第四章 7
あの時心に発生した言い知れぬ感情。当時はわからなかったが、今では理解できる。
あれは、罪悪感だ。ノインを置いて、自分だけ解放されるということに対しての、罪悪感。それが、心を痛ませた。
今思えば、なぜあそこで彼女を捨てるという行為をしたのだろうか。できることなら、あの日に戻ってやり直したい。
道無についていかず、彼女と共に組織を抜ける。その選択をしたい。
あの瞬間の自分は、目の前にぶら下がった餌しか見えていなかった。
だから、本当に大切なことに気づけなかった。
自分にとって、ノインという友人は、願望よりも大切な存在なのだということを。
彼女はいつだって優しかった。言葉の一つ一つに愛情が込もっていた。そんな風に接してくれたのは、ノインだけ。
一緒にいた頃は、彼女の存在がいかに大きなものであるかをわかっていなかった。けれど、今ならわかる。
もしもノインがいなかったなら、自分はここにいない。きっと痛みを受け続ける毎日に耐え切れず、自ら命を絶っていただろう。
ノインが傍にいてくれたからこそ、今の高嶺雅がある。
それなのに、自分はあの時彼女を捨てた。ノインなら一人でも大丈夫だ、と自分勝手な言い訳をして、すぐに思考の埒外へと押しやった。そのまま、彼女のことを過去の存在として置き去りにしてしまった。
それを、心から後悔している。
自分の選択のせいで、かつての友人が、自分を愛してくれた恩人が、苦しんでいるのだ。
ノインを救い出す。道具としての生ではなく、人間としての生を歩んでもらう。
そうすれば、彼女と自分は一緒にいられる。また、昔のように笑い合うことができる。
そのために、高嶺雅は彼女の眼前へと立つ。
中央ブロック、センタービル前。
直線状の道路に、二人の少女の姿がある。
深緑の瞳が、互いを映す。
雅が、ノインを見る。ノインが、雅を見る。
少女達の迎える結末は、ハッピーエンドだろうか。はたまた――
◆◇◆
とある少女の話をしよう。
彼女の記憶は、研究室から始まった。
まず感じたのは、恐怖。
状況が理解できず、ただ怯えることしかできなかった。
自分の置かれた立場を教えられた後も、彼女は震え続ける。それは生来の性分ゆえにだ。
少女は人一番小心者で、臆病だった。
そんな彼女が放り込まれたのは、人の業と恐ろしさが集まった裏社会。
少女は道具だ。人殺しの、道具。
そんなことはしたくない。けれど、しなければ自分が処理されてしまう。
死ぬのは怖い。だから、彼女は必死になって仕事をこなした。
その日々の中で確実に彼女は心を蝕まれていき――とうとう狂気に支配される。
少女は道具という扱いであり、その肉体はまさしく化物であったが、心は人と変わりがない。
よって、人間が持つ自己防衛能力が発動された。
それは、“依存”である。
相手は、ゼクスという名を持つ、自身のパートナー。
少女は彼女のことを自分よりも下の存在と思い込み、彼女を守らねば、と考えるようになった。
そうしなければ、きっと少女の心は壊れていたことだろう。
女が持つ母性。彼女の精神はそれを無意識的に発生させることで、崩壊を防ごうとした。
少女がゼクスに抱く感情を例えるなら、我が子を守ろうとする母の如きもの、といったところか。
この子がいるから、自分は死ねない。この子を守らなければならないから、壊れるわけにはいかない。
そのように自己暗示かけることで、少女は残酷な日々を生き抜いて行く。
その間心が壊れることはなかったが、代わりに歪みが生まれてしまった。
精神の暴走。自己暗示が強すぎたがゆえに、ゼクスへの愛が常軌を逸し始める。
長く美しいブロンドの髪をバッサリと切り、黒に染め、ゼクスと同じ髪型に。服装も今まで着ていたものを全て捨て、ゼクスと同じ服装に。
そうすることで、自分自身をゼクスにすることができると思った。そうすれば、ずっと共にいられる。
やがて、頭の中にはゼクス一色に染まっていった。
少女の世界には、自分とゼクスとその他しか存在しない。その他の連中は顔も同じに見えるし、声も同じに聞こえる。少女にとっては、そこらに転がる石ころの価値もない者達だ。
自分にはゼクスさえいればいい。ゼクスがいれば、世界は成立する。
第三者からしてみれば狂っているとしか言い様のない心理状態。しかし、それはさらに悪化することになる。
ゼクスが、いなくなった。
外山道無に連れて行かれ、組織を抜けた。
少女は慟哭する。
なぜ、いなくなってしまったのか。なぜ、自分を置いていったのか。
しかし、その嘆きはすぐさま別の心情へと変わる。




