2-(12) 幻花の香と魔術師
天弓京の端にある小さな食堂。陽気な男達が仕事の合間に集うこの場所で、灰色の着物をまとった若者は店員と顔を寄せ合いながら話し込んでいた。
「やっぱり本当なのか? "幻花"が"地ノ世"に出たって話は」
「いや、これはあくまでも噂だね。俺も、この話は人から聞いたんだよ。――あんた、そのなりを見たところ魔術師だろう? "幻花"には詳しいんじゃないのかい」
「まぁね。でも、"幻花"が"地ノ世"に出たっていう話は初めて聞くんだよ」
若者は頭を掻きながら手帳を取り出した。
「端くれとはいえ、俺も一応魔術師だからね。実は、"幻花"について独自に調べている所なんだ。おじさん、この噂について何か知っていることは無い?」
「知っていること?」
「うん。"幻花"が現れた場所とか」
「うーん、そうだねぇ……」
店員は自慢の顎髭を撫でながら考え込む。必死に考える店員の様子を見て、「無理しなくていい」と若者は苦笑した。
「知らないんだったら、知らないで良いんだ。これは趣味で調べていることだからさ」
「そうかい? すまないね。あ、一応他の奴らにも聞いてこようか。今の時間帯だったら、手が空いている奴もいるから」
「それは助かる」
顎髭をさすりながら店員が厨房に消えると、若者は手帳に視線を落とした。
「灯夜山で"幻花"の気配を感じたのは今から約五日前。灯夜山には"魔ノ世"に通じる穴が存在しないため、――」
「――"幻花"を所持した何者かが灯夜山を越えていたと考えられる、か。へぇ、よく調べてあるね」
背後から聞こえてきた声に、若者は思わずぎょっとして勢いよく振り返った。
「お前のその服……"影ノ使者"か?」
「よくご存じで」
そこに立っていたのは、若者と同い歳くらいの"影ノ使者"だった。長い髪は後ろで一つにまとめられている。
「どうしたんだ、そんな怯えた顔をして」
「いや……何故……」
「あぁ、どうして"影ノ使者"がここにいるか? そりゃぁ、俺だって四六時中働いているわけじゃ無いから。一休みするために食堂へ来ることは普通のことだよ」
「でも、ここは天弓京の外れだ」
「あっはっは、皇居の"役人ノ館"から離れているって言いたいのか」
"影ノ使者"の若者は楽しそうに笑いながら、呪術師の隣に腰掛けた。
「あのね、"影ノ使者"は常に皇居にいる訳ではないんだよ。俺みたいにじっとしていられない奴は外へ飛び出して仕事をするんだ。"影ノ使者"が陰気な集団だと思ったら大間違いだね」
「そうか……」
「あ、そこのお嬢さん。僕に熱々のほうじ茶をちょうだいな」
若い"影ノ使者"が近くにいた店員に声を掛けると、店員は頬を赤く染めながら「はい、今すぐ」と小走りで駆けていった。
「……お前、もてるんだな」
「ま、否定はしないよ」
厨房に消えた少女の背中を眺めながら、"影ノ使者"はさらっと答えた。
「"影ノ使者"ということは、呪術には相当長けているんだろう?」
「それも否定しない。一応言っておくけど、俺は妖魔術専門だよ」
「偶然だな。俺も妖魔術専門だ」
「そうだろうね。君、"幻花"についてあちこちで調べているみたいだし」
「……え」
どうしてそれを、と聞く前に、顎髭の店員が意味深な笑みを浮かべながら戻ってきた。
「兄ちゃん、食堂の店長が面白い話を持っていたよ」
「面白い話? 一体どんな?」
若者は思わず机に身を乗り出す。その嬉々とした様子を、若き"影ノ使者"は熱い茶をすすりながら眺めている。
「"幻花"に直接関係ある訳じゃないんだけどね……。今から約一週間前、皇居の裏門に大勢の召使いが並んでいたそうだよ。召使い達はみんな白い着物を着ているから、とても目立っていたそうでね」
「皇居の召使いが? どうして並んでいたんだ?」
「そこまでは分からないけど……俺が思うに、誰か高貴な方でも見送っていたんじゃないかな」
「高貴?」
「ほら、皇族とかだよ」
「――!」
ほうじ茶をすすっていた"影ノ使者"は湯呑みに口を付けたまま動きを止めた。店員と頭を寄せ合っていた魔術師の若者ははっと目を見開き、素早く顔を上げた。
「おじさん。それ、一週間前の話だって言ったよね?」
「あぁ、そうだ」
「約一週間前に出発して、灯夜山に到達して……、なるほど、そういうことか」
「何か"幻花"に繋がりそうかい?」
「うん、どうにか。ありがとう、おじさん。店長さんにもよろしく言っておいて」
若者は立ち上がると懐に手を入れた。が、懐から何かを出す前に灰色の着物のあちこちを探り始めた。
「あれ? おかしいな」
「なんだい? まだ聞きたいことがあるのかい?」
「いや、手帳が……」
「ほー、他にも色々と調べてあるんだなぁ。どれも"幻花"関連の事柄ばかりだ」
一足先に食堂を出た"影ノ使者"は、こっそり奪ってきた手帳をぱらぱらと眺めていた。
「これは大物が釣れたなぁ。早速、"役人ノ館"に戻って詳しく読んでみよう」
手帳を懐に入れると、彼は「それにしても……」と空を仰いだ。
(あの魔術師はただの魔術師ではないな。もしかしたら、景月皇子一行の姿を見ているかもしれない。灯夜山の"幻花"の気配と皇族が彼の中で結びついたら、かなりまずいことになる……)
妖魔術が専門の彼は、少し腕の立つ魔術師以上に、"幻花"に関する伝説や事柄を頭に詰め込んでいた。そのため、世の中に"幻花"を欲しいと願う者がいることも知っていた。
「手帳を見たところ、"幻花"を手に入れる方法は突き止めていないようだけど……。とりあえず、砂影さんに知らせないと。茂光さんにも伝えておこうかな。天光とやらの任務に影響が出るかもしれない」
彼の足は自然と速くなっていた。
* * *
「天光」
「はい」
「こんな時に、非常に情けないことを聞くのだが……」
「足の痛みが退きませんか? 少しお待ちください。痛みを和らげる塗り薬をお出しします」
「あ、あぁ、すまないな……」
またもや言おうとしていたことを当てられ、景月は気持ちが表情や行動に出やすい自分を軽く責めた。
チェン・イェンの準備が出来るまで、彼の弟子によって二人は離れの小屋に案内された。チェン・イェンの小屋よりは小さかったが、ルピナリーン国の惨状を見てきた景月にとっては何とも思わない粗末さだった。
天光の簡単な処置を受けながら、景月は何の気なしに話し始める。
「さっき、"魔槍"を何回も上げ下げしていたな。あれはどうしたんだ?」
「あぁ、あれですか。"魔槍"が普段より重く感じたので、何度か持ち直してみたんです。どうも、気のせいじゃないみたいなんですよね……」
「やっぱり、セリオ山にいることが関係しているんじゃないのか?」
「多分、そうでしょうね。――はい、終わりました。痛みは完全には消えませんが、しばらくすれば退いてくると思います」
「ありがとう」
景月は座り直すと、小さな窓から空を見上げた。チェン・イェンが準備を始めてから三、四時間経っているため、空には星が瞬き始めている。
荷物の中から"紅ノ勾玉"を取り出し、布に包んだまま手の平に乗せてもてあそんでいると、扉を叩く軽い音が聞こえた。
「お待たせいたしました。師匠の準備が出来たので案内します」
入ってきたのは、セリオ山の山道からチェン・イェンの仮小屋まで案内してくれたロウだった。
(いよいよ、この時がやってきたんだ――)
はやる気持ちを抑えるように、景月は"紅ノ勾玉"を荷物の奥にしまった。天光に支えてもらいながら立ち上がると、チェン・イェンの小屋へと急いだ。
夕陽が一筋も入ってこないほど真っ暗な小屋の中央で、チェン・イェンは微動だにせず座っていた。緊張の糸を切らさないように忍び足で小屋に入ると、ロウは軽く頭を下げて小屋を出てしまった。
「――わしの準備は整った」
チェン・イェンはおもむろに口を開く。
「あとは、景月殿が心を落ち着かせるだけだ」
「――はい」
「目を閉じて、"幻花"の気配を感じろ」
「…………」
言われた通り、景月は目を閉じて意識を己の中心に集中させた。桃色のひらひらした花弁をわずかに揺らしながら、"幻花"は辺りに芳香を撒き散らす。
すると、隣で天光がはっと息を呑んだ。チェン・イェンは満足そうに息を吐いた。
「"幻花"に結界を張り終えた。これで、"魔ノ世"の生き物から危害を加えられることは無いだろう」
「……もう、終わったのですか?」
もっと大掛かりな呪術を想像していた景月は、拍子抜けせずにはいられなかった。
「わしにとって、"幻花"のような実体の無いものに術を掛けることは容易いことだ」
「……ほ、本当に、結界は張られたのですか? "幻花"の匂いがまだ消えていないのですが……」
「皇子、何を言っているのですか? 香りは一瞬で消え去りましたよ?」
「えっ?」
景月は天光と顔を見合わせた。
「本人に実感が無いのは仕方あるまい。わしは、"幻花"ではなく皇子に結界を張ったのだ。"幻花"ごと結界に包まれているのだから、皇子が匂いを感じるのは当たり前だ」
「わ、私に結界!?」
景月は腕を上げたりして自分の体を眺めたが、これといって外見的な変化は無いようだった。
「結界について、注意しなければいけないことがある」と、チェン・イェンは声を低くした。
「あくまでも結界は外界との空気の交わりを遮るもの。結界の中に閉じ込められたものの存在を隠すことは出来ない。その証拠に……そなた、天光と言ったな。"幻花"の匂いは分からなくても、姿は見えるだろう?」
「あ、はい。桃色のひらひらした花弁が見えます」
「なるほど。つまり、結界によって封じ込められたのは"幻花"の香り……ということですね?」
「その通りだ。匂いさえ封じれば、"魔ノ世"の生き物に襲われることはまず無いであろう」
チェン・イェンが頷くと、景月は深く頭を下げた。
「これで、"魔ノ世"の生き物を怖がらないで済みます。ありがとうございました」
景月にならって、天光が"光ノ使者"らしくきびきびと頭を下げると、「結界を張ることは簡単なことだ」とチェン・イェンは一瞬だけ微笑した。
「ただ、唯一苦労するのは、"魔ノ世"に足を踏み入れることだ」
「……それは、"魔ノ世"に入るということですか?」
「そうだ。どんなに優秀な魔術師でも、"地ノ世"とは環境が全く違う"魔ノ世"に立ち入ることは大変なのだ。並の魔術師だと、拒絶反応が起こることもある」
「…………」
拒絶反応とはどういうものかは分からなかったが、一度、熱にうなされながらマヨノカミに会ったことがある景月は、何となくその怖さが分かる気がした。
「しかし、はるばるセリオ山までやって来た道を、もう一度引き返すのは大変だろう? "魔ノ世"を通れば数分で済む」
「す、数分!?」
「そうだな……、通常だと五分もかからないのだが、今は"魔ノ世"が乱れているから十数分かかるだろうな」
「……その、拒絶反応の心配は無いのですか?」
景月が恐る恐る聞くと、チェン・イェンははっきりと頷いた。
「皇子はその身に"幻花"を所持し、皇子の護衛も"魔槍"使いだ。"魔ノ世"を通過するのに必要な魔力は、二人とも充分に備わっているから心配は無い。どうだ、この方法を試してはみないか?」
景月と天光は互いに顔を見合わせた。
「皇子、ご決断を」
天光は真顔で頷く。景月は頷き返すと、チェン・イェンに真っ直ぐ向き直った。
「"魔ノ世"を通って天弓京に帰ります。あなたのお力を貸して下さい」