ユメクイ
「最近、眠れないんっすよ」
おれが注いでやったビールをぼんやりと眺めながら、西条は呟いた。彼はようやく吐き出したその言葉の分だけビールをあおり、きゅうりの漬物に手を付けた。
「眠れないって?全く?」
彼に続いてきゅうりの漬物を口に放り込んだ。確かな歯ごたえと、唐辛子の刺激が口の中に広がった。
「そうですねえ、朝方まで全く眠れない夜もあります。でも一番辛いのは、眠りが浅くて何度も目が覚めたり、朝ものすごく早く目が覚めたりすることなんです。全然疲れが取れないんですよ」
「ジョー、お前そんな繊細なやつだったっけ」
おれは彼のことを「ジョー」と呼んでいる。名字の西条から西を取って「条」だ。
「ワカさん、それ、失礼っすよ」
ジョーはおれのことを「ワカさん」と呼ぶ。若月から月を取って「若」だ。
「一日中頭が重いです。朝は目眩でふらふらで、昼は居眠りしそうになるし、夜はもう疲れ果てて食欲ないです」
「ジョー。その朝早くに目が覚めるって、もう一度寝ようとしても眠れないだろ」
「そういうときもあります」
「それ、早朝覚醒かも」
「覚醒?」
「不眠症の一種らしい」
「不眠症ですか。不眠症の原因って何ですか?なんで不眠症なんかになったんだろう」
「ストレスじゃないか?仕事の悩みがあるんじゃないのか」
おれは椅子に深く座り直して訊いてみた。彼にそう訊ねたのは、おれ自身仕事のストレスで不眠症になったことがあるからだ。
○
おれが怒られたり仕事で失敗したりする夢を観るようになったのは、入社して間もなくだ。とにかく上司と馬が合わず、無鉄砲でずぼらな性格のおれは、きっちりとした性格のその上司から注意を受ける毎日だった。決して理不尽なことをいわれるわけではないのだが、何というかその上司、ルールに固執し過ぎて融通が利かなすぎたのだ。
これ以上思い出すのも嫌なので多くは語らない。もちろんジョーにも話したことはない。
ジョーはおれがその会社に勤めていた頃の一年後輩だ。部署は全く違うし、そもそも事業所が違うのに、何の縁かいつの間にか二人で飲みにいくような間柄になっていた。
後輩に慕われることは少なく、先輩にくっついてばかりいた。それに気が付いたのが大学に入ってからで、なんて鈍感なんだと思ったものだ。先輩といると楽だ。後輩にはなぜか気を使ってしまう。本来は逆なのだろう。後輩にとっておれは一応先輩なのだから、色々とリードしてやらなければならない。前に立って歩いたり、話題を提供したり、わからないことを教えてやったりするのだ。しかし、おれは誰かに背後に立たれることが苦手だし、何を話したらいいかわからないし、説明ベタだからいけない。そんなわけで後輩たちにとっておれは、無口で冷淡な怖い先輩、なのかもしれない。
そんなおれだが、ジョーだけはなぜか慕ってくれて、おれとしても会社を去った後でも可愛がっている唯一無二の後輩なのだ。
ジョーと出会えたのは、上司と上手く折り合いつかなかったから、なのかもしれない。
ジョーと出会って半年ほどで、おれはその会社を辞めた。
○
「仕事は楽しいっす。いや、楽しくはないっすね。満足はしています」
「上司にもか」
「そうですねえ、優しすぎてちょっと物足りないくらいっすね。おれ、運動部出身なので」
上下関係が厳しかった、ということなのだろうか。
「仕事は関係ないのか。じゃあ、プライベートか」
「プライベートは充実してますよ」
「そうか、恋人できたんだっけか」
えへへと照れるジョーのその様子は、小型犬を髣髴とさせる。
数か月前にこの店で飲んだときに、大学時代の同級生と恋仲になったという話を聞いた。馴れ初めを長々と聞いたような気もするが、よく覚えていない。そのときのおれの精神は例の上司のおかげですっかり参っていて、それどころではなかったのだ。
「なんとか続いています。はい」
大学に入って間もなくその彼女に一目惚れをし、以来八年間の片思いの末ようやく恋人同士になれたという。
学生の時分には何度もデートをしたらしい。そして何度も想いを伝えてみたものの度々撃沈。しかしその後も友達関係を続け、何があったのか突然彼女の方から想いを告げられたそうだ。
いい話だなあ。ちょっと羨ましかったので、そこのところはよく覚えている。
「そうか、いいね、仲良しなんだ」
「はい。でも、相手はおれよりも仕事忙しいみたいで、帰りも遅いんです。しかも遠距離恋愛なんで、なかなか会えませんし」
「で、それで大丈夫なの?会えないんだろう」
「まあ、そうっすね。休日も向こうの予定が色々と一杯で会えないっすね。会えるのは三週間に一回ぐらいです」
さっきジョーのいっていた「なんとか続いている」というのは、その彼女、なかなかの美人らしいのだが、相当自由奔放らしい。他の男と遊びに出掛けている、というわけではなさそうなのだが、どちらかというと恋人といるよりも友達と遊ぶ方が楽しいらしいのだ。
「おれは大丈夫っす。あんまり会えないのは寂しいですけど、ちょいちょい連絡取り合ってるんで」
ジョー曰く、べったりし過ぎず、でも疎遠でもない、そんな関係が丁度いいのだという。
「そうだとしたら、一体何がお前を眠らせてくれないんだろうな」
ジョーはようやく合点がいったという表情でおれのことを見た。
「なんか…」
「なんだ」
「いや、彼女が…」
ジョーは何かをいいかけて首を捻った。
ジョーはそのまま黙ってしまった。おれは彼の言葉の続きを期待したのだが、その日はここで彼女の話には終わってしまったのだ。
それが一か月ちょっと前の話だ。
○
「そりゃあ、『ユメクイ』だな」
壁にもたれ掛かった泉水さんがいった。いつものようにオーバーオールの前ポケットに両手を突っ込み、球体から放出される赤紫の煙をぼおんやりと眺めていた。
「ユメクイって何です?」
泉水さんは答えない。おれは自らの拙い思考と僅かながらの知識をフル動員してある答えに行き付いた。
「バクのことですか?」
バクとは動物園にいる色黒でちょっと鼻の長いあのバクのことだ。バクには悪い夢を食べてくれるという伝説があり『ユメクイ』とも呼ばれる、とどこかで聞いたことがある。
泉水さんを見ると、首を横に振っている。
「夢を喰う妖怪のことだ」
「妖怪?」
「喰うは難しい方の字な」
「ええ。ああ…」
「なんだ」
「ああ。だって、」
妖怪なんて、この世にいるものか。泉水さんが非現実的なことをいい出し、おれの声は思いかけず裏返った。
「お前、妖怪を信じていない類か」
「なにいってるんですか。妖怪なんてこの世にいるわけないでしょう」
「おいおい若月、妖怪はいるぞ」
泉水さんは本気だ。
「だって…」
「お前なあ…視たことないからか、妖怪はいないといっているのか?」
「まあ、それもありますよ」
「つまらんやつだ」
「じゃあ、泉水さん、」
おれはムキなって声を張った。
「泉水さんは視たことあるんですか、妖怪を」
「ない」
「ほら」
「なーにが、ほらだ。視たことないといっただけだろ」
「視たことがないのなら、いるかいないかなんてわかんないでしょう」
「若月、お前なあ。世の中、目に視えるものだけでできてるわけじゃあないんだぞ」
おれは何かいい返そうとして、やめた。なんとなく、おれの気付いていない、おれ自身のどこかが、泉水さんのその言葉を妙に納得してしまったのだ。
「ユメクイには女が多い。女が多いというか、女として生きた方が都合のいいことが多いらしい。なぜだかわかるか」
おれの答えを待たずに、泉水さんは言葉を継いだ。
「男を誘惑して、夜を共に過ごすんだ。ユメクイはな、人間が寝ている間に観るはずだった夢を喰って生きている。つまり、人間の睡眠時間を奪っているんだ。我々夢の後処理人にとっては、天敵だな」
「西条の恋人がユメクイだっていうんですか」
泉水さんはこくんと人形のように頷いた。
「なんにせよ、早く別れた方がいい。でないと、夢を喰われ続けて、いずれ命を落とすぞ。そう忠告してやれ」
○
おれたちの仕事が終わるのは、白々と夜が明け始める午前四時過ぎだ。泉水さんと別れたおれは、いつものように自動販売機で缶コーヒーを買い、家に向かってゆらゆらと歩いていた。昔は眠気覚ましに飲んでいた缶コーヒーも、今では必要はない。夢の後処理人は眠らない、眠れないからだ。けれども今でもこうして飲み続けているのは、つまりはただ習慣なのだ。
「五時か…」
缶コーヒーをすすりながら呟いた。ちょうどジョーが眼を覚ます頃だろうか。居酒屋で例の話を聞いてから一か月。そういえば、あの日以来ジョーからの連絡はなく、おれも自分自身の忙しさに紛れていた。今から電話でもしてやろうかとも思ったが、やめた。今日はぐっすりと眠れているかもしれない。
おれはジョーの仕事が終わるであろう頃合いを見計らって電話をかけてみようと考えた。自宅に戻り定位置に座ってテレビをつけた。それからベランダの植物に水をやり、洗濯物を取り込み、いつもと何ら変わりなく行動していた。しかし、次第に妙な胸騒ぎが沸々と湧きあがってきたのだ。結局おれはその胸騒ぎに耐えられず、昼過ぎにジョーに電話をかけた。
「あっ」
おれは声を漏らした。
電話から聴こえてきた声は、男のものではなかった。一瞬、例の恋人かとも思ったが、その声には若者にはない独特の落ち着きが感じられた。声の主は、母親と名乗った。
なんてこった。
おれは右手で前髪を掴み、しばらくの間、黙って電話の向こうから聞こえる声に耳を澄ましていた。
そして電話を一度切ると、すぐさま泉水さんに電話をかけ、その晩の仕事を休むことを告げた。泉水さんは終始黙っていた。最後に「わかった」といった。
おれはろくに準備もせず特急列車に飛び乗り、三時間かけてジョーの実家へと向かった。
○
モデルハウスのような洒落た屋敷に到着したのは夕暮れ時だった。大物芸能人が亡くなったのかと思わせるような人の多さに驚いたのはいうまでもない。ジョーの人徳のなせる技だろう。
ジョーが亡くなったのは、ほんの数日前だった。
転んで地面に頭を打ち、倒れていたところを発見された。発見されたときには意識があった。しかし打ちどころが悪かったらしく、不幸にも病院に運ばれている途中で亡くなってしまったという。
倒れる前にふらふらと歩く姿が目撃されていて、事件ではなく事故と判断できたという。ジョーは確かにあの居酒屋で、「朝は目眩でふらふらする」といっていた。
両親もジョーの睡眠障害は知っていたらしい。きっと亡くなった朝も寝不足で、ふらふらと歩いていたのだろう。
おれはビールを飲む気にもなれず、注がれっぱなしのそれを片手に握りしめたまま一人座っていた。通夜の席には、おれの前の会社の社員らしき人が数人いたが、なるべく顔を合わせないように注意した。
ふと、広い部屋を見渡すと、隅に髪の短い女性が座っていることに気が付いた。なぜ今まで気が付かなかったのか。彼女一人に数人の男が群がっていたのだ。
その女性はそれだけ魅力的だった。
おれは直感した。迷わず立ち上がり、彼女の向かいの席に座るとこういった。
「ジョーの恋人ですね」
彼女は驚き、目を見開いた。しかし、すぐに落ち着きを取り戻したようで、冷静に「はい」といった。
ユメクイは、聞いていた通りの美しい女性だった。
目は大きく透き通っていて、丸い鼻やふっくらとした上唇には愛嬌がある。化粧はしているようだがナチュラルだ。短く切り揃えられたショートカットが彼女の清潔感をさらにかき立てていた。
「ジョーはきみのことが大好きでした」
「ありがとうございます」
おれにはユメクイの目を見つめることが困難で、耳もとで揺れている黒いピアスを見ながら話をすることにした。
「彼は会社の後輩だったんです。一番懐いてくれた後輩でした。まるで小型犬のようで」
「なんとなく、わかる気がします」
「転んで頭を打ってそのまま亡くなるなんて、彼らしいというか」
「確かに。不謹慎ですが、わかります」
「早朝覚醒について知っていましたか」
「早朝覚醒?」
ユメクイは首を横に振った。
「朝異様に早く目が覚めてしまう、睡眠障害の一種です。不眠症です」
「不眠…」
「夜もなかなか寝付けなかったらしいです。ジョー、いや、彼は日常的に睡眠不足だったようで、おそらく亡くなったその日も頭痛や低血圧でふらふらだったかもしれません」
おれはそこで話をやめ、ユメクイの反応を待った。
「私のせいかもしれません」
しばらくの沈黙のあと、ユメクイが口を開いた。
「わたし、仕事が遅くまであって、彼に連絡するのいつも日付が変わってからだったんです。それでも…夜中でも朝方でもいつでも彼は返信をくれるし、電話にも出てくれました。それと…」
少し迷って彼女は続けた。
「彼と何度か一緒に寝たことがあるんですけど、いえ、実はそういうことには一度もなったことなくて、ただ一緒のベッドで寝ただけなんです。それで、そのときの彼、いつも眠れていなかったみたいで。朝起きると、もう、げっそりなんです、驚くほど。心配して訊いてみてみたんですけど、大丈夫だって。でも、大丈夫じゃなかったんですね、彼」
「ええ」
おれは、なんとなくジョーの気持ちがわかったような気がした。ユメクイにとってジョーはただの恋人だったが、彼にとってユメクイは八年間想い続けた、憧れの人だった。憧れの人ゆえ、そう簡単に男女の関係になれなかったし、ましてや憧れの人が隣で寝息を立てていたら眠ることなど彼にはとてもできなかったのだ。
そして、普段は眠れないのではなくて、彼は夜遅くまで彼女からの連絡を待っていたのだ。彼なりに必死だったのかもしれない。せっかく掴んだ幸せをそう簡単には離すまいと、彼女の想いに応えようと、彼女からの連絡を待ち続けた。夜中でも、朝方でも、いつ連絡が来ても応えられるように、自然と眠りは浅くなる。
どんだけ好きだったんだよ、お前は。ユメクイだぜ。お前のその想い、彼女にちゃんと伝わっていたのかい?
「あのう。こんなこと訊くのはあれなんですけど」
「なんでしょう」
「あなたは、ジョーのことを好きでしたか」
「わたしは…」
なぜそんなことを訊いてしまったのか、わからない。興味本位だったのかもしれない。ただ、ジョーがユメクイの話をしていたときのあの嬉々とした雰囲気と、ユメクイがジョーの話をしているこの雰囲気に、大きな差を感じたのは確かだ。
おれは、ユメクイと対峙したこのほんの数分の間に、ある事実を理解していた。
ユメクイは皿の上の食べかけの何かをじいっと眺めていた。随分長い時間待ったような気がした。
「わたしは、人を好きになったことはありません」
掛け時計が八時を指していた。今出れば帰りの電車に間に合うと思った。
「ジョーのこと、あなたを好きなまま死んでいったジョーのことを、なるべく長い間覚えておいてあげてください。せめて時々、ふと思い出してやってください」
おれは立ち上がり、一礼してからユメクイの前から立ち去った。
ユメクイは悲しげでもあり、寂しげでもある、その表情のまま固まっていた。
○
ジョーの母親に挨拶し、おれは通夜の会場を後にした。おれの暮らす街にはない妙に蒸し暑い空気に包まれながら駅に向かって歩いた。途中、泉水さんに電話をかけた。今日の仕事に間に合いそうだと告げると、泉水さんは「そうか」と一言だけ返した。
おれは泉水さんのその声になぜかほっとしたのだった。