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夏と紙ヒコーキ

作者: 星谷菖蒲

 水しぶきがキラリと光った。小さな滴の一粒一粒が宝石のように輝いている。

 カシュリとプラスチックのこすれる音がして、水音が続く。薄く水の張られたコンクリートは所々はげかかっているものの、水色に塗られて涼しげだ。カシュリと音がするたびに、水面が揺らぐ。

 空の天辺にのぼった太陽がじりじりと首の後ろを焼く中、二人の男子高校生が、デッキブラシを手に水の張られたコンクリートを磨いていた。白い半袖のワイシャツから伸びる手はじっとりと汗ばんでいる。

彼らは、プール掃除の真っ最中であった。


「なあ、青柳」


「なに」


 青柳と呼ばれたスポーツ刈りの青年は、ブラシを杖代わりにしつつ、ズボンの裾を折り直した。足元の水に濡れないように、膝下までまくり上げられている。


「暑いんだけど」


「俺も。まだ六月だっつうのにな」


 二人は大きく息を吐いて、第二ボタンまで開けたシャツの襟をぱたぱたと動かして、僅かばかりの風を送る。彼らの足元で波立つ水は、既に当初の冷たさを失って久しかった。


「春田、青柳! ちゃんと掃除しろ!」


「はーい」


「わかってまーす」


 日陰から飛んで来た体育教師の小言に気のない返事を返すと、青柳と春田は再び手を動かし始めた。ごしごしとプールの床をこするが、掃除はなかなか終わらない。木の葉や虫の死骸など、大きなごみは最初に回収し、水を何度か撒いて、ようやく水の濁りが無くなったところだ。しかし、床や壁のぬめりは依然としてしつこく残っている。二人は先ほどから転びそうになりながらブラシをかけていた。

「ったく、別にもらったプリントをどうしようがオレたちの勝手じゃんなあ、青柳」

 長めの前髪を鬱陶しそうにかき上げながら、春田は青柳の方へ顔を向けた。青柳はちらりと春田に目をやって、首筋の汗を拭った。すぐにブラシの柄を握り直すと、力を込めてプールの床をこする。


「タイミング悪かったよ」


「ほんと、堀尾がタイミング悪い」


 春田は一瞬声を潜めて、体育教師――堀尾の方に目を向けた。堀尾は見学用のベンチに腰を下ろして手元のファイルを読んでいる。Tシャツに短パン姿で日陰にいてもよほど暑いと見える。堀尾のTシャツには汗が染みを作っていた。


「てか実際、プールって二人で掃除するもんじゃなくね?」


「朝からやってんのに、まだ終わらないもんな……」


 春田がげんなりした顔で言うと、青柳も疲れた顔をする。


「オレ、ここまで本格的ならジャージで来たわ」


「それは俺も思う」


 授業が休みの日曜日。学校には、部活動をしにきた生徒しかいないはずだった。ところが青柳と春田は、金曜日に配布されたテスト範囲の書かれたプリントを紙飛行機にして遊んでいるところを生活指導教諭である堀尾に見つかり、放課後に説教の上、貴重な休みである今日、学校に呼びだされたのだった。

 今年は夏が早く、例年通りのプール開きでは遅すぎると生徒たちが駄々をこねたため、急きょプール掃除が必要となった。例年通りならば各クラスの体育委員が犠牲になるところであったが、偶然青柳と春田が堀尾に捕まった。二人はクラスの体育委員に感謝された。


「はー、もう最悪! 学校でもないのに早起きとかやってらんねえわ」


「愚痴ってないで、さっさと終わらせて帰ろうぜ」


「それもそうだな……よし、やるぞ!」


 春田がデッキブラシを乱暴に動かすと、水しぶきが舞った。太陽の光を受けて、眩しくきらめく。青い空に白い雲。気分は既に夏模様。ばしゃばしゃと水音を立てながら、二人はせっせと手を動かした。









「雨とかテンション下がる……」


 昇降口で傘を畳みながら、春田がぽつりと呟く。路面に叩きつけられた雨が跳ね返って足元を濡らすほどの土砂降りである。朝だというのに空は暗く、視界もけぶってしまっている。


「今週、プール授業なかったしな」


 既に色とりどりの傘が所狭しと突っ込まれた傘立てにビニール傘をねじ込みながら、青柳が答える。楽しみにしていたプールは数回授業しただけで、雨水を溜める場所になりつつあった。

 梅雨は明けたとテレビの気象予報士は言っていたが、今週に入ってから一度も晴れ間を拝んでいない。雨のおかげで湿度が高く、じめじめとした蒸し暑さに生徒も教師も悩まされていた。学期末のテストも近く、ぴりぴりとした空気も漂い始めている。


「オレたちの労働時間返せよなー」


「またやれって言われたらどうする?」


「無理! 拒否る!」


 水を吸ったスニーカーから中履きに履き替えて、二人は階段を上がる。雨のせいで靴の裏が高い音を立てる。


「てか青柳、テスト勉強してる?」


「ワークとプリントだけ」


「まじか。あ、プリント見して。英語と化学」


「ああ、オッケー。英語ってリーディングの方でよかった?」


「いや、どっちも」


 他の生徒と同じように、二人の会話内容はテストのこと。教室に入ると騒がしいけれど、やはり端々に聞こえるのはテストの話だ。机に向かって勉強しているものも少なくない。青柳は机の上に鞄を置いて、中からファイルを取り出して中身を確認すると、春田に渡した。


「リーディングは明日でもいいけど、化学は写したらすぐ返せよ」


「任せとけ」


 春田は笑いながら「サンキュー」と付け加えると、自分の席に向かった。青柳は席に座ると、教科書類を机の中に移した。自習用に数学のワークを出すか迷ったが、結局それも机の中にしまいこんだ。









 水しぶきがキラリと光った。小さな滴の一粒一粒が宝石のように艶やかに輝いている。

 真っ青な空には雲ひとつなく、頭の真上にある太陽がこれでもかと言わんばかりに照りつけている。所々はげかかった水色に塗装されたコンクリートに、薄く水が張られている。ぱちゃぱちゃと水音を立てながら、プラスチック製のデッキブラシがその上を行く。


「クソ、ありえねえ」


 悪態をつきながら長めの前髪をかき上げ、白い半袖シャツを肩までまくり上げたのは春田だった。やる気なく漫然とブラシを動かしているのは、むっつりと口をつぐんでいる青柳である。


「もう夏休みになるんだから、いっそプール授業やらなきゃいいじゃねえか」


 乱暴に床をこすっていると、日陰から声が飛ぶ。


「真面目にやれよ!」


「わかってるッス!」


 自棄気味に声を張り、春田はブラシを持つ手に力を込めた。すっかりぬるくなった水をかき分けつつ、青柳は無言のままブラシを先へ進める。春田は汗をぬぐいながら隣に並んだ。


「おーい、青柳ー?」


「なに」


「いや、反応なかったから」


「このクソ暑い中、二回目のプール掃除なんてさせられたらだんまりにもなるっつーの」


 疲れた声の青柳に、それもそうかと春田は肩をすくめた。

 テストが終わるのを見計らっていたように、雨雲は去っていった。夏休みも近く、暑い中やっとプール授業ができるということで多くの生徒がはしゃぎ、体育委員は貯水槽になっていたプールを掃除しなければならないとげんなりしていた。返却されるテストの結果に一喜一憂しつつ、この先に控えている夏休みに心躍る生徒のひとり――だったはずの青柳と春田は、再びデッキブラシを手に、プールを磨いている。


「つーか春田、お前なんだよあの点数。俺がプリント貸した意味ねえし」


「いやいや、赤点ではねーから」


「そういう問題じゃねえっつうの!」


「青柳も数学ひどかったじゃねえか」


「は? 数学ひどいとかもはや全員だったろ」


 普段から真面目にノートを取らない春田はもちろん、一夜漬けでやっつけようとした青柳も、結果は悲惨なものだった。ここまではよくある話で、親に見せられないだの3は取れるからいいだのと笑っていられた。

 しかし、どうせ大した復習もするまいと実技の答案用紙を紙飛行機にして遊んでいたのが、彼らの運のつきであった。


「春田、青柳! しっかりやれ!」


「へーい」


「やってまーす」


 適当な返事をし、二人は日陰で、しかも水分を取りながらベンチに腰を下ろしている堀尾を睨んだ。

 テストを紙飛行機にしているところをまたもや堀尾に見つかり、しかもそれが体育のテストであったことは、度重なった不幸である。堀尾の言葉を借りれば、「自業自得」だったが。


「先生!」


「どうした」


 心の中で恨み言を言いながら早く終わらせようと二人が手を動かしていると、部活動中らしいジャージ姿の生徒が堀尾を呼びに来た。


「一人、熱中症で倒れちゃって……」


「わかった、すぐ行く。二人とも、サボらずやっておけよ!」


「はーい」


 釘を刺されて春田は軽やかに返事をしたが、青柳は黙ったままだった。堀尾が生徒に続いて更衣室のドアから出て行くと、二人はぴたりと手を止める。顔を見合わせてにやりと笑みを浮かべると、ブラシを投げ捨ててプールサイドにのぼった。


「誰が真面目にやるかってんだ!」


「うわー、暑かったー」


 日陰に転がり込んで、ベンチに座り込む。日陰から見るプールは、張られた水がことごとく太陽の光を跳ね返していて眩しかった。

 足を投げ出した春田は、何かを蹴り飛ばして目をやる。水色の細長い管――蛇口から引いているホースだった。プールへ水を溜めるホースではなく、プールサイドに水を流すためのものだ。


「……へい、青柳!」


「な……」


 に、といつものように春田を振り返って訊ねようとした青柳に、勢いよく水が襲いかかる。いつの間にか蛇口をひねっていた春田がホースを構え、その先を青柳に向けていた。


「うわっ、ちょ、やめろって!」


「どうだ、涼しかろう!」


「やめろー!」


 わあわあ言いながら、青柳が春田の手からホースを奪い取る。その先は当然春田に向けられ、二人は全身から水を滴らせた。水の冷たさに驚き、肌に張り付くシャツをわずらわしく思い、それでも楽しそうに笑いながら二人はふざけている。


「てかこれ、帰りどうすんだよ」


「知るかそんなこと!」


 ふと我に返った青柳の言葉も、春田は水勢でかき消した。そうなれば青柳も春田へ反撃する。宙にアーチを描きながら、水しぶきがきらきらと輝いた。


「これでどうだ!」


 青柳がホースの口を平たくつぶし、春田に勢いよく水を浴びせたとき、更衣室のドアが開いた。


「真面目にやってるか?」


「げっ、やべえ」


 顔を覗かせた堀尾を見てもらされた春田の呟きは、空しくかき消された。ホースからの水によって、堀尾の姿とともに。

 慌てて青柳がホースを床に向け、春田が走って蛇口を止めた。二人はなんということもなく隣に並んで、そろそろとプールの方へ移動する。頭から水を滴らせる堀尾は無言で俯いたままだ。

 春田と青柳の足が熱い日なたを踏んだとき、堀尾が顔を上げた。


「なにふざけてる! 夏休み中の掃除もさせるぞ!」


「すいませーん!」


「真面目にやりまーす!」


 堀尾の一喝に、二人はプールサイドを走って、プールに飛び込んだ。今更濡れる心配をする必要はないため、すぐにブラシを手にとってがしがしと床をこすった。びしょぬれになった制服はいつの間にか涼を失い、身体に張り付いて鬱陶しいだけの存在になっている。


「ぴかぴかにするまで帰さんからな!」


 日なたのプールサイドで腕を組みながら仁王立ちする堀尾の言葉に、二人はげっそりした。けれども文句は言わず、代わりに必死で手を動かした。

 グラウンドの方角から、元気な声が聞こえる。体育館の方角から、ボールの音が聞こえる。

 夏休みは、すぐそこまで迫っていた。

課題用の作品でした。

若干の手直しを加えています。

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