花橘の君
橘の花は咲き始めると良い香りを放つ。それなのに、私は未だに固い蕾のようだ。
心も体もそう。あの人に想いを告げる事もできない。そうやってする内に一年、二年と経ち、いつの間にか六年という年月が経っていた。
あの人、佐藤公憲さん。名前はごく普通のひとだけど。顔立ちは爽やか系の美形で髪もさらさらの黒髪で性格も穏やかで優しい男性だ。
公憲さんと初めて会ったのは私が中学三年生の橘の花が咲く初夏の季節の時の事であった。
私の家の庭には一本の橘の木が植えてある。橘というのは蜜柑の木の古名で古の昔は花橘と言ったらしい。
公憲さんは私と初めて会った時ににこやかに笑いながら、こう言ってきた。
『君はこの家の子かな?もし、良かったら。優也君を知っている?』
綺麗な笑顔と思いながら、その質問に頷いて答えた。
『優也っていったら、うちのお兄ちゃんだ。うん、今は家にいるよ』
笑顔でそう返せば、公憲さんは私に目線を合わせるためにしゃがみ込んだ。
そうして、私の頭を優しく撫でてきた。くしゃくしゃと髪を混ぜるようにされたけど。不思議と嫌じゃない。
『ありがとう。いい子だな。じゃあ、今からお邪魔するから。一緒に行こうか?』
『う、うん。わかった』
そして、二人して手を繋ぎあって家に入った。
その後、ドアを開けてみれば、両腕を組んで仁王立ちしていた私の兄の梶原優也が待ち構えていた。
『……よう、公憲。えらく、遅いご到着だな』
顔立ちは公憲さんと違ってきりっとした切れ長の黒い瞳と知的な雰囲気の兄は近寄り難くて私の同級生からは怖いお兄ちゃんとして有名だった。それもそのはず、妹の私相手でも拳骨で殴ってくる時があるからだ。
当時の友人の一人の由美ちゃんは兄の優也に怒鳴りつけられた事があり、それ以来、うちに遊びに来なくなった。理由は由美ちゃんが兄の勉強中に間違えて部屋に入ってしまったかららしい。
謝ったけど、兄はそれだけでは許してはくれず、反省文まで書かされた。そして、兄は『もう二度とうちには遊びに来るな』とのたまったらしいのだ。
由美ちゃんは兄に怒鳴りつけられたのがトラウマになり、私にも近寄らなくなった。
後で、学校を転校したとクラスメイトから教えられた時は兄をグーで殴りたくなったのは言うまでもない。
そんな憎たらしいだけの兄を見た私はむすっとしているであろう表情をそのままに靴を脱いで家に上がる。
ちなみに、由美ちゃんの一件は私が小学校五年生の時の話である。
と、前置きが長くなってしまったが。兄を見た公憲さんは笑顔はそのままにようと挨拶をした。
『…約束どおり来たぞ。今日はガミダムのプラモ、見せてくれるって言ってたよな?』
『ああ、そうだったな。じゃあ、上がれよ。見せてやる』
そう言いながら、二人は私を追い越して二階の部屋へと上がっていった。
あれから、六年が経ち、私は二十一歳になっていた。兄の高校生以来の友人として家を訪れるようになった公憲さんは私より、四歳上で二十五歳になっていたが。
同い年の兄の優也と同じ、企業に就職して五年になる。だが、何故か公憲さんは誰も女性を寄せ付けず、独り身のままだ。
まるで、花橘のように爽やかで涼しげな人なのに。誰とも付き合わないのはもったいないと思った。
私は部屋でぼんやりとしながら、窓ガラスの向こうの空を眺めていた。
もう、夜闇が迫りつつある時で夕方のオレンジに群青色を混ぜた空は神秘的でさえあった。
「…百合子、あんたね。もういい加減にカーテンを閉めなさい。外から丸見えよ」
「はあい。わかった」
「返事は短く、はいでいいの。伸ばしたりしない」
「はい。本当にわかったから。私だってもう、二十一だよ。二度も繰り返さなくてもいいよ」
お母さんはあらそうと言いながら、部屋のドアを閉めて出て行った。
お母さんが来た事にすら気づかなかった自分に呆れる。まさか、公憲さんを思い続けて六年も経つとは思わなかった。
その間、私の想いが叶う事はなかった。だから、新成人を迎えた後で一つ、決めた事があった。
それは公憲さんに好きな人ができたら諦めて友達に紹介してもらうなり、お見合いを受けて新しい相手を探すというものであった。けど、あれから一年経っても公憲さんに恋人の気配がない。
どうしてだろうと彼と親しい友人であるはずの兄に尋ねてみても「知らない」の一点張りだ。本人にそれとなく聞いてみても「百合ちゃんに聞かせるほどの話でもないよ」とか言ってはぐらかされてしまうし。
完璧に子供扱いをされてムカっときた。でも、兄や公憲さんに口答えはできない。でも、ますます気になってしまう。
私は悶々とする頭を抱えてため息をついた。やっぱり、手の届かない相手を好きになるのはいけない事なのだろうか。そう思いながら、部屋のカーテンを閉めた。
翌日、私は友人からメールが来たのでスマホの画面を押して、内容を確認した。
<百合子、元気にしている?実はあんたの憧れの人の佐藤さんを紹介してほしいって同僚の神村さんに頼まれてね。百合子はお兄さんが佐藤さんの友達でしょ。
もし、良かったら、佐藤さんに頼んでみてくれないかな?唐突にごめんね。
神村さんとあたしと彼氏の冬馬、それと佐藤さん。それと百合子の五人でファミレスで待ち合わせでいいかな。じゃあ、佐藤さんにOKもらえたら、また連絡してね。
歌音>
絵文字は使わずに簡潔に書かれていて読みやすい。歌音は文章からもわかるように性格も明るくてさばさばとしている。
中学二年生の時から仲が続いている数少ない親友だ。そんな彼女からの珍しい頼み事に私はさて、どうしたものかと頭を悩ませる。まさか、友人の同僚が私の好きな人を紹介してほしいと言ってくるとは。
仕方なく、佐藤さんこと公憲さんに聞いてみるとだけ返事をしておいた。
数日後、公憲さんが我が家にやってきた。兄と一緒に出かけるらしい。
私はこれ幸いとばかりに公憲さんを捕まえて、手短かに友人の歌音からのメールの内容と約束した日に予定が入ってないか尋ねてみた。
「…えっ。百合ちゃんの友達の同僚の人が俺を紹介してほしいって言ってきた?珍しい事もあったもんだな」
公憲さんは驚いたらしく、前髪をかき上げて考え込んでしまった。
「ごめん。いきなりで驚いたとは思うんだけど。歌音は長年の友人だし。断りにくくて」
私が謝ると公憲さんは優しく笑った。昔みたいに頭を撫でてくる。
けど、中学の時よりも少しは伸びた状態でされると気恥ずかしくはある。そう、私の背は百六十七センチはあって女としては高い部類に入るのだが。
それでも、公憲さんはそれより、十五センチは優に高い。兄の優也も同じくらいはある。
少し、悔しくはあった。公憲さんはじろりと睨む私に困ったように笑う。
「ああ、そんなに睨まないでくれよ。つい、くせでしてしまうというか。でも、そうだな」
公憲さんは少し、考える素振りをしてからこう言った。
「…わかった。友達からの頼み事についてだけど。百合ちゃんが一緒に付いて行ってくれるなら、構わないよ。というか、予定は特にその日はないし。ファミレスで食事をするくらいなら、問題はないというか」
「…そう、じゃあ。そのように伝えておくね。ありがとう、公憲さん」
別にいいよと言う彼に私は再度、頭を下げたのだった。
それから、翌日には早速、歌音に公憲さん本人からOKをもらえたとメールを送った。そうしたら、歌音は「まさか、OKをもらえるなんて」と返事をしてきた。向こうも断られると思っていたらしい。
今は秋の十月の半ばだけど。数日後に私の家の近くにあるファミレスで待ち合わせとなった。
ちなみに私は短大を卒業した後は家事手伝い、要はニートの状態にあった。定職にもつかず、毎日をお母さんの手伝いに費やしている。お母さんは趣味の陶芸や家事にと忙しい。
お父さんや兄の世話もこなしているのだから尊敬する。なので、私は買い物や掃除、狭くはあるけど庭の世話に精を出していた。
洗濯だってやっている。意外とこれらも簡単なようでいてコツがいるのだ。
料理や皿洗いも最近はコツを掴みつつあるけど。それでも、お母さんの域までには達していない。卵を焼いても黒焦げになる事は時々あるし、カレーや他の料理もお父さんや兄に合格点は出してもらえていなかった。
そんな私だけど、友人達や公憲さんからは親の手伝いをやろうと思う事自体は悪くないと言われている。
さて、公憲さんや歌音達と約束していた日がやってきた。私は珍しく、メイクをして秋らしく淡いベージュ色の裾がふんわりとしたワンピースに薄い赤色のカーディガンを羽織り、下もベージュのパンプスを履いておめかしをしてみた。
時間はお昼の三時頃だと聞いていた。昼食を食べた後、二時間かけて髪をセットし、メイクしてワンピースのコーディネートをあれやこれやと考えた。そして、決めたのがこのワンピースとカーディガンだった。
パンプスもベージュにしたのはあまり、自分としては目立ちたくなかったのかもしれない。
そんな考えが脳裏をよぎる。けど、そんな事はないと頭を振って追い出そうとした。
二階の自分の部屋から出て、手に持ったバッグの中を確認する。
忘れ物がないのでほっとしていたら、ピンポンと玄関の呼び鈴が鳴った。慌てて、下に降りるとお母さんの後ろ姿がある。降りてきた私に気づいてこちらを振り返った。
「あら、百合子。公憲君が来てるわよ。何でもあんたと一緒に出かける約束したって言ってるんだけど」
「ああ、そうだけど。あの、友達の歌音が同僚の神村さんて人に公憲さんを紹介してくれって頼まれたらしくて。それで、親しい私だったら、頼めるだろうと思ったんだって言ってた。公憲さんが私と一緒だったら行くっていうし。だから、お母さん。今日は帰りが遅くなるかもだから、夕飯は無しでいいよ」
「…そう、わかったわ。夕食はどこかで食べてくるのね?」
「うん。それとお兄ちゃんとお父さんにも公憲さんや歌音達と出かけてくる事、伝えておいて」
頷いたお母さんに手を振って、行ってきますと言って玄関に向かう。パンプスは片手で持ってそのまま、玄関の床のタイルの上に置く。履くと、公憲さんがこう言った。
「じゃあ、百合ちゃん。行こうか」
「うん。行こう」
頷くと公憲さんは私に手を差し出してきた。意図がわからずにいると公憲さんは苦笑いの表情を浮かべる。
「…慣れない靴を履いているようだから。手を繋いだ方がいいと思うんだ」
「……はあ。じゃあ、お言葉に甘えて。そうさせてもらいます」
おずおずと手を乗せると力強く握られる。それに少し戸惑いながらも私はほくほく顔を何故かしているお母さんに目線を向ける。
公憲さんがドアを開けた。それに付いていきながら、私は家を出たのであった。
目的地であるファミレスは私も公憲さんもよく知っている所だった。徒歩で十分もかからないので手を繋いだまま、ゆっくりと向かう。
「それにしたって、百合ちゃんの友達の歌音さんには会った事があるけど。その同僚の人、確か神村さんだったか。その人が俺を紹介してほしいと言ってくるとは思わなかったよ。百合ちゃんも驚いたでしょ?」
「うん。歌音からのメールを読んだ時は本当に驚いた。まさか、お兄ちゃんの友達を紹介してくれって言われるとは私も思わなかったから」
私が答えると公憲さんは穏やかに笑った。今日は秋らしく、晴れていて空はどこまでも澄み渡っている。
公憲さんには秋の季節が合うなとぼんやりと考えていたら、ファミレスにいつの間にかたどり着いていた。
ファミレスの駐車場に茶髪のショートカットの女性と肩を少し越したくらいの黒髪の女性の二人と公憲さんほどではないにしろ、背の高い赤毛の男性が水色の軽自動車の前に立ってこちらをしきりに気にしている。
「…あれ。もしかして、百合ちゃんの友達の歌音さんじゃない?」
公憲さんが茶髪のショートカットの女性を指して言った。私は目を凝らして見てみる。確かに、こちらに手を振ってきているので歌音であるとわかった。
駐車場に早足で行くと歌音がにこやかに笑いながらこちらに近づいてきた。
「久しぶりだね!百合子と会ったの、一か月前だったような。それにしても、今日は何か。いつもと違ってちょっと、めかし込んでるね」
「そ、そうかな。そんなに変わらないと思うけど」
「ううん。どこがとは言いにくいけど。メイクとか服装に気合いを感じるというか。もしや、結構張り切ってきたんじゃない?」
「そんな事ないよ。それより、歌音。そちらの人達の紹介がまだだよ」
無理矢理、話題を変えて後ろにいた二人の紹介をしてほしいと言ってみた。
意外とあっさり、歌音は引いてくれたのでほっとした。そして、二人にこちらに来るように言うと歌音は紹介をしてくれる。
「えっと。こちらの女性があたしの同僚の神村さん。同じ部署で働いている人で。佐藤さんの事はあたしのスマホの写真を見せた事がきっかけで知ったというか。その、百合子とあたしの写った写真でもあるんだけど。それをお昼休みの時に神村さんに見られて。彼女、佐藤さんがなかなかのイケメンだから、会わせてくれってうるさくて。それで今日、連れて来たの」
「……余計な事を言い過ぎよ、上野さん。初めまして、神村布美枝といいます」
気の強そうな目をした女性はそれでも、営業用なのだろうがにこやかに笑顔を浮かべた。それは一心に公憲さんに向けられている。それを見てモヤモヤとしたものが胸内で湧いてきた。
あ、何か嫌だな。この気持ちは。
神村さんと名乗った女性に対して、公憲さんも同じように笑顔で返した。
「こちらこそ、初めまして。ご存知だとは思いますが。佐藤公憲といいます。以後、お見知りおきを」
「あ、いえ。ご丁寧にどうも。いきなりの誘いだったのに、来てくだってありがとうございます。やっぱり、上野さんに頼んで良かったわ」
神村さんが最後に本音を零した。それに、首を傾げながらも私も自己紹介をした。
「…あの。私はこちらの歌音さんの友人の梶原百合子と言います。神村さんでしたか。初めまして」
「…ああ、貴方が。上野さんのお友達で佐藤さんの知人の梶原さんなの。話には聞いていたけど。思っていたよりも普通ね」
「え。普通って」
「言った通りの意味よ。貴方、頭でも悪いの?」
冷たい口調で言われて私は愕然となる。神村さんはふいと私に背を向けると歌音の側に行ってしまった。
そして、最後に歌音の彼氏の名前を紹介された。彼氏は三枝千里さんと言って、見かけによらず、女性っぽい名前で驚いた。ファミレスの中に入ったのであった。
ファミレスの中は意外とお客が少なく、空いていた。少しして、女性の店員さんが注文を聞きに来た。手にはオーダーを取るための機械を持っている。
「…いらっしゃいませ。ご注文は何にいたしましょうか?」
その声に真っ先に反応したのは私ではなく、歌音だった。彼女が食いしん坊なのは昔から変わっていない事柄ではある。
「あっ。じゃあ、あたしはチーズ乗せハンバーグにする。百合子はどうする?」
「…私は。海老のドリアにする」
そういうと、残った後の三人も店員さんに最初に渡されていたメニュー表を見ながら、注文をする。
神村さんは和風のおろしだれハンバーグ、歌音の彼氏こと三枝さんが白身の魚フライのセットで公憲さんもシーフードカレーを注文した。それらを頼むと店員さんはメニューを手早く、機械に打ち込む。
「…では、ご注文の確認はしましたので。しばらくお待ちください」
そう言って、厨房に歩いて行った。まだ、二十代くらいだろうか。若い店員さんだった。
注文の品が来るまで、時間がある。神村さんはこれ幸いとばかりに公憲さんにしきりと話しかけていた。
「…あの。佐藤さんって彼女はいるんですか?」
「…いますよ。すぐ隣にいるでしょう?」
ある一言で私の脳はフリーズしてしまう。今、公憲さんは何て言ったのか。一瞬、訳が分からなかった。
当然ながら、歌音と三枝さんも固まっている。神村さんは驚いたようでしきりとこちらを気にしていた。
「それは本当ですか?」
「本当ですよ。俺の好きな人は百合ちゃんですから。恋人にするんだったら、彼女しか考えられない」
極め付けの言葉を聞いて私は茫然となった。これは神村さんを仕方なく、彼女にする事を回避するための嘘でしかない。それはわかっている。
けど、心の奥底では喜びと驚きがない混ぜになっていた。まさか、嘘とはいえ、自分が望んでいた言葉を言ってほしいと思っていた相手に言われるとは思っていなかったから。
「…嘘でしょう。こんな子供っぽい、色気もない女のどこがいいのよ。あなたの好みを疑うわ」
「……君には言われたくないな。百合ちゃんは子供っぽくないし、色気もある。神村さんの方こそ嘘を言わないでもらいたい」
神村さんが言えば、公憲さんも負けじと言い返した。
「へえ。もしかして、私と付き合うのが面倒だったから、その子に彼女のふりをしてほしいと頼みこんだのかしら。でも、それにしては二人の間に親密さがないというか。おかしいわよね?」
嫌みたらしく、こちらを見てくる。公憲さんは腕を私の前に出して神村さんから隠そうとした。まるで、庇われているようで心臓がどきりと鳴る。
だが、不意に店員さんの声が呼びかけてきてケンカはそこで打ち切りになった。
「…ご注文のお品が出来上がりました。チーズ乗せハンバーグのお客様はどちらになりますか?」
「はい、あたしです」
「では、こちらになります」
店員さんがトレーから、じゅうじゅうと音を立てているハンバーグの皿が置かれる。いかにも、おいしそうで昼食を食べたはずなのにお腹が鳴った。
音自体は小さめだったので気づかれずにすんだけど。
そして、ドリアや他の品それぞれが行き渡ると私たちは無言で食事にありつく。そして、終わるまでみんなして何も話さずにいたのであった。
結局、食事を終えると神村さんと歌音、三枝さんの三人は気まずそうにしながら軽自動車に乗ってファミレスを後にした。私は公憲さんと手を振って見送る。
「…じゃあ、帰ろうか。百合ちゃんも疲れただろうし」
「…そうだね。帰ろうか」
二人してそう言って、ゆっくりと歩き出した。既に、時刻は午後五時を回っている。
風が冷たくて私は少し、身震いをした。すると、公憲さんは私の肩に腕を回してきた。
「大丈夫?」
「大丈夫だよ。ちょっと、風が冷たいなって思っただけで」
平気と答えようとしたけど。公憲さんは余計に心配してくる。
「平気と言っているけど。もしかしたら、熱でもあるんじゃないのかな。早く、帰った方が良さそうだ」
仕方なく、私は頷いた。
そうして、私達は急いで家に帰ったのであった。
部屋で私は早速、額に触れられて熱を測られた。しかも、互いのおでこをくっつけるやり方で。これにはさすがに驚いたし、大いに照れてしまった。
公憲さんは熱がないのを確認するとほっとした顔になった。
「良かった。熱はないようだな。けど、百合ちゃん。気をつけた方がいいよ」
「…はあ。心配をかけて悪いとは思うけど。私、至って元気だよ?」
「それでもだよ。やっぱり、最近は夜は特に冷え込む季節だからさ」
そう言いながら、そっと私の手を握ってきた。
「……昼間にも言ったけど。俺は百合ちゃんが好きだから、心配なんだ。そこはわかってもらいたいところだね」
あまりに甘い発言に私は完全にノックアウトした。顔を俯けて見られないようにする。けど、公憲さんはそんな熱くなってしまっている私の顔を無理矢理、上げさせた。
そして、彼の顔がぐいっと近づいてきたかと思ったら唇に何か、柔らかくて温かいものが触れた。目を開けっぱなしでいたから、一瞬、何が起こったのか分からなかった。
けど、すぐに離れていったから、混乱してしまう。すると、公憲さんは呆れたようにため息をついた。近くにいるからそんな彼のそれすら、くすぐったく感じてしまう。
「……百合子。キスをする時は目を閉じてくれないと。そうしないとできないよ」
「ごめん」
謝るとまた、顔が近づいてくる。今度はちゃんと瞼を閉じた。
先ほどよりもそれは深く情熱的なものになる。そして、角度を変えてなされて翻弄されてしまう。
何度もする内に体は熱くなる。しばらく、その熱と甘さに酔いしれた。
あれから、十日が経ち、私と公憲さんは恋人として付き合う事になった。あの時、神村さんの前で言った事は嘘偽りない気持ちだったことは何度も説明を彼はしてくれた。
私も最初は半信半疑だったけど。それでも、あまりに彼が一生懸命だったから信じてみる事にした。まあ、私だって長年、彼が好きだったんだし。
公憲さんは私よりは四歳上ではあるけど。時折、少年のような純な一面を見せてくる時がある。それが意外で最初は驚いたりもした。
日々が少しずつ進むにつれ、彼に対する愛情は深まっていく。まだ、夫婦でないけれど。いつかはそんな風になれたらと思う。
「…どうしたんだ、笑ったりして」
「ううん。何でもない。ただ、幸せだなと思って」
彼の部屋でのんびりと本をソファーに凭れながら読んで、私はそう言った。すると、公憲さんはキョトンとした顔になる。
「えっ。何で、そう思うの。幸せだななんて」
「…わかってないなあ。公憲さん、私ね。ずっと、あなたの事が好きだったの。それこそ、初めて出逢った時から」
そう言うと、たちまち公憲さんの頬や目元がうっすらと赤くなる。その反応に私はにっこりと笑う。
「私、あなたの事を手放すつもりはないから。覚悟しておいて」
「…そ、そうか。まあ、覚悟はしておくよ。けど、俺も百合子を放すつもりはないから」
二人しておかしくなって笑いあった。静かな室内に笑い声が響いた。
自然と二人して身を寄せ合う。暖かくて目を閉じてしまう。
髪を優しく撫でられて余計に、眠くなる。公憲さんの肩に頭を乗せてつい、眠り始めてしまった。そして、意識はそこで途切れた。
しばらくして、私はベッドで目を覚ました。横には公憲さんが眠っていた。私は驚いて、上半身をがばりと起き上がらせた。
横を向いてみると規則正しい寝息が聞こえる。どうやら、あのまま、寝入ってしまったようだ。
私はあまりにも迂闊な自分に呆れる。そして、ベッドまで運んでくれたであろう彼に申し訳なく思った。
ごめんと心中で謝る。そして、もう一度、眠ろうとした。
だが、なかなか眠気がこない。寝返りを打とうとしたけど。お腹の辺りに公憲さんの腕が回っていてできなかった。
(…どうしよう。このままだと眠るに眠れない)
私は困り果ててしまう。結局、公憲さんが起きるまでまんじりとしない時間を送ったのであった。
「…ん。あれ、百合子?」
ぼんやりとした顔でこちらを見てくる。私は恥ずかしくて返事ができない。それでも、頑張って返事をした。
「…公憲さん。あの、話の途中で寝ちゃったみたいで。ごめん」
「…ああ。別に謝る事はないよ。君が疲れていたのはわかってるから」
そう、昨日はお母さんとお父さん、兄の三人で何故か旅行に行ったのだ。だから、家事は全部、自分でやらなければならなかった。掃除を丁寧にやり過ぎておかげで疲れてしまった。
その結果、公憲さんと部屋デート中だというのに爆睡してしまうという失態をしでかした。
あちゃあと思ったがもう遅い。だが、公憲さんは気を悪くした様子はない。
「…落ち込むことはないよ。百合子を一人置いて、旅行に行った優也が悪いんだから」
「それは慰めになってないよ、公憲さん。というか、折角、いちゃいちゃできる良い機会だったのに。何やってんだか」
「そんなにしたかったのか。だったら、言ってくれればいいのに」
「……なんか、不穏な響きに聞こえるのは気のせい?」
「気のせいだよ。きっと」
にっこりと笑いながら、公憲さんは私に手を伸ばした。私はベッドから降りて逃げようとした。
だが、相手の方が力が強い。ぐいと腕を引っ張られてベッドに引きずり戻される。そして、押し倒された。
公憲さんは私の上にのしかかって、にやりと悪戯っぽい笑みを浮かべる。それに一抹の不安を感じた。
「百合子。まだ、俺たち、付き合ってから一ヶ月も経ってないけど。一緒のベッドで寝るという事は心の準備はできている?」
「……え、ええと。ごめんなさい、まだできてません!」
はっきりと答えると公憲さんはがっくりとうなだれて、私の上に覆い被さった。重たいのでどいてと言いたかったけど我慢した。
そして、しばらくして公憲さんはどいてくれた。けど、まだ残念そうにしている。
ほっとしながらも私はベッドから降りる。部屋の中は間接照明だけで薄暗い。思ったより、長い時間を眠ってしまったようだ。
私は公憲さんに謝りながら、帰り支度をしようとした。けど、もう遅いから泊まるように言われて仕方なく、着替えなどを取りに行きたいと彼に言った。そして、家まで車で送ってもらい、急いで荷物を詰め込み、再び乗り込んだ。
そのまま、彼のアパートに直行した。着いた後、寝室で寝るように言われたのはいうまでもない。
私はシャワーを借りて、着替えた後、寝室に直行した。彼はリビングのソファーで眠ることになり、互いに悶々とした一晩を送った。私はほっとしながらこれでいいのかなと思った事は内緒である。
結婚まではまだまだ、遠い私たちには早いとも思った。
終わり