2-(6) 赤目の猪
「……困ったなぁ……」
ぶつぶつと呟きながら、慣れた足付きで森の中を歩き回る天光。その後について行く景月は、慣れない山道を歩き続けたせいでかなり疲れていた。
「天光、何に困っているか分からないが、とりあえず、休まないか?」
「そういう訳にはいかな……あ、いえ、そうしましょう」
天光的には早く先に行きたいようだったが、景月の疲労困憊に苦しむ姿を見て、諦めたようだった。
景月は、近くに横たわっていた大木に腰掛けると、荷物の中から水筒を取り出した。
「夏でもないのに、やはり、運動すると喉が渇くな。疲れもひどいし」
「でも、皇子は体力があるほうだと思いますよ。訓練無しにも関わらず、歩くのも速いですし……まるで野兎のようです」
「そうか?」
それならお前は鹿みたいだ、と言ってやりたい景月だったが、残念ながら、そこまで体力は残っていなかった。
「あ、水筒が空に……」
二口ほど水を飲んだところで、景月の水筒が空になった。
「じゃぁ、近くに川があったので、そこから水を汲んできます。汲んだら軽く煮沸消毒したいので、少し時間かかりますが……」
「もう、渇きは無いから心配しなくて良い。何なら、煮沸に使う小枝を集めておくよ」
「よろしいのですか?」
「あぁ。ここ数日で、使える小枝と使えない小枝の区別はつくようになったからな」
「じゃぁ、お願いします」
天光は右手に"魔槍"を、左手に水筒を持ちながら、今まで来た山道とは別の斜面を軽やかに下りていく。その姿が遠くなると、景月は深呼吸しながら空を見上げた。
「――とは言え、やはり、気力はあっても体が動かないな」
枝を集めると言い出した景月だが、座った途端に一気に足が重くなったのだ。
「これだけ歩いてまだ山頂手前だとは……気が遠くなるな」
今、景月達が越えようとしているのは、華蘭皇国の北に連なる飛灯山脈の一山、灯夜山。皇国で三番目に標高が高いこの山を越えれば、フォーヤン帝国の属国、ルピナリーン国にたどり着く。
ちなみに。一時期は積極的に侵略を進めていたフォーヤン帝国は、ルピナリーン国を属国としてから百年以上、侵略行為を凍結している。それは、長期間に渡る戦闘を強いたことによる多大なる人命の損失と、これ以上領土を広げても国力増大には繋がらないという判断だ。あと少しでも侵攻を進めていれば、平和主義の華蘭皇国はひとたまりもなかっただろう。
ルピナリーン国へと続く山道をぼんやりと眺めていた景月だったが、急に"幻花"の香りが強くなったことに気付いて動きを止めた。
――何かが来る。
ほぼ直感で感じた景月は、その方向へ顔を向ける。
「!」
景月に迫っていたのは、一匹の猪だった。
猪は血のような赤い目をしていた。
「皇子!」
川から戻ってきた天光は、景月を見るなり水筒を道端に投げ捨てる。あまりの毒々しい猪の赤目に驚きを隠せない様子の天光だったが、景月と猪と自分の距離を瞬時に見定める。
「くそっ」
走っても間に合わないと判断した天光は、右腕をしならせ、猪に向かって"魔槍"を投げつける。
"魔槍"は見事に的中したが、倒れ込んでも猪の勢いは止まらない。ずざざざ、という大きな音を辺りに撒き散らしながら、赤目の猪は景月の足元でようやく静止した。
「大丈夫ですか」
「あぁ、大丈夫だ、何とも無い。助けてくれて、ありがとう」
景月は額の汗を拭いながら答えた。彼の周囲には、微かに"幻花"の香りが残っている。
「――申し訳ございません!」
急に、天光は腰を折るようにして頭を下げた。
「お守りすると言ったのに、危ない目に……」
「いやいや。その"魔槍"で助けてくれたではないか」
「今のはまぐれです。簡単に皇子から離れた、僕が迂闊でした。申し訳ありませんでした」
頭を下げつづける天光。
「頼むから、顔を上げてくれ。俺も気が緩んでいたんだ、天光は悪くない。今後はお互いに気をつけよう」
「――はい」
しゅんとしている天光から視線を逸らし、景月は横たわっている猪を見下ろす。
「あれ?」
「どうかされましたか?」
「いや、目が……」
景月はそう言いながら猪を指さす。猪の目を見て、天光もはっと息を呑んだ。
「なぜ? さっきまで赤目だったはずなのに……」
"魔槍"に刺されたまま横たわる猪の目が、赤から黒に変わっていた。
「――やられたか」
広葉樹の太い枝に腰掛けながら、灰色の衣に身を包んだ青年は舌打ちした。
左手に握っていた札を破り捨てると、音をたてずに地面に舞い降りた。
「まぁ、ただの訓練だから別に良いや。衝突寸前で殺すつもりだったし」
衣を整えると、青年は颯爽と歩きだした。
「それにしても……。さっき感じたあの匂いは何だったんだろう? 初めて嗅ぐ匂いだった」
青年は首を傾げた。
「あれが"幻花"の匂いか? でも、この灯夜山は"魔ノ世"と余り結び付きは無いそうだし……」
どこからか手帳を取り出すと、青年は流れるように筆を動かした。
「今日の修業で色々な疑問が湧いた。師匠に聞かなきゃ」
手帳をしまうと、青年は青空を見上げた。
「すべては、"幻花"獲得のために……」