インスティンクト
三つ目の投稿です。ケータイ小説として書いた、何気ない社会の理不尽を描いたお話。
「おい、山岸!」
広くはないオフィスに響く中年男の怒鳴り声。
「はい…。」
若い男の掠れた声。胸の社員証に山岸昇の字、ちなみにだが読みはヤマギシノボル、ショウではない。
「ちょっと来い。」
続くは怒りを押し殺した中年男の声。
怒鳴った瞬間、一斉にオフィスの半数ほどの人が目を向けたのを気にしたんだろう。社員証には日野章。ヒノアキラ、こちらもショウではない。
若い男の聞き取りにくいほど弱々しい足音にキュッキュッと滑り気味な床音が重なる。
これから昇は章にこってり絞られるわけだ。といっても別に章は昇の上司ではない。二人とも去年入ったばかりの新入社員。だが、章は年功序列というショウワウマレらしい考えに固執している。
昇はもちろん、俺を含めた平成生まれには理解出来ない謎の考え方。
その摩訶不思議なる考え方に基づき、章は昇を責め立てる。
…まぁ、ここまでならばまだいい。ミスの多い同僚を叱咤する同期の兄貴分、そんな感じに思えなくもない。
だが社会はとても理不尽であり、不条理に満ち、時に不都合な真実より好都合な嘘が力を持つ。
俺の経験の話で言えば、俺自身がこのオフィスに勤めている経緯も中々納得ならないものであったりする。…まぁ、この話はまた後にして本題に戻るとしよう。
本当に昇にミスが多いなら叱責され怒鳴られても、考え方によれば仕方ないとも言える。なんとなく、章がただ八つ当たりのように昇を叱り飛ばしていると察しただろうか?
だが現実は、それよりひどい。現実とは得てしてそういうものである。
章は、来年には五十代の仲間入りを果たすような年齢である。その年齢の男が、コンピュータを使った事務作業を一年足らずで身につけるというのには大なり小なり困難さがついてまわるだろう。
そして、この中年男、章にはそれが出来なかった。
その事実は当然のようにミスを生んだ。
今度こそあなたにも真実が見えてきた頃だろう。
章は自分が犯したミスを昇のせいにしているのだ。わざわざ怒鳴りつけるのも、ミスをしたのは昇であると周囲に認知させる為。二言目から声を多少抑えるのは、これが嘘であると悟られない為、不自然になりすぎないようにする演技だろう。このショウワウマレはかなり嘘には慣れているようだ。嘘のプロを自負する俺が認めるくらいの腕前だ。
そしてそのそこそこの嘘の腕前でこの行いを就職直後から今まで続けている。
なぜこんな事を続けるのか、といえば、昇を叱る事に時間を使えば仕事をする時間が減る。仕事をする時間が減れば自分のミスが減る。自分のミスが減れば嘘がばれるリスクが減る。
ということらしい。
おまけに章はこの会社の社長と同い年だったらしく、採用面接の時から気に入られ、入社も社長の計らいに因るところが大きい。言ってしまえば社長と同い年だったというだけで入社したようなおっさんに仕事が出来るわけはない。
だが、仕事もろくにこなせはしないにも関わらず採用したくらいだから社長の目に章は、よっぽど好印象に映り、先程言ったようなミスの多い同僚を叱咤する同期の兄貴分のようにさえ見えるのだ。だから昇の弁解は意味をなさない。
そんな目がフシアナな社長がなぜこの会社を安定させられるのかと思うかも知れないが、以前小耳に挟んだ同僚たちの話では、良い組織のトップとは暇なものらしい。まぁそういう事なのだろう。
ちなみにだが、フシアナ社長の名前は佐藤政一、サトウセイイチと…って言われなくても読めるか。一体この日本に何人の同姓同名がいるのかと思ってしまうほど有り触れている。
この男、やはり手取りがいいのだろう、社長らしくずんぐりむっくりと「貫禄」を身に纏っていて、社員たちからは専ら陰でセイウチ社長なんて言われている。
セイウチの生態に関してはこれくらいにして話を戻そう。
昇の弁解は意味をなさないと言ったが、それはそれとしてこの男にも十分に非がある。
一昔前の言葉で草食系男子などと言われていた類の若者で、どうにもこうにも何かにつけて押しが弱い。そもそも、人見知りが過ぎるようで、入社直後から社内に話すような相手は俺しかいない。といっても、昇が勝手に話し掛けて来るのを俺は聞き流しているだけに近い。
恐らくは今日も退社時間が過ぎても残業して、他の社員が皆帰った頃に俺に今日の事をくどくどと話すのだろう。同じ職場にいるのだから当然、昇の話す内容なんて俺は分かりきっている。
まぁでもこれも仕事の内だ。
俺はさっき言ったように、嘘のプロを自負しているが、ペテン師などではない。
今の仕事は、専ら社員たちの胸に渦巻く有象無象を聞いてやる事だ。職業を言うならセラピストとでもなるのだろうか?
しかしセラピストの資格などは持っていない。加えて言えばそんな仕事は不本意である。
だがこの思いをそのまんま上に直訴するような事はしない。ああだこうだ言ってもこの御時世、やはり仕事があるとは幸せな事なのだろうし。そもそも、こんなにもやる気がないにも関わらず、社員たち(主に昇)から相談事を次々持ち掛けられるというのは、存外にこの仕事が向いているという事になるのかも知れない。
しかし、確かに俺が話を聞いてやっている立場であるはずなのに、何故か昇も他の社員も、俺に話すときは少しだけ上から目線で語りかけて来る。だからこの仕事に不満を持っているわけじゃないが、自分としてもそれなりのプライドというものがある。あまりいい気分ではない。
相手が上司ならばいいとして、昇のような新入りにまでそのような接し方をされては、俺のモチベーションは下がる一方だ。
とは言え悪い事ばかりではない。昇はいつも俺に話し掛けに来るとき、最近いつも小ぶりのリンゴを1つ持ってくる。何故リンゴなのか?よくはわからないが、なんだか同僚たちの誰かが勝手に俺の大好物がリンゴであるという誤情報を流布したらしい。まぁ、好きか嫌いか?と問われれば好きに入るのでそれはそれでいい。物をもらう事はやはり嬉しいし、それが感謝の印としてならば尚更だ。
しかし、別に丁寧に皮まで剥いてくれなくてもいい。まして兎さんカットはもっと必要ない。確かに俺はあまり手先が器用な方ではないのだが、リンゴの皮くらいどうにかする。ただ、昇は昇で不器用な男なので、それも昇なりの心遣いと思ってやっている。
そういえば疑問に思っているのだが、基本的に昼休みか仕事終わりくらいにしか俺の仕事はないわけだが、ならばここにいる時間の大半は無意味ではないだろうか。
まぁ、そんなことを言い出せば章は全てが無意味どころかむしろ社益にとってマイナスだが。
そういえばさっき俺がこの会社にいる経緯を話すと言ったっけ。退屈な話とは思うが、話すと言ったので話そう。
以前、俺はペットショップチェーン店の店員として接客をしていた。勤め始めた頃は、別になりたかった職業だったとかいうわけじゃなかったので、なんとなく淡々と接客を行っていた。
だが、お客たちからよく愛想がいい等と誉められ、そうしているうちに接客が楽しいと思うようになった。
そして、それを続けるうちにお客がどうすればよい気分になるかわかってきた。平たく言えば、それは嘘をつくことだった。お客を喜ばせようと思っている内に俺の嘘はみるみる巧になった。
そうしている時にわかったのだが、『嘘をつく事=相手を騙す事』とは限らないということ。お客はお客で俺が嘘をついているとわかっているのだ。
だが、それでもお客は喜ぶ。
先程も言ったが、社会において、不都合な現実より好都合な嘘が力を持ったりもする。もしかすると、概して人間とは嘘が好きな生き物なのかもしれない。まぁそういう俺も好きなのだろう。
お客が好むような嘘をつき続けた。お客は喜んだ。嘘のおかげか否か、俺の働くペットショップの売り上げは少しだけ上向いていった。
だが、そんなことに気づきはじめて間もなく、俺は突然異動されることになった。本当に突然だった、俺の荷物やらなんやらを運ぶ手筈まで会社で準備した上での通告だった。異動を告げられ、そのまま車に乗せられた。
異動の理由は、若い店員しかおく気はないという理不尽な会社の方針だった。「若い新入りよりも自分のほうが仕事にも慣れている!」そう言いたかった。
だが、どうにかしてそれを伝えたいと思っていると、俺の異動の手伝いをするために遣された太った中年男が口を開いた。
「店の性質上つーかなんつーかなぁ、ある程度年齢行っちまうとどっか別のとこに送んなきゃなんねぇんだ。ずっとそうなんだ。わかってくれ…。」
俺が何か言いたそうだと感じたのだろう。まるで独り言を言うような口調だった。
「ずっとそうなんだ。」という言葉で俺はなんとなくわかった、この異動手伝い中年は、今までも何度も理不尽な突然の異動を告げ、その手伝いをしてきたのだ。そして、たくさんの抵抗をその身に受けて来たのだろう。
そう思うと、自然と俺の抗議の意思は二の足を踏んだ。
異動先はペットショップチェーン店の経営の本拠地。所謂本社。本社といっても、4階建ての貸しビルの2階にある小さなオフィス、本社勤めの社員は12人。出店数も5店と、多いとは言えない。
以来、俺はあまり気の進まない怠惰な業務についている。これが、俺がこのオフィスにいる経緯。
「バタン!!」
突然ドアを開ける音がした。
オフィスの入口を見ると階段を一気に駆けて来たのだろうか汗をダラダラと垂らした作業着姿の中年男が入ってきた。オフィス全体が急に引き締まったような気配を放つ。
突然入ってきた男はズカズカと章のデスクに近付き、ドンッと右手をつくとぜえぜえと大きな息をしながら、残った左手で汚れた胸ポケットから真っ白い封筒を取り出し、章に突き付けた。
突然の出来事に、章も怒られていた昇もポカンとする。
作業着から出てきた封筒には何か字が書いてある。ここからは見えないが、すぐ検討はついた。作業着姿の中年は、俺の、そして他の多くの店員の異動の世話をしたあの男。
「君は、クビだ。」
作業着男は、ジッと章の目を見ながら確かにそう言った。
横にいる昇の肩を優しく叩き、目を合わせずに
「すまなかった。私の責任だ。」
と言い残して章のデスクから離れた。昇は、ポカンとしたまま「はい。」と小さく返事をした。
章は大きく音のない溜め息を吐きながら、解雇通知と書かれた白い封筒をデスクの上から取り上げ、そのまま固まった。
作業着男は、オフィスの一番奥にあるデスクにつき、ヒィヒィと息をしながら、薄汚れたチェック柄の青いハンカチで汗を拭う。
やがて、その息が整う頃には、章は既に少ない荷物を持って会社から出ていた。
作業着男は左手で頬杖をつき、目を伏せ、渋い顔をした。その様子を見た昇が彼のデスクに近づく。声を搾り出す昇。
「あの…」
作業着男は呼び掛けられ、一瞬その目を合わせると
「あぁ、山岸君…。」
と、落胆のようなものを滲ませた声を出した。それに対して昇は思い切ったように言った。
「あの、ありがとうございました…社長!」
「いや、いいんだ。本当に君にはすまなかった。」
社長と呼ばれた作業着男はそう言うと、無理をして少し笑い、ブルッと身震いをした。
身震いではなく首を振ったのかも知れない。その姿は、セイウチと言うよりもブルドッグに似ている気がした。
ともあれ、思いがけない形で、中年と新卒2人の一件は終結した。
さっきの話に戻るが、確かにうちの会社の社長は経営の面では部下に任せていて暇らしい。だが、決して暇を持て余しているわけではないようだ。
ちなみに、実は昨日、俺はまた異動になるらしいことをセイウチ社長から告げられた。
気になっているのだが、嘘をつくことが必ずしも相手を騙すことではないが、こうして何かを黙っていることは相手を騙したことになるのだろうか?
―――数日後
今度の勤め先は社長の家。
仕事は社長のペットだ。
今になってわかったのだが前の職場でもオフィスで飼われるペットだったらしい。
変な誤解はしないように。俺が人間だなんて誰も言ってはいない。
ただ黙っていただけだ、俺はカメレオンだってことを。
また前と同じ疑問を呈するが、これは騙したと言うのだろうか?
あとがきするような内容でもないんだけれども…。
これがきっかけで僕はいわばライターとして初仕事をもらう事になったりしたものなので、大事な作品です。
制作に当たってはとにかく、ケータイメール全角5000字で収めるというリミットが一番きつかった。これを書いたのは入院中だったので。(汗)
実際には句読点、リーダやダッシュ、改行などを加えたためそれより大きい容量になっています。
基本的には、マジな感じの小説ばっかり書くけれど、たまにこういうクスッとさせる事だけ考えたものを書くのも悪くない、そんな感じ。
動物が主人公の一人称小説というのは、着想を得るのは簡単でも、論理的に起承転結を持ち込むのが大変。そしてメッセージ性を重視するというのがやりにくい気がするので、以降書くことがあるかどうか。
ですが、敢えて言うならば死ぬか生きるかの入院中に書いたものだからこそ、普段重視する「死を直視しようとすることによる生命賛美」という一連のテーマから離れられたのかもしれません。ちなみにタイトルのインスティンクト(instinct)とは『先天性の』という意味です。医学会論文を読むときに覚えた!