1-(1) 故郷を発つ
村の外れにある橋の前で、女性が息子の背中に話しかける。
「天真……本当に、行ってしまうのね」
天真と呼ばれた少年は、足を止めて振り返る。
「五年前、茂光さんと約束したし。何より、自分が行くって決めたから……今さら引き返す気はないよ」
そう言って、左手に携えた"魔槍"をぎゅっと握り締めた。
「そう……」
母親はか細い声で呟き、穏やかな西青川のせせらぎに視線を落とした。
萩が混じった風に掻き消されそうな母親の姿に、天真の胸に小さなさざ波が立ったが、それは、父親を越える"光ノ使者"になりたい、という思いによって鎮められた。
「心配しないで、母さん。僕はまだ十五だし、むさむざと命を落とす気はないよ」
天真は"魔槍"で軽く空を斬ると、いつものように、ふわっとした笑みを見せた。
でも、母親の表情から不安と悲壮感が消えることは無かった。
(分かってるよ、)
彼は心の中で呟く。
(僕には父さんみたいな力は無いし、万が一、僕がやられてしまった時、母さんは……)
本当に独りぼっちだ……。
顔を母親から背け、目を閉じる。
辛いのではない。ただ、目を合わせたくなかった。
「天真。一言で良いから、時々は手紙を出すのよ」
「うん」
「自分の体を大事にね」
「分かってる」
「お願いだから、無茶な真似はしないで」
「……うん」
息子の口から「行ってきます」を聞きたくないのだろう。彼女は次々と言葉をかける。
「都――天弓京はここよりも寒いって聞いたわ。これから冬になるから、ちゃんと温かくしなさいよ?」
「それ、昨日も聞いたよ」
天真は"魔槍"を持っていない方の手をひらひらさせた。
「大丈夫。僕は寒さには強いほうだから。この五年間、一回も風邪をひかなかったしね」
胸を張りながら笑う息子につられて、そうよね、と彼女も笑みをこぼす。
つかの間の沈黙。天真は荷物を背負い直し、"魔槍"を右肩に担ぐ。
「……じゃ、そろそろ行くよ」
体を進むべき方向に戻し、顔を母親に向けると、
「行ってきます」
ついに、自信に満ちた声でその詞を放った。
母親は、胸の辺りを押さえながら息子の姿を見ていたが、やっとのことで、目に光るものを浮かべながら笑顔を見せた。
「行ってらっしゃい」
天真は左手を挙げてそれに応えると、それからは一切振り向かずに西青川を渡り切った。
* * *
大量の霊気や魔気を含み、尋常でない重さを持つ"魔槍"。天真は、その"魔槍"を操ることができる数少ない人間である。
彼の父親も同じく"魔槍"の使い手であり、帝の元で活動する"光ノ使者"でもある。――正確には『だった』だが。
優れた身体能力や武術を持つ"光ノ使者"は、学術や占術を使う"影ノ使者"と共に、華蘭皇国の最高権力者である帝に直接仕える集団である。一見、華やかな職業であるため、"使者"は常に民衆の憧れの的だ。
しかし、職業柄、"光ノ使者"は血生臭い仕事が多い。決して、そういう仕事ばかりという訳ではないが、任務によっては、己の身を危険に晒し続けたり、他人の命を絶つこともやむを得ない。
でも、天真は、どうしても"光ノ使者"になりたい理由があった。
一つは、"光ノ使者"隊長の茂光と約束したこと。
もう一つは……
西青川を離れて十分ほど歩いていると、天真は辺りを見回した。
(何だか、妙にたくさんの視線を感じるけど……)
その視線に敵意はなく、むしろ好意に近いものがあったため、彼は気にせず歩を進める。
……が。
「おい、そこのあんちゃん!」
何者かに呼び止められ、天真はその場に立ち止まって振り返る。
彼に声を掛けたのは、四十は超えているであろう中年の男だった。身なりからして、西青川で漁業を営む者のようだ。
「あんちゃん、あんた、例の"魔槍"使いだろ? "光ノ使者"になるって本当かい?」
「……?」
(おかしいな。そのことは母さんと友達にしか言っていないのに、何で知っているんだろう)
天真は首を傾げると、訝しげに漁師の顔を見た。
男は、「やだなぁ、そんな目で見るなよ」と楽しそうに手を振った。
「あんちゃんのことは、ここらでは結構有名なんだぜ? "光陰の魔槍使い"ってな。知らなかったか?」
「ええ、全く」
「そうか。……いやぁ、俺の漁師仲間があんちゃんの姿を見たって言って興奮していたよ。日没前に林を歩いていたら、木と木の間を流れ星が行き交っていたってさ」
そうなんですか、と相づちを打ちながら、天真は恥ずかしいような気持ちになっていた。
(まさか、稽古をしている姿を見られていただなんて……。どれくらいの人が、僕を目撃したんだろう)
夕暮れ時、疲労感で崩れ落ちそうな体を必死に動かし、ひたすら"魔槍"を振っていたことを思い出す。
「あんちゃん、」
不意に、漁師は真顔になり、天真の肩に手を置いた。
「くれぐれも命だけは大切にな。――何年か前、西青川出身の"光ノ使者"が殺されたらしいし」
「西青川の……"光ノ使者"……」
天真は、思わず"魔槍"を握る手を強くした。
「その"光ノ使者"は、僕の父です」
さすがに、そうは言えなかった。
* * *
漁師と別れた後も、天真は見知らぬ人に声をかけられていた。
それも、一人や二人ではない。物売りの女性だったり、子供達だったり、老人だったり……。
今は、主婦とその子供と一緒に市場へ向かっている。
「あなた、市場へ行くのは初めて?」
「そうですね――昔、父と一緒に東青川の市場には行きましたが、西青川の市場は初めてです」
「そうなの。わたしも東青川に行ったことがあるけど、あっちは野菜や山菜が中心ね。こっちは、どっちかと言えば魚介類が多いけど、野菜も果物もたくさんあるわ」
ほら、あそこよ、と女性が前方を指差す。
主婦たちの笑い声、男が必死に値切る声、客を呼び寄せる台詞――。音を聞くだけでも、市場の盛況ぶりが十分にうかがえた。
そんな市場の雰囲気に触発されたのか、出会ってからもずっと黙っていた娘が、母親と手を繋ぐ手を一際大きく振る。
「お母さん、お買い物が終わったら、うさぎ飴買ってね?」
市場に到着して親子と別れると、天真は道中の食料を求めて市場を歩き回る。
「とりあえず、乾米|(炊きたての米を天日干しにした保存食)と干し肉が欲しいな」
途中で、包帯代わりに使う清潔な布を買いつつ、お目当ての品がある干物屋に着いた。
「いらっしゃい。――おや、珍しい顔だね。旅途中かい?」
店主らしき老人が、人懐っこそうな小さな目を眩しそうに細めた。
「ええ、これから天弓京へ向かいます」
「ほう、都へ行くのかい」
乾米を升で量りながら、老店主は天真の全身を凝視した。
「その旅装にその"魔槍"……。さては、"光ノ使者"希望だね?」
「! どうして分かるんですか?」
「遠い天弓京へ向かうにしては軽い身なりで、しかも"魔槍"を持っているからね。お前さんのような若者は、この六十数年で何人も見てきたさ」
老店主は指定された量の乾米を麻袋に詰め終え、今度は干し肉を取るために立ち上がった。
「その"魔槍"は自分のかい?」
「……いえ、父の物です」
「そうかい。その感じからして、かなり使い込まれているね。相当な量の霊気が入っているんだろうね」
「ええ、よく言われます」
天真は右手に握っているそれを撫でながら、老店主の健康的で真っ直ぐな背中を眺める。
五切れほどの干し肉を別の袋に入れると、老人は元の位置に座った。天真は乾米と干し肉を受け取り、店主の皺だらけの手のひらに銭を乗せる。
「――そういえば。お前さん、景月皇子を知っているかね?」
銭を箱にしまいながら、老人は尋ねた。
天真は、少し自信なさげに首を縦に振る。
「確か、華蘭皇国の第一皇子ですよね。僕と同じくらいの歳だとか……」
そうそう、と老店主はうなずいた。
「景月皇子は、庶民の娯楽や生活に興味があると聞いた。皇族らしくない皇子らしいな。もし、お前さんのような若い者が"光ノ使者"になったら、景月皇子に仕えることがあるかもしれん。景月皇子の話、聞かせておくれ」
ついでに乾米を買え、と、老人は楽しそうに肩を揺する。
「ええ、もちろん。ぜひお話しさせて下さい」
老店主につられて、天真も一緒に笑った。
* * *
必要な物を一通り買いそろえ、市場の雑踏から何とか抜け出した頃には、陽はすでに上がりきっていた。
天真は道の脇の大樹に寄りかかり、小さな食堂の前で貰った振る舞い汁をすすりながら地図を広げ、次の地方都市の位置を確認する。
「次は柳天か……。あまり聞いたことがない地名だな」
あっという間に汁を食べ終え、使い捨ての器を手際よく潰し、用意しておいた袋にしまい込む。
「さて。ゆっくりしていないで、さっさと出発するとしますか」
"魔槍"を右肩にかつぎ直すと、天真はゆっくりと歩き出した。