第百十六話『背後世界』
「世界は最初から無価値なモノかも知れない」
講堂内に教授の声が響き渡る。ニーチェから学ぶニヒリズムについての講義だ。
「それがわかった時に、君達はどうする? 世界に対しての尊敬の念を捨て去るのか、あるいは、その疑惑を持った自身を捨てるのか。どちらにしても、虚無主義だ」
その問いかけが、僕を思考の海へと誘う。
人間とは何か、世界とは何か。現実世界の裏に意味と価値を見出す姿勢、つまり、現実世界の背後を考えることをニーチェは嘲笑し、『背後世界』と呼んだ。彼は世界が自分の外にあることを否定した。現実世界とは、自身が認識するありようそのものだと考えた。自身の認識においてのみ、その世界は様々な表情をみせる。世界とは、自分自身のことなのだ。
世界が先にあるのではない。世界の中に自分がいてその風景を客観的に眺めているのではない。自分がみた景色が世界と呼ばれるものになるのだ。
僕達は皆、自分の生きている世界に困難や矛盾、不条理等を感じながら生活している。そしてそれが容易に解決できないと感じたとき、それがいっそ夢であれば良いと考えたりもするだろう。つまり、そのときその人は、自分が直面している現実から逃避しようとしているのである。求められているのは、避難場所だ。現実世界に対立する新しい概念を創造するのである。例えば、現実世界に対して、その背後世界が存在するという概念である。現実からの逃げ場を用意するのだ。
では、僕にとってのイデアは、背後世界なのだろうか? いいや、それは有り得ない。あんなにも厳しい逃げ場があってたまるか。それならまだしも、こちら側の世界がイデアの背後世界と言われた方が納得がいく。考え方によっては、今の僕は、戦場から逃げ出し、こちらの世界での平和に浸かっている状況とも言える。しかし、それは、恐ろしい考え方だ。僕はよく、地球もイデアもその両方が交互に繰り返される現実だと言うが、やはり、心のどこかでは、地球での生活を現実とし、イデアでの出来事を夢のように感じている節がある。だがしかし、地球をイデアの背後世界と考えた時、僕の全ては反転する。それは僕そのものの見方、つまり、世界そのものがガラリと変わってしまうようなものだ。
そんな思考とともに時間が流れ、いつの間にやら講義は終了していた。
「ねぇ、哲也、私最近、変な夢を見ている気がするの」
隣の席で一緒に講義を受けていた理沙が静かな声で言う。
「気がする?」
「えぇ、起きた時にはほとんどの記憶がないのよ……」
目を瞑り、不確かな記憶を辿るようにして語る理沙。
「夢を見ていた実感だけが残っていると?」
「そう、暗闇の中、鎖に繋がれているような漠然とした不安だけが残っているの」
彼女の表情は暗い。
「前までは、まったく夢を見ないって言ってなかった?」
「うん、だから余計不安に感じるのよ」
「現実主義の理沙でも、夢に対して不安を感じるんだね?」
そう言った類いには惑わされないタイプだと思っていた。
「それは当然よ。夢を見ているのは紛れもなく現実の自分なんだから」
曖昧な分野について、はっきりと語る理沙。
「何だか、理沙らしい言葉だね」
「それに、夢と心理状況は密接に関わっているとも言われているでしょ、不安な時には、人に追われる夢を見るとか?」
「へぇ、意外だね、夢占いみたいな曖昧なものを信じるのかい?」
「違うわよ、私が言いたいのは、夢が見せる体験は現実と無関係ではないと言うことよ。だからこそ、今はそれが気になるのよ……」
彼女のその言葉は、フロイトの言葉を想起させる。
『夢には本当の自分があらわれる』
今一度考える必要があるのかも知れない。先送りにしていた問題を。
僕にとっての本当の姿とは一体どちらなのかと言うことを。




