第百十二話『時間と焦り』
目を開けて最初に視界が捉えたものは、白一色の天井だった。
ゆっくりと上半身に力を込める。背中に僅かな痛みが走るが起きられない程ではない。
左腕の妙な違和感に視線を向けると、そこには、点滴に繋がれた、か細く白い僕の左腕があった。
「やぁ、ようやく目覚めたようだね」
その声の発信源を辿り、視線を右の方へと向けるとそこには、ヨレヨレの白衣を身に纏った白髪頭の中年の男性がいた。
「お久しぶりです。シュタイン博士」
目の前の状況に理解がまったく追いついていないが、ひとまず目の前の人物に返事をする僕。
声を出してみて気がついたが、あまり喉の調子が良くないようだ。少し声が掠れている。
「あぁ、気分はどうだい?」
右手の中指で丸眼鏡を押し上げながらシュタイン博士が問いかけてきた。
「あまり良いとは言えませんね」
「そうだろうね。アリス・ステラの文献をもとに作り出した、この魔道具がなければ、君は危ない所だったよ」
そう言ってシュタイン博士は、僕の左腕に繋がれた点滴を指差す。
「点滴のことですか?」
「ん? この魔道具にはすでに名前があるのかい? てんてき……。あぁ、なるほど! 死を遠ざける魔道具。つまり、天を遠ざけるから、天の敵。天敵とは良く出来た名前だね!」
シュタイン博士が大仰な勘違いをし始めているが、今はそれよりも重要な事がある。
「あの、僕が意識を失った後の事を詳しく教えていただけますか?」
その問いかけに対し、しばらくの間を空けてからシュタイン博士が口を開く。
「ルサリィ王女を殺害した犯人は、認識阻害の精神魔法を使用して逃走したよ……」
その言葉を聞いた僕は、心に暗い感情を抱えるのと同時に、ほんの少しだけ安心感を覚えてしまっていた。あれだけの裏切りを目の当たりにしたはずなのに、僕の心はまだ、バールさんを敵として認識出来ずにいた。
「僕はどの位の時間、意識を失っていたのでしょうか?」
これは最初に聞くべき質問だったかも知れない。前回意識を失った時は三日も経過していたのだから、今回だってその位のズレが生じているかも知れないのだ。それに、アリス・ステラの予言によれば、戦争が起きるまでの残り時間は三ヶ月を切っていたはずだ。
「あぁ、驚かないで聞いて欲しい。君が眠りについていた期間は……」
重苦しい沈黙が流れる。『期間』と言う言葉が僕の不安を掻き立てる。
「……三ヶ月だ」
は? そんな馬鹿な……。だって、それじゃあもう……。
「冗談ですよね?」
地球とイデアの時間が同一でないことは、前回の経験から分かってはいた。頭では理解していた。しかし、ここに来て急にこんな事態が起こるなど、あまりにタイミングが悪い。何故今なんだ……。
「生憎と私は冗談が苦手でね。正確にいえば君は三ヶ月と二日もの間、眠っていたのだよ。そしてその間に、ヴェルメリオとノイラートは戦争を始めた……」
シュタイン博士の言葉が、今現在、僕が置かれた状況を正確に、そして無慈悲に突きつけてきた。
その後の博士の説明によれば、実際に戦争が始まったのは四日前との事で、火蓋を切ったのはノイラート側だったという。ルサリィ王女が殺害されてからの数週間は、ヴェルメリオ国王の鉄の理性により、ヴェルメリオ側はノイラートへの攻撃は行わず、バールさんの身柄を要求するだけにとどまっていたそうだが、在ろう事かノイラート側はバールさんの身柄を寄越す代わりに攻撃を仕掛けて来たのだという。だが本当にノイラートの国王がそんな決断を下すだろうか? 僕の知るノイラート国王はそんな人ではない様に思える。良く言えば穏健、悪く言えば臆病、それが僕から見たノイラート国王の印象なのだが……。
こちら側で僕の意識が覚醒してからまだ、ものの数分しか経過していないはずだが、既に何度目とも知れない、沈黙による重苦しい空気が流れている。
「僕とともにヴェルメリオに来た仲間は無事ですか?」
戦争が始まったのだとすれば、敵国出身であるラルムが無事である保証はない。僕がこうして保護されている現状を鑑みれば大丈夫だとは思うが……。
「リザ王女の意向でちゃんと保護されているよ。ただし、このヴェルメリオ王家の要塞内にいる限りはね。一度外に出ればそこは戦場だ。外に出たが最後、命の保証は出来ないと」
なるほど、少なくともこの場に留まる限りは安全が保証されるわけか。しかし僕には何をおいても先に確認せねばならない事がある。そう、アンス王女の安否である。
「仲間に会わせてもらう事は可能ですか?」
ラルムと一緒にいるはずのイーリスなら、ノイラートにいるリーフとも連絡が取れる。そうすれば、あちらの状況がわかる。
「君はまだ怪我人だ、あまり無理は勧めないが」
「仲間の無事を確認したいのです」
僕の言葉に逡巡したシュタイン博士がゆっくりと口を開く。
「わかった、この部屋に呼んでこよう。しかし君達はリザ王女の客人とはいえ、敵国の民であることに変わりはない、見張りの者も同席するが良いかな?」
「はい、ありがとうございます」
「あぁ」
僕の返事を聞いた博士が短く答え、この部屋を後にする。
外から閉められた鍵の音がカチッと響く。その短くも無機質な音が僕の現状を表しており、不安を煽る。
アンス王女、どうかご無事で。




