第百三話『無から有』
「助けて」
スマートフォン越しに聞こえる切迫した声が、僕のぼやけた意識を鮮明にさせる。彼女からの電話自体が珍しく、それでいて、緊急を要する内容のようだ。
「どうした?」
僕は問いかける、中学時代の同級生、一ノ瀬彩に。
「迷った」
要領の得ない情報が電話越しから聞こえてくる。
「何に? 人生に?」
この緊張感と戸惑いを多分に含んだ声音は、人生に迷っている人のそれだ。共感覚という特殊な事情を抱えた彼女はいま、人生の分岐点にいるのかも知れない。
「道に迷ったのよ」
「人生を道に例えるとは流石だね」
実に含蓄のある言葉だ。
「いや、東京での乗り換えがわからないだけだから」
僕との言葉遊びに付き合っている暇はないとばかりに、短く現状を説明する彩。
なぜ、彼女が東京にいるのだろう。普段はあまり、田舎から外に出ないイメージだが。
「なんでまた、東京に?」
「神保町で好きな作家のサイン会があるから」
「だから、わざわざ出てきたってわけか」
千葉県内からとはいえ、彩の住んでいる南房総から東京までは、電車で二時間半はかかる。彼女の体質を考えれば、決して短い距離ではない。
「この街は色に溢れていて疲れる……」
もう限界とばかりに、短く呟く彩。
文字や数字に色を見出してしまう彼女にとっては、東京という街は、あまりに情報量が多過ぎるのだろう。
「東京駅にいるんだよね? 今から向かうから、そこで待ってて。あ、サイン会は何時から? 間に合う?」
「十七時からだから大丈夫」
彼女の言葉を聞き、僕は部屋の小さなデジタル時計に目をやる。時刻はまだ十一時だ。
「なんでそんなに早く来てるんだ?」
「そりゃ、東京駅で迷う時間と、哲也に迎えに来て貰う時間と、合流してからサイン会までの間にお茶する時間を逆算すると、この時間になったんだよ」
そんな時間があるのなら、駅構内の地図を覚えて欲しいものだが、そこにはあえて触れないでおこう。正直な話、彩と会うのは久しぶりで、楽しみでもある。
「わかった、とりあえずそこを動かず、待っていてくれ」
彼女はなんでもそつなくこなす才女だが、極度の方向音痴なのだ。まぁ、ただでさえ複雑な東京駅のつくりに加えて、彩は、色による様々な情報を受信してしまう。だから、それは仕方のないことかも知れない。
通話を終え、僕は足早に家を出る。彼女の脳がパンクする前に向かわなければ。
* * *
少し遠くに、見覚えのある小さな背中が見えた。借りて来た猫のように、じっとしているのが、なんだかとても印象的だった。
「お待たせ」
僕はその背に、なるべく優しく語りかける。
「あっ、はやいね、ありがとう。助かったよ」
前髪をおろして瞳を隠している彩がほっとした様子で言った。前回会った時にはショートヘアだった髪が、肩口まで伸びており、その変化が時間の流れを感じさせる。
普段の彼女ならば、ジョークの一つでも織り交ぜてくる所なのだが、本当に余裕がなかったのだろう。はやく、落ち着ける空間に移動した方が良さそうだ。
「まだ、時間もあるし、お茶にしようか?」
「うん、そうして貰えるとありがたいよ」
彩の同意も得た所で、僕達は移動を開始した。
人波をかきわけて、ゆっくりと歩を進める僕と彩。
彼女の顔色が優れないので、ひとまずは駅構内の喫茶店へと向かった。
「やっぱり、東京は素敵な場所ね!」
つい先程まで、悲壮な顔を貼り付けていたはずの彩が、フルーツがふんだんに乗ったワッフルを頬張りながら満足そうに言った。
「それは良かったよ」
彼女の鮮やかな手のひら返しに苦笑しつつも僕はそう答える。
「この店のメニューはとても綺麗な色をしているのよ」
そう言って、メニュー表を開き、そこにある文字列を眺める彩。
「例えばどんな色?」
「このストロベリーワッフルって文字は淡いピンク色に見える」
そう言って、メニュー表の真ん中あたりを指差す彼女。
「へぇ、それって、隣にあるメニューの写真も関係してるの?」
黒文字で書かれた商品名の横に、実物の写真が載っているのだ。
「まぁ、共感覚は本人の精神状態と密接な関係にあるからね、私が持つイメージも反映されるだろうから、写真の影響も受けるとは思うよ」
幸せそうに、キウイフルーツにフォークを突き刺しながら語る彩。
旧友と過ごす緩やかな時間が流れる。
彼女が最後に残しておいたイチゴを平らげたのを見計らい僕達は席を立つ。
* * *
時刻は十八時半、僕はサイン会に向かった彩の帰りを待っている。そして現在、僕の両手には、大量に購入した文庫本が入った紙袋が握られている。神田神保町といえば、古本屋が多いことで有名な町だ。彼女を待っている間に立ち寄ったお店で衝動買いをしてしまった。
「お待たせ」
今日一番の笑みを浮かべ、弾むような声音で話す彩。
「よく、迷わなかったね?」
「馬鹿にしてる? 私はビルを出ただけだもの」
少しだけムッとした表情を見せ、すぐに笑い出す彼女。
買い物を終えた僕は、サイン会の行なわれたビルの前で、健気に旧友を待っていたわけだ。
「そういえば、彩は昔から本が好きだったけれど、読書の際には、文字の色は気にならないの?」
不躾な問いかも知れないが、ふと疑問が浮かんでしまった。
「そうね、色が気になってしまう本もあれば、逆に、その色が私に安心感や物語との一体感を与えることもあるの。そして、今日のサイン会の作者が描く世界は、その後者にあたるのよ」
精神状態が彼女の視界に色を与えるのなら、物語の影響力は絶大であろう。
悲しみや喜び、失敗や成功、憎しみと愛、それらが混ざり合う物語には、一体どんな色が広がって見えるのだろうか。
彼女は文字通り、物語ごとの色を視る事が出来る。文字を読み、色を感じ、その世界により深く潜り込む。
「少し、羨ましいよ」
大変な事の方が多いのだろうけれど、文字列を読むだけではなく、視る事が出来るのは彼女の特権だろう。
「やっぱり哲也は変わっているね。相変わらず変わっているよ。変わらずに変わっている」
そう言って、照れ笑いを浮かべる彩。昔から彼女が言葉遊びを始める時は、決まって照れ隠しの合図だった。
「そうだ、哲也の家に行ってみたい」
「え、別に良いけど、何もないぞ?」
「何もなくても、思い出は残るよ? 無から有だね」
「無からは何も生じないよ」
形而上学の考え方である。多くの哲学者が語ってきたことだ。
「あらぬということは、考えることも語ることも出来ぬ故にね?」
試すような笑顔でこちらを見つめる彩。
「あぁ、パルメニデスも言っているからね」
彼女の引用した言葉に答える僕。
「じゃあ、哲也の家には何かがあるってことでしょ? なら、行ってもいいわね!」
「僕の家に行く口実の為にパルメニデスを引っ張ってくるな」
彼もこんなことに自分の主張を使われるとは思ってもみなかっただろう……。
「別にいいでしょ? 減るもんでもないし。それとも私が部屋に行けば、何かが有から無になるの?」
「わかったよ、降参だ」
このままでは、僕の精神が磨り減って、それこそ、無になってしまう。
「よろしい、じゃあ、早速向かいますか!」
そう言って彼女は勢いよく一歩を踏み出す。
もちろん駅とは逆方向だ……。




