化け物の姿がそこにはあった。
「マ、マスター、なんですかこれは……」
目の前の化け物を指差してアイが思わず声を漏らす。
九本の首をもつ巨大過ぎる蛇が、突如として目の前に現れたのだ。この特徴的な見た目は、ギリシャ神話に登場するヒュドラに酷似している。
「フィロス君、避けて!!」
滅多に声を荒げないラルムの怒声にいち早く反応した僕は、咄嗟に右へと身を投げ出していた。するとその次の瞬間、先程まで僕のいた空間をヒュドラの九つある首の一つが凄まじい勢いで通過していた。ラルムの予測がなければ今頃僕は食い千切られていただろう。
「マスターとラルム様は後方へ、アイ、護衛は任せましたよ」
短刀片手に先頭へと躍り出たソラが言う。その背に続いて、リーフとイーリスも前へと出る。
「フィロス君、あの首、一つ一つが意思を持ってる……」
目まぐるしいスピードで瞳の色を変えながら、ラルムが呟く。
「なるほど、じゃあ僕が奴の動きを抑える精神魔法を放つから、ラルムはそれを出来るだけ多くの首に拡散してくれ」
恐怖を押し殺し、現状を打破する作戦を捻り出す。
僕の言葉に素早く反応したラルムが僕の手を握る。
「トレース!!」
僕の放った精神魔法がラルムのサポートによって、より強力かつ広がりを持ってヒュドラに向かっていくのを感じる。
しかし、僕とラルムの力でも、止められた首は八本。
支配を逃れた中央の一際巨大な首が、先頭のソラへと襲いかかる。口を開き巨大な牙がソラへと迫るも、冷静に攻撃を躱したソラはそのまま、短刀による連撃を見舞う。目にも止まらぬ斬撃が、ヒュドラの首を地に落とした。
よし、あとは動きを封じている残りの首を切り落とすだけだ、と皆が思った瞬間、たった今切り落とした首の切断面から肉が隆起し、そこから首が二本に増えて生えてきた。
「嘘だろ……」
ヒュドラの首が十本になったのだ。つまり、制御出来ない首が二本に増えてしまったわけだ……。
驚愕の表情を浮かべながらも、ソラ、リーフ、イーリスの三人がヒュドラの注意を引き、なんとか攻撃を躱している。
まさかこいつ、ギリシャ神話のヒュドラと同じ性質を持っているのか? ならば首を切っても増えるだけだ。伝承をなぞるのであれば、こいつを倒すには、切った首を速やかに炎で燃やす必要がある。それにヒュドラには、もう一つ注意すべき点が……。
僕がそこまで思考したところで、異変が起きた。ヒュドラが動かせる二本の首を天井付近まで持ち上げ、深く息を吸い込みはじめたのだ。その口内からは紫色の気体が漏れ出している。
ギリシャ神話によれば、ヒュドラは強力な猛毒をその身に宿していたという。そして、奴のこの動きには見覚えがある。あれは確か、ドラゴンがブレスを吐く時の予備動作に酷似している。
つまりは……。
「まずい、奴は毒の霧を吐く気だ!」
だがもう遅い、奴はその凶悪な顎門を開き、こちらに向かって息を吐き出す。この毒は神話の大英雄すらも死へと追いやったものだ。
僕は死を覚悟し目を瞑る。
しかしその直後、すぐに目を開く事になる。誰よりも力強い声に誘われて。
「おめーら、伏せろ!!」
その大声に従い、僕らは咄嗟に床に伏せる。
直後、紅蓮の炎が僕らの上空を通過する。
真っ赤な炎が、広がりかけていた毒の霧を燃やし尽くす。
朱色の髪をなびかせながら現れたリザはヒュドラの懐へと飛び込む。
「リザ、そいつは、首を切っても再生する、切った後は直ぐに切断面を燃やしてくれ!」
「大丈夫だ、燃やしながら切るからよ!!」
咄嗟に現れ、僕の言葉に返事をしたリザは炎を纏った大剣でヒュドラの首へと切りかかる。
「まずは一本目!!」
リザが切り落とした首の切断面は焼けただれており、切られた首が再生することはなかった。
「おらよ!!」
リザの大剣が二本、三本、四本とヒュドラの首を切り落とした瞬間、誰もが勝利を確信していた。十本あった首が残り六本にまで数を減らしたのだから当然だ。
そんな心の隙を突かれたのだろうか、僕の視界が突如として歪んだ。
「トドメを刺さなかったのが、貴様の敗因だ!」
不意に現れた声。
歪んだままの視界で後ろを振り向く僕。
そこには、醜悪な笑みを浮かべたアルヴァロの姿が。
「くそ、やべーぞフィロス!」
リザの顔から余裕が消える。
それもその筈だ。僕の精神魔法が途切れたせいで、ヒュドラの残りの首が一斉に動き出したのだ。それも、先程よりも活発に。
リザ、ソラ、リーフ、イーリス、それにリザと共にやってきたフレアがそれぞれの迎撃にあたる。しかし五人に対して首の数は六本。余った一本がこちらに向かって猛突進してくる。
死が目に見えて近づいてくる。
蛇の眼が僕を捉える。
鱗の質感が感じとれるほどの距離。
固まってしまった僕の身体が、宙に浮く、しかしそれは、死の訪れではなかった。僕の身体を何者かが押したのだ。
僕と死の間に割り込んだのは小さな少女。
何故だが世界がスローに見える。僕の視界には今、僕が映っている。
あぁ、これは彼女から見えている世界か。
僕と彼女の精神は深く結びついている。こんな事もあるのだろう。
少女の名はアイ。僕がつけた名だ。AIに愛を知って欲しかったからこの名前を選んだのかも知れない。
あぁ、本当にアイの世界は、僕だけを見つめている。
僕だけがくっきりと浮かび上がっている。
世界の速度が戻っていく。
何かが決定的に崩壊する世界の中で、僕は最後に声を聞く。
『マスター、愛しています』
待ってくれ、アイ、待ってくれよ……。
一瞬の意識の暗転ののち、僕の意識は自身の身体へと戻る。
白い肌が血に染まっている。
思えば僕は、アイがこんなにも激しく傷を負う瞬間をはじめて見ているのかも知れない。飛び散る赤い液体。その赤色が人間と同じく、ヘモグロビンによるものなのかはわからない。しかし、僕にとって彼女が撒き散らしている液体は紛れもなく血液だ。人間よりも人間らしく生きるアイの血だ。
そんな彼女の首が胴体から離れて行く。
紛れも無い死の訪れ。
プツリという音が鳴った。それは彼女の首が千切れた音か? それとも、アイと僕の精神の繋がりが切れた音か? いや違うな、それは、僕の心が引きちぎられた音だ。
彼女だった肉片を急いでかき集める僕。
あたたかな血が僕の手に温もりを与える。
彼女の一部だった何かが手から溢れ落ちる。
だめだ、行かないでくれ。
今ならば、射殺されたケネディ大統領の肉片を掻き集めたジャクリーン夫人の気持ちがわかるかも知れない。
あぁ、こんな知識が頭をよぎるのも、この現実に焦点を当てたくないからだ。
理解したくない。
認めたくない。
アイの最後の表情は紛れもなく笑顔だった。自分の命などには目もくれず、ただただ、僕の命が残ったことを喜び、そしてそのまま、その瞳は光を失くしたのだ。
あぁ、殺そう。たくさん殺そう。死んでしまったアイが寂しくないように。
「少しだけ待っていてね、僕ももうすぐいくよ」
僕の世界は白と黒とで埋め尽くされる。




