第三章 16
「何、その名前? ゼクスはゼクスでしょう? 貴女はゼクスなの。高嶺雅なんて名前じゃない」
「……いいや、あたしは雅だ。ゼクスなんて名前は捨てた。そんな道具としての名前はな。お前もノインなんて名前捨てちまえよ。あたしがぴったりな名前をつけてやるからさ」
言って、精一杯微笑んでみせる。だが、その表情はどこかぎこちない。これからノインが返す言葉が、予想できているからだろうか。
「ゼクス。ねぇゼクス。貴女、変わってしまったのね。変えられてしまったのね。あいつに、外山道無に……。あぁ、そうか。だからおかしなことばかり言ってたんだわ。ゼクスがあんなこと言うわけがないもの」
俯き、ぶつぶつと不気味に呟くノイン。黒髪の少女は彼女に声をかけようとするが、
「ノ、ノイン? どうし――」
「ねぇ、ゼクス。ショック療法って知ってる?」
言葉と同時に、雅の視界を何かが埋め尽くした。
それが拳であると認識した時、彼女の顔面は跳ね上がり、発生したエネルギーが総身を後方へと勢いよく移動させる。
近くの店舗の壁を破壊し、内部へ。殴打され吹っ飛ばされたことを実感しつつ、雅は穴の向こう、少女の姿を見つめ、叫ぶ。
「何すんだよ、ノインッ!」
彼女が答えを寄越してくる。意味不明な、頭を混乱させるような答えを。
「貴女はあいつのせいでおかしくなってるのよ、ゼクス。だから、わたしが治してあげる。少し痛いと思うけど、我慢してね。全部貴女のためなんだから」
言い終えた瞬間、踏み込んできた。一瞬で雅の眼前へと迫るノイン。
「くっ!」
何かを言い返す暇もない。かつての友を相手に、雅はただ困惑することしかできなかった。
◆◇◆
一方その頃。別の場所でも、因縁の対決が始まろうとしていた。
「俺に、何か言うことがあるんじゃないのか?」
「生きていたのか、とでも言えばいいのかい? そんな定番過ぎる台詞を吐く気はないよ。なぁトシ、そこをどいてくれないかな? ぼくは急いでるんだ。手懐けられない駄馬を連れ戻さなきゃいけない」
「静香の命令で、か?」
「あぁ、そうさ。ぼくの恋人である静香の、ね」
加賀美の顔に、怒気が宿る。本当にわかりやすい奴だ、と、和哉はほくそ笑んだ。
あのスキンヘッドの大男は、和哉にとって親友“だった”
最初は馬が合わないと思っていたが、共に修羅場を乗り越えることで絆が生まれ、いつの間にか笑い合うような間柄になっていた。
が、それも全ては過去のこと。今の加賀美は、単なる敵に過ぎない。
心苦しいという思いがないわけではない。けれども、和哉にとって一番大事なのは加賀美ではない。金嶋静香だ。恋人がやれというのなら、どのような汚いことだってやる。例え親友であっても、手にかけることに躊躇いはない。
それにしても、と、和哉は思う。
「トシ、お前ってやつは本当に女々しいな。お前は負けたんだよ。恋という名の勝負にね。せっかく生き残ったんだから、こんなところに来ないで、どこか別の場所で他の女を探せばいいのに……」
肩をすくめてみせる和哉。それを受けて、加賀美は獰猛な笑みを浮かべた。
「そうだな。俺は女々しい男だ。裏切られたこと以上に、選ばれなかったことが許せない。俺はお前を復讐のために殺す。そして静香を、永遠に俺のものとするために殺す」
「やれやれ……静香が死ねば、彼女は自分の心の中で生き続ける。それは独占と同じ。とまぁ、こんなところかな? それはストーカー野郎の末期症状だよ、トシ」
「なんとでも言うがいい。俺がすることに変わりはないのだからな……!」
スキンヘッドの殺気が強まる。何かが爆発した。そんな感覚を受ける和哉。
すぐに攻撃が来る。そう直感した瞬間、金髪の色男は炎を繰り出していた。
火炎の放射が対象の大男へと伸びる。だがその肉体へと到達する前に、相手の掌から放出された火柱に阻まれた。
再びぶつかり合う炎。拮抗した状況の中、和哉は冷静に思考を積み重ねていく。
――ぼくとトシは同じ能力を持つ者同士。そのうえ、力の強さに関してもほぼ同じ。実力は互角だから、決着は中々つかない……。かなり厳しいな。ノインを迎えに行くって任務が遂行できるかどうか。
この戦いに勝利したとして、その時、自分はきっと満身創痍となっているだろう。
お互いに手の内は知り尽くしている。どのような策略を用いるのか、どういった攻撃を得意とするのか。何もかもお見通しなのだ。
こういった勝負で勝つためには、相手の予測を上回るものを出さねばならない。それは同時に、自分の予測すら上回るもの、ということにもなるだろう。つまり、突発的な勝利プランを思いついた者が勝つ、というわけだ。
――だけど、そんなものがポンポンと出てくるわけもない。さて、どうしたものかな。やっぱり、ここはどうにかして撒くことを考えたほうが得策か。
和哉は逃走という選択肢に行き着いた。
今の自分がすべきことは、任務であって元親友の殺害ではない。この戦闘は無意味である。道草を食っているようなものだ。わざわざ付き合ってやる必要はない。
――最優先すべきは、静香から下された命令を遂行することだ。こんなことをしてる場合じゃない。なんとか隙を作って、足止めをする。問題はどうやってチャンスを作るのかってことだけど……。
考えを巡らせる和哉。
ここに至るまで、実に一〇秒以上が経過していた。その間、二人は炎と炎をぶつかり合わせていただけで、他に動きはない。
その事実を、彼はもっと怪しむべきだった。このような単調な動きを、なぜ加賀美がとり続けていたのか。それを疑問に思っていたなら、結果は違っていたかもしれない。
決着は突然だった。
その時、和哉は違和を覚えた。両足にちょっとした衝撃を感じたのだ。
そのコンマ二秒後に、鋭い痛みが到来。脊髄反射的に己の足を見る。
彼の両目が捉えたのは、両大腿部。膝関節と股関節の間、太腿のど真ん中に穿たれた穴から、真っ赤な体液がどくどくと溢れ出ている。
撃たれた。その自覚が、一体どこから狙われたのか、といった疑問に変わった時――南條和哉の運命は決定されてしまった。
足がガクンと崩れる。踏ん張りが効かない。精神が疑念に向かってしまい、脚部から発生する痛みへの覚悟や、踏みとどまるという意思が薄れてしまったのだ。
そうなると、当然ながら手から放たれている炎の角度は下方へと向かい、地面を焼くことになる。
結果、必然的にぶつかる力は弱まり――加賀美の火柱が和哉のそれを飲み込んで、彼に殺到。
真っ赤な熱量の塊が、全てを燃やす。美しい金髪を、健康的な肌を、端正な顔を、高価なスーツを。
色男を構築していた何もかもが真っ黒な炭に変わっていく。真紅の奔流はそれすらも焼却し、あとには塵一つ残らなかった。
復讐を遂げて、加賀美俊彦は一息ついた。
コートの中からタバコの箱を取り出し、一本咥えて火を点ける。
フィルターから煙を吸い込み、ゆっくりと吐く。
美味い。こんなにもタバコが美味いと思ったのは初めてだ。
後味の悪さはある。殺したのは裏切り者で、憎むべき恋敵。それでも、親友だった男だ。
手にかけたことで、寂寞とした感情に似た、なんとも言えぬ気持ちが心に広がっている。
しかし、それがいい。ビターなこの味わいが、とてもいいのだ。




