弟が協力隊から帰ってきた
弟が協力隊から帰ってきた。弟は二年間、太平洋の孤島にあるリカルア共和国に青年海外協力隊として派遣されていた。
弟はリカルア共和国のセント・ローズという町の小学校で算数を教えていた。もちろん、現地のリカルア語で…。この国はかつて、スペインに植民地支配され、その後、アメリカに宗主国が変わった影響で、公用語はスペイン語と英語となっている。
しかし、実際は現地語のリカルア・クレオール語しか理解できない住民がほとんどのため、リカルア語の勉強に苦労したと秋人は言っていた。
リカルア・クレオール語とはリカルアで古くから使われている言語にスペイン語と英語の影響を受けて成立した混成言語である。文法はスペイン語と英語を混ぜたものがベースで、単語は三つの言葉がごちゃ混ぜになっているとのこと。
秋人がリカルア語で話しているのを聞いて、不思議な気分になったものである。
「そんなに興味があるなら、穂高も協力隊に行ってみるといいよ。一回海外に出て、カルチャーショックを経験することが大切なんだ。日本での常識なんて、日本でしか通用せんし…。それを実感するのと、そうでないのでは雲底の差があるよ」
双子の弟がえらそうに言う。秋人は大学を卒業して、すぐに海外へ行ってしまった…。それから五年も海外に行っていたのである。そして、今ようやく戻ってきたところである。
もしかしたら、またすぐにどこかへ行くのではと思っていたが、今度は鹿児島で小学校の教員採用試験を受けるらしい。そのことに家族全員が驚き、両親は喜んでいた。僕はそのことに少なからず、脅威を感じていた…。
僕は秋人と違って、生まれてから一度も鹿児島県を離れたことがない。仲氷小から加藻池中、新鹿児島高校、一浪してから鹿児島大学教育学部とずっと親元にいる。
大学卒業後も鹿児島で小学校の教員をするため、大学四年から毎年、教員採用試験を受けている。かれこれもう六回も受けているが、未だに一次試験の壁を越えられずにいる。毎年、百人前後の採用枠に千人を超える志願者が集まる。その上、毎年、鹿大教育学部だけで二五〇人前後が卒業する。
受験者は増えることはあっても、減ることはなかなかない。努力が足りないことぐらい分かる。優秀な後輩に毎年のように追い越されて、とうとう大学時代の後輩もいなくなった。
別に五年間遊んでいた訳でなく、五年間ずっと臨時採用で食いつないでいる。教員の臨時採用をすることで少しでも経験値を上げて、少しでも教採を有利に進めたいのだが、一次試験をクリアできないため、臨採の経験を全く生かせずにいる。
それこそ、最初の三年間は与論島、徳之島、屋久島と離島の教員として働いた。離島での臨採経験は教採二次試験で有利に働く。実際に何人もの知り合いが離島での臨採経験を生かして、教採合格を勝ち取っている。
しかし、僕は三年の離島経験と鹿児島市内の小学校二校での勤務経験があると言うのに、六回もチャンスを逃していた。そして、今年七回目の教員採用試験に向けて、働きながら勉強を続けている。