第一章 2
雅の投擲した湯呑が、道無の顔面へ飛来。そのまま彼の端正な顔に、吸い込まれるかの如く衝突した。
「う、うぅ……酷いや、雅ちゃん……僕は普通に励ましてあげただけなのに……」
鼻を押さえ、涙目で言う道無。彼に向けて、雅の怒声が飛ぶ。
「どこが普通の励ましだ! 喧嘩売ってるようにしか聞こえないっつーの!」
「それはきっと、君が貧乳……ごめん間違えた。洗濯板であることを気にしてるからだよ。だからそんな風に解釈しちゃったのさ。でもね、気にすることなんてないよ雅ちゃん。君の胸がまさしく板そのものであることは、神様が決めたルール――」
「もう一発行くかゴラァ!」
「ちょっ、喧嘩はダメですよぅ、雅さぁん!」
「あひゃひゃひゃ! 言いたいことも言えないこんな世の中間違ってるよね! 本当、この世界はポイズンだらけだよ!」
それから騒動が終結するまで、実に一〇分を要した。
全員が落ち着いた後、道無は自らの席、事務所の窓際にある大きな執務机の椅子に座った。
事務所内のスペースは大体一二疊分。内部にあるのは、室内の真ん中に備え付けられたテーブルと、それを挟むように設置された黒いソファー。部屋の隅っこに置かれた台に乗った三二インチの液晶テレビ。これだけだ。
この探偵事務所に籍を置く者は、道無を含め三人。大人と思わしい人間は一人もいない。
傍から見れば、子供のお遊戯ごとである。普通より金を持った少年少女が、安物件を買い取って秘密基地にしたかのような感じだ。そういう印象を抱かないほうがおかしい。
しかしそう思った者は、見てくれに騙されている。
ここが魔物達の巣であるなどとは、欠片も思わない。
真実とはいつだって意外性を孕むもの。この三人の正体もまた、意外極まるものだ。
全員の耳に届いた足音。それを響かせる主が、それを証明する。
ドアが開いたのは、音の発生から二〇秒後だった。
全員の視線が、訪問者に集中する。
年齢は三〇前後。オールバック、一九〇近い長身、その身を包む黒服、いかつい顔にサングラス、右手には黒い鞄。ここまでいかにもな風体だと、怖さよりも滑稽さを感じてしまう。
その姿を認めた瞬間、道無は彼を指差し、
「強盗キタ――――――――――――――――!」
嬉しそうに叫んだ。
これには訪問者も面食らったらしく、上半身をやや後方に引いて反論する。
「い、いや、私は強盗などでは……」
「えっ、違うの? その見た目で強盗じゃない? じゃあなんで君はそんな格好してるのさ?もう強盗するか恐喝するかのどちらかしかできないよね、その格好」
首を傾げる白髪の少年に、雅と萌花のツッコミが入る。
「おい、失礼なこと言うなよ、馬鹿!」
「そうですよぅ! この方は多分、カモ……じゃなくて、お客さんですよぅ!」
二人の発言に、黒服の男は同意する。
「その通りです。私は道無様に依頼があってやってまいりました」
「ふぅん。で、その依頼っていうのは、やっぱ“裏”のほう?」
「はい。“最高にして最悪の便利屋”にしか、こなせない依頼でございます」
黒服の受け答えに、道無は口元に浮かべた笑いを一層深めた。
最高にして最悪の便利屋。それが、外山道無の“裏社会”におけるあだ名だ。
一般人は誰も信じない。この事務所に所属する者達が、全員怪物であるということなど。
だが、それは真実だ。私立探偵のもう一つの顔は、裏社会の便利屋なのである。
「それじゃ、話を聞こうか。萌花ちゃんお茶出してー」
「はぁい」
「いえ、お構いなく」
「あっそう。じゃあ萌花ちゃん、出すはずだったお茶、その巨乳にぶちまけてー」
「はぁい……ってやりませんよぉ、そんなことぉ!」
萌花のノリツッコミに笑いつつ、道無は黒服をソファーに座らせ、自分達も彼の対面に座る。
「さて、と。じゃ、依頼の詳細をどうぞー」
「はい。道無様は先日の美世号の件をご存知ですか?」
「いーや全然」
即答する少年に、雅が呆れ顔を浮かべる。
「お前、ニュースぐらい見ろよ。すげぇ話題になってるぞ、豪華客船乗客皆殺し事件って」
「僕ニュースとか嫌いだしー。だって全然面白くないんだもん。あ、でもニュースになるようなことをするのは好きだよ? 例えば街一個吹っ飛ばすとかさ!」
「……話を元に戻してもよろしいでしょうか?」
眉間に皺を寄せた黒服に、萌花が肯定の意を告げる。
「は、はい、どうぞぉ」
「今回の依頼は、美世号に関するものとなります。あの事件の犯人は報道されている通り、加賀美俊彦で間違いありません」
「そいつって能力者だったよな?」
「はい。詳細な情報をご用意しております。ご確認を」
言って、黒服の男はカバンをテーブルへ置き、開いた。次いで、その中から一枚の紙を取り出し、三人に見せる。