第百七話『疑念』
ノイラート宮殿と呼ばれるこの場所で、私は生まれ育ったのだ。ついこの間までは宮殿とその周辺地域だけが私の世界だったのに、よもや、海を渡り、魔大陸にまで行ったなど、国に帰った今でも、信じられない。まるで、夢のような冒険だった。しかし、夢とはいつか覚めるもの。私は、母国に迫る未曾有の危機を回避する為、ノイラートへと戻ってきたのだ。
「おはようございます、アンス様」
私がベッドから腰を浮かせたタイミングで、部屋の隅に立っていたリーフが話しかけてきた。彼女にプレゼントした、胸元のペンダントが朝陽を受けてきらりと輝く。私の瞳と同じ、翡翠色のペンダント。
アリスの迷宮区から連れ帰った彼女達は、徐々に個性を見せはじめている。フィロスから青色の髪留めを貰ったソラは、妙に真面目で律儀な所があるし、ラルムから虹色に光る指輪を貰ったイーリスは、口数こそ少ないが、ヴェルメリオからの定時連絡は正確にこなすし、職人気質だ。フレアに関しては、リザと共に内乱鎮圧に参加しているらしく、最近は連絡が取れていない。しかし、きっと、名付け親同様に勇敢に育っていくのだろう。
では、うちの子はどうだろうか? ふと、そんな考えが頭をよぎり、目の前にいる少女を見つめる。
「どうかしました?」
私の視線に気づいたリーフが問いかけてくる。
「いや、なんでもないわ」
「なんでもないことはないでしょう。その視線の意味はなんですか? 教えて下さい!!」
「はぁ……。誰に似たのかしらね」
この子の個性をしいてあげるのであれば、それは、この知識欲や好奇心だ。
「何が似ているのですか? ソラと私がですか!?」
「なんでソラの話になるのよ?」
「それは、私がソラを好きだからです!」
自信満々に宣言するリーフ。
個性といえば、もう一つあった。なぜかこの子は最近になって、同じ仲間のソラに異様な執着心を見せるようになった。
「あなたは素直でいいわね」
私もその姿勢を少しは見習いたい所だ。
「ソラは世界一可愛いですからね!」
「あなたも見た目は同じじゃない?」
「いやいや、あの髪留めによって見える丸いオデコがたまらないのです。それに、ソラのあの真面目でクールな話し方も最高です!」
普段はリーフも、他の子達と同様に冷静なタイプなのだが、好きなことを語り出した時の彼女はネジが二、三本飛ぶようだ。
「その辺にしておきなさい。アイとソラにばかり仕事を任せておくわけにはいかないわ」
彼女達には、ある仕事を任せている為、今は別行動を取っている。
「す、すみません、お見苦しい所を」
一瞬で我に返ったリーフが、恥じ入るように言った。
「じゃあ、私達も行動開始ね」
リーフとの会話の間に、出かける準備は整っていた。
「はい!」
彼女の元気な返事とともに、私達は部屋を出た。
* * *
宮殿を後にして向かった先は、王都の隣街、カルバンだ。なんだか、フィロスとこの街を訪れたのが、とても昔のことに思える。
この街に来た目的は一つ。フィロスが書いた哲学書の回収だ。アリス・ステラの残した文献と彼の著書にある一部の内容が一致するとのことで、フィロスの哲学書の大半は処分されたようだが、きっと、エルヴィラの古書店ならば、検閲を逃れたものがあるはずだ。
結局は、様々ないざこざの所為で、フィロスの手元には原本すら残っていない。だからこの機会に回収しようという算段だ。
他にやるべき事もあるが、そちらの方はバールと信頼出来る家臣達に協力を仰いでいる段階で、まだ、本格的には動き出せない状況だ。
「目的の古書店はこの先ですか?」
右隣を歩くリーフが問いかけてくる。
「えぇ、この通りを曲がって、もう少し先よ」
以前は、フィロスの手を引いて二人で歩いた道だ。
そんな記憶を振り返りながらも足早に歩き、服飾店や雑貨屋が並ぶ目抜き通りを抜け、少し薄暗さを感じる、入り組んだ道へと入る。
「あっ、あのお店でしょうか?」
隣を歩くリーフが、少し古びた一軒家を指差して言った。
「えぇ、そうよ」
「見た目は普通の民家と変わらないですね」
そう言いながら、店のドアに手をかけるリーフ。
そのまま、ドアを少し開き中を覗くリーフ。すると、突然動きを止めた彼女がこちらを振り返ってこう言う。
「このお店が目的地なのですよね……」
「そうよ、どうしたの?」
彼女の不思議な物言いに疑問を感じ、私も店内を覗くと、そこには惨憺たる光景が広がっていた。壁にそって置かれていた本棚は倒れ、床には大量の本が散らばっており、いつもエルヴィラが座っていたカウンターは、本棚の下敷きになって潰れてしまっている。
「酷い……」
意識せずとも、思わず声が漏れ出た。
「空き巣でしょうか?」
恐る恐る口を開くリーフ。
「空き巣ならまだいいのだけれど……」
強盗だった場合が最悪だ。エルヴィラの姿がそこに無いのが、私の不安を更に煽る。
一刻も早く、調査せねばならない。まずはエルヴィラの安否の確認からだ。
「リーフ、一旦、宮殿に戻るわよ」
これは、精神魔法師による調査が必要だ。
私達は、全ての風景を置き去りにして、もと来た道を全力で引き返す。
* * *
宮殿内へと戻った私は、バールの姿を探して奔走した。
「はぁ、はぁ、や、やっぱり、ここにいたのね……」
広大な宮殿内を効率良く探す為に、リーフと手分けして探していたのだが、やはりバールは書庫にいたようだ。
「どうしました、酷く精神が乱れているようですが」
手元の本から目線を上げ、落ち着き払った声音でバールが問いかけてくる。
「エルヴィラの古書店が荒らされていたの、それに、本人がいなくなっていた……」
動揺しているせいか、中々言葉が続かず、上手く状況が説明出来ないでいた。
「あぁ、そのことでしたら大丈夫、すでに手は打ってあります」
「手を打つ? 私はたった今この目で、荒された古書店を見てきたばかりよ?」
そこから全速力で駆け戻ったのだ。時間にして、二十分も経過していないはず……。
「私が王女に嘘をついたことがありましたかのぅ?」
私の不安を拭うように、バールは少し戯けてみせる。
「確かに、それもそうね……」
何か引っかかりを覚えるが、バールが言うのであれば間違いはない。私が生まれて十二年、バールはずっと、王女である私を支え続けてくれている。
「とにかく、その件については、ワシにお任せ下され。今はそれよりも、例の件についての話し合いをしなければ、フィロス君からの連絡は来たのですか?」
例の件とは、アリス・ステラの予言についての話だろう。戦争という最悪の未来を回避する為、私は今、バールの力を借りている。
「えぇ、今日の夕方には、イーリスから定時連絡があるわ」
「なるほど、では、具体的な話し合いはその後にするとしますかのぅ?」
「そうね……」
この曖昧模糊たる不安の正体は何だろうか。
フィロス、貴方なら分かるのかしら?
ダメね、少し離れただけなのに……。
「顔に寂しいと書いてますぞ?」
私の表情を読み取り、茶化しにかかるバール。
「えぇ、だって、寂しいもの」
私も少しはリーフを見習わなければ。せめて、本人がいない所では正直でありたい。
「ほぅ、これはこれは、珍しい」
バールはそう言って、小さく笑う。その笑顔の中に、少しだけ寂しそうなニュアンスを感じるのは、気のせいだろうか。
「ほら、ふざけている場合ではないわ。今集まっている情報を精査しなくちゃ」
私の言葉に無言で頷くバール。
その様子はどこか上の空である。話は聞いていても、心はどこか、遠くにあるような……。
珍しいのは何も、私だけではないではないか。
私もいつの間にか、バールの表情が分かるようになってきたのね。なんだか少し感慨深くもある。
それともフィロスならこう言うのかしら、分かったつもりになっていただけと。




