第百十九話『不覚悟』
小さな少女達に多くの命を奪わせながら、僕達は歩を進める。
もう、何体目とも知れないキマイラを倒したところで、ようやく、目的地が視界の先に見えてきた。
「あれが、ノイラート監獄、あそこにアンス王女が……」
石造りのいかにも堅牢そうな外観が、ノイラートと言うよりも、ヴェルメリオの建物を連想させる。罪人を収容する為だけの施設にしては不自然なまでに巨大だ。大きさだけならば、ノイラート宮殿を凌ぐだろう。
両開きの巨大な門の前には、イカツイ門番が一人。右手に持つ銀色の槍が陽の光を反射している。
馬から降りた僕達は、警戒しながらも、ゆっくりと門番へと近づく。
「フィロス君、あの人からは敵意を感じない……」
僕の耳元へ顔を近づけ、小さな声で囁くラルム。
「お前がフィロスか?」
銀色の鎧を身に纏った門番が、威圧的な声で問いかけてくる。
「は、はい……」
「そうか、ならば通れ。アンス王女は、この監獄の最下層にいる」
「何故、僕の名を?」
僕のその問いかけに、返事はない……。
不必要なやりとりはしないとばかりに、正面の門を開き、押し黙る門番。
「マスター、進みましょう」
門の先を見つめ、緊張の面持ちでアイが呟く。その言葉に背を押され、僕達は門をくぐり、監獄内へと足を踏み入れる。
* * *
全体的に薄暗く、冷たい空気が監獄内を支配している。一階にあたるこのフロアには、ただ何も無い空間だけが広がっている。ただ一つあるのは、下へと続く石の階段だ。
「この階には何もないようですね」
周囲を警戒しながら、ソラが呟く。
「先程の門番の話によればアンス王女は地下にいるはず」
わざわざ最下層という言葉を使ったということは、この監獄の地下はある程度深いと考えるべきだろう。
「では、私が先頭を行きます」
ソラはそう言って、迷いなく地下へと続く階段へと向かう。
「じゃあ私はその後ろー!」
やや緊張感に欠けた声音でリーフが叫び、ソラの後ろへと駆け寄る。
その後に、僕、ラルム、アイと続き、殿はイーリスが務めた。
石の階段を下る複数の音が、薄暗い空間に響く。決して暑くもないのに、緊張からか、背には冷たい汗が伝う。
「フィロス君、この先に沢山の人が……」
すぐ後ろにいるラルムが不安混じりにそう言った。
「あぁ、そうだね」
僕の精神魔法にもかなりの反応がある。それになんとなくだが、殺気だったものを感じる。
「マスター、注意を」
先頭にいるソラが、つぎのフロアの入り口で足を止めた。
「なるほど……」
小さな牢屋が数限りなく並ぶこの光景は、まさに監獄を連想する時のイメージそのものだ。
しかし、目の前の光景はあまりにも不自然だ。いや、異常事態と言って良い。
その全ての牢屋はもぬけの殻で、本来そこに収容されているはずの囚人達はみな、牢屋の外へと放たれている……。ざっと見ても二十人近くはいるだろうか?
「やぁ、待っていたよ、フィロス君」
囚人達の集団の中から一人、白髪混じりの中年の男が前に出てきた。
名前を呼ばれたが、僕はこの男に見覚えなどない。
「私の名前はアルヴァロ・メラン、こうして会うのは初めてだ」
どこかで聞いた名前だが、いつのことだろう……。
「フィロス君、内乱の時の……」
静かな声でラルムが呟く。
あぁ、あの時の内乱の首謀者か。僕がノイラートの国家魔法師になった直後の初任務。ニックやサミュエルさんと力を合わせながら戦った記憶がよみがえる。確か、作戦会議の際にルナ教官が名前を挙げていたはずだ。僕とリザは、アンス王女を救うべく途中で宮殿へと向かった為、首謀者であるアルヴァロ本人とは、一度も顔を合わせることはなかったのだ。そのアルヴァロがここにいるということは他の囚人達も当時の内乱で捕まった者達だろう。
「お前ら、自由はもう目の前だ、そこの少年以外は皆殺しで構わない、やれ!!」
薄暗い室内に、アルヴァロの怒号が響く。その声に呼応して、他の囚人達も雄叫びをあげる。敵は全員素手のようだが、この世界でそれは安全を意味しない。例え武器が無くとも、身体魔法師の一撃を受ければ、僕とラルムはひとたまりもない。
それにしても、何故、僕以外なのだろうか?
そんな疑問が頭をよぎるが、今はそれどころではない。
「ラルム、僕が精神魔法を使うから、その魔法を敵に拡散して」
敵には聞こえない程度の声量で、僕はラルムに囁きかける。その言葉に応じた彼女は、静かに首肯し、僕の手をそっと握る。ヘクセレイ族に伝わる魔法は身体接触により、その効果が増大する。彼女の修行の成果が問われる瞬間だ。
集中しろ。
僕はアリストテレスによる十の概念を頭に思い浮かべる。
何か不穏な空気を察知したのか、僕の集中を欠くために、囚人達が一斉に向かってくるが、ソラとリーフとイーリスの迅速かつ的確な連携が、一切それを寄せ付けない。アイは念のため、僕とラルムの側で待機している。
「クソ! 使えぬ奴らめ、ならば私が直々にやってやる。トレース!!」
囚人達の後方に下がっていたアルヴァロが叫ぶ。
整いかけていた精神魔法が、アルヴァロの干渉により乱れる。
まずい、思考が鈍り、焦りが募る。
その焦りの感情は戦っているソラ達にも伝わってしまう。こちらを気にしてか、囚人達と戦っている彼女達の動きも少しずつ鈍っていくのがわかる。
「大丈夫だよ、フィロス君」
僕の左手に伝わるラルムの手の感触が強まる。彼女の手の温かさが、乱れかけていた精神を落ち着かせる。あぁ、ラルムがそう言うのであれば大丈夫だ。彼女はいつだって正しい。
信頼という二文字が不安という二文字を消し去る。
復活した集中力で僕は再び思考する。
アリストテレスは実体という概念に本質という概念を関連付けた。本質とは、自らの同一性を失うことなしには変化し得ないもの。
実体をめぐる議論は中世哲学最大のテーマとして、数ある哲学者達を悩ませた。
僕は今、彼らの力を借りよう。
「トレース!」
多くの著名な哲学者が残した思想を無防備な相手に向け流し込む。そしてその知識の本流がラルムの手を伝い、更に広がっていくのを感じる。
「な、なんだこの、訳の分からない言葉達は」
「頭の中が掻き回される……」
目の前の囚人達は得体の知れぬ知識にのまれ、三半規管がやられたように倒れ込む。
精神魔法師であるアルヴァロだけは、最後まで知識の濁流に抗っていたが、それも数十秒の話だった。
「皆、気絶したようですね。では、今のうちに殺しておきますか?」
意識を失った囚人達に視線を向け、淡々と述べるソラ。
「いや、今は時間が惜しい、先へ進もう」
これは僕の甘さだろう。いや、覚悟の無さとも言える。動かない人を殺すのに抵抗を感じているのだ。自分の中の倫理観がそれを拒絶していた。
「マスターの言う通り、今は先を急ぎましょう」
僕の心境も踏まえた上でアイが静かに口を開く。
「……わかりました。では行きましょう」
釈然としない様子ながらも、アイの言葉に頷きを返すソラ。
この半端な倫理観が、この半端な甘さが、どのような結末を生むのかはわからない。今はただ、石造りの冷たい階段を下へ下へと降りていくだけだ。




