第百四話『二つの色』
「へー、やっぱり哲学系の本が多いのね」
僕の部屋にある本棚を眺めながら彩が言う。
「あんまり、ジロジロ見ないでくれ」
一人暮らしの家に来て早々、部屋を物色しはじめた彩に、無駄とはしりつつ声をかける。
「あっ、これ、希美さんの本じゃん。ってか、この一列全部、新谷希美……。相変わらずシスコンなのね?」
「違うよ、姉さんは関係ない。内容が良いだけだ」
まったく、不本意な勘違いだ。
「筋金入りね……」
呆れた様子で小さく呟く彩。
そうして彩が原因不明の溜息をついたのと同時に、僕の部屋のインターホンが鳴った。
カメラ付きのインターホンではないので、僕は重い腰を上げ、玄関まで急ぎ足で向かう。
覗き穴から外を確認しようとすると、その前に、後ろからついて来た彩が、鍵を勝手にあける。
「ちょっ!? 彩?」
そうすると、自然に、僕の目の前に彩が並んだ形で、訪問者を出迎える形となる。
「だ、誰ですか!?」
黒髪ぱっつんの前髪を揺らしながら、悲鳴にも近い声をあげる訪問者。
そりゃあ、そうなるよね。知っている先輩の部屋を訪ねたら、知らない人がお出迎えだもの。
「えっと、哲也の彼女です」
真顔で嘘をつく彩。ポーカーフェイスにも程がある。
「え!?」
その言葉に表情筋が固まる凛。
「シンプルな嘘をつくな」
僕は彩の虚言を窘める。
「えっと、元彼女で現浮気相手です」
一度首を捻り、捻った回答を出す彩。
「複雑な嘘もやめろ!」
「えっと、妹です」
「つまらない嘘も無しだ」
っていうか、えっとって言うなよ。
「じゃあ、義理の妹です」
「それは面白い嘘のつもりか?」
姉も妹も、こと足りている。これ以上はお手上げだ。まぁ、義理の妹と言う背徳的な響きは、実に哲学的で嫌いではないが、それとこれとは話が別だ。と言うか、話が進まない。
「私は一ノ瀬彩よ、それ以上でも以下でもないわ。そう言うあなたは?」
相手の全身を隈なく観察した彩が注意深く、問いかける。
「先輩の大学の後輩の、逢沢凛と申します!」
勢いよく、問いに応じる凛。
「へぇ、字は?」
そう言って、凛に小さなメモ用紙を渡す彩。別にいいのだけれど、そのメモ用紙に姿を変えている紙、僕の机の上にあった論文の一部だよね? まぁ、自分の書いたものだし、また印刷すればいいんだけれどね。
逢沢凛と小さな丸文字で書かれたメモ(原材料・僕の論文)を受け取り、興味深々な様子で、それを見つめる彩。
「なるほど、珍しい。それに、これは……」
おそらくは、逢沢凛と言う文字列の色を見ているのであろう彩。その表情は真剣そのものだ。
「ど、どうしたんですか? 姓名占いか何かですか?」
名前を見ながら考え込む様は確かに、その手の人と間違えられても仕方がない。
「いや、彼女はちょっとね」
僕が曖昧な笑みを浮かべると、凛が恐ろしい一言を口にする。
「電波さんなのですか?」
首をかしげる姿は実に可愛らしいが、僕の背中の汗は、絶賛ナイアガラだ。
「違うわよ、文字の色を見ているの」
少し不機嫌な様子で答える彩。
「えっ、彩さん、グラフィームカラー共感覚なんですか?」
「あなた、よく知っているわね……」
彩が驚くのも無理はないだろう。凛は見た目の緩さに反して、人並み外れた知識量を披露する瞬間がある。未だに僕も驚かされる。なんと言うか、違和感のあり過ぎるギャップなのだ。
それにしても、共感覚を打ち明けた側が驚いているこの状況は、あまりにも異常だ。
「じゃあ、私の色は何色ですか?」
今度は、凛の瞳が、彩の全身を観察しているようだ。
「えっと、とても明るい黄色よ」
「さっき、珍しいって言ってましたけど、黄色って珍しい色なんですか?」
心なしか、責めるような口調で質問を続ける凛。
「え、えぇ……」
無意識に襟足を触りながら、応じる彩。これは、彼女が嘘をついている時の癖だ。
「ふーん、そうなんですね」
不自然な程に、物分かり良く頷いてみせる凛。
どこか不穏な空気が流れるも、僕にはどうすることも出来ないでいた。
「今日はもう帰りますね」
そう言って、踵を返す凛。まぁ、帰ると言っても、下の階に降りるだけなのだが……。
「あぁ、じゃあ、また」
なんとか、僕もそれだけは返事をした。
凛が帰ってから、一時間近くが過ぎた頃、ようやく、彩が口を開いた。
「あの子、色を二色持ってた……」
まだ、動揺を隠し切れていない様子の彩。
「その現象自体は偶にあるって、言ってなかった?」
僕は中学時代の会話の記憶を探る。
「えぇ、でも、その色が問題なの」
「と言うと?」
短い相づちで会話の続きを促す僕。
「黄色の他に、切り替わる様にして、希美さんと全く同じ色を感じたの。こんなこと、血の繋がりもないのに……」
「姉さんと同じ色……」
「ごめん、私、今日はもう帰るね」
「あぁ、駅まで送るよ」
それから僕達は短い言葉を交わして、最寄りの駅構内で別れた。
別れ際に彩が言った「彼女には少し、注意した方がいいかも知れない」と言う言葉が、頭の中を回っていた。
注意も何も、同じアパートに住んでいるのだが……。
靄に包まれた森や、砂嵐の中を進む人の心情が、今なら、何となくわかる気がする。
得体の知れないものへの漠然とした不安。すぐ先すら見通せない恐怖。それら、複雑な感情を抱えたまま、ゆっくりと目蓋を閉じる。
一寸先が見えないのなら、視界を閉じてしまえばいい。それは、僕の嫌う、思考の放棄そのものだったのかも知れない。




