家族に虐げられていましたが、最強魔導師の100番目の弟子になりました。 ~魅了無効の地味令嬢は気づかれないまま溺愛されています~
夜が明けきらないうちに目を覚ますのは、もう習慣になっていた。
小さな窓の外は薄い藍色で、遠くの森の輪郭がぼんやりと浮かんでいる。鳥の声もまだ眠っている時間。家の中は、冷えた静けさだけが満ちていた。
フィオナは毛布をそっと畳み、軋む床板を避けるように足を運ぶ。
この屋敷で、音は敵だ。音を立てれば「迷惑」と言われる。息をすれば「図々しい」と言われる。存在を示せば示すほど、居場所が削れていく気がした。
台所へ下りる階段は薄暗い。灯りを点けるのは許されていない。油がもったいないから――という理由だったけれど、実際はフィオナのために油を使いたくないだけだと、もう知っている。
水桶の縁に触れると、冷たさが指先に染みた。
ため息が出そうになるのを飲み込み、フィオナは黙々と布巾を濡らし、昨日の夕食で使われた食器を洗い始める。
皿に残った油の匂い。焦げた肉の欠片。
それらをこすり落としながら、心の中に小さく念じる。
(早く終わらせよう。早く、いつもの一日を始めよう)
“いつもの一日”。
それは、灰色の一日だ。朝から晩まで、誰かの機嫌を損ねないように息をする一日。
フィオナがこの家に来たのは、八年前。
自分の両親が事故で亡くなり、父の友人だったアーノルド・ベルクが引き取ってくれた。――そう聞かされた。
引き取られたとき、フィオナは泣き腫らした目で、必死に頭を下げたのを覚えている。
「ありがとうございます」「ご迷惑をかけません」
声が震えて、言葉が詰まって、でもそのときアーノルドは困ったように笑って、フィオナの頭に手を置いた。
――大丈夫だ。君は、ここで暮らせばいい。
あの手の温かさだけは、本物だったと思う。
だからこそフィオナは、あれ以来ずっと、“迷惑をかけない”ことだけを守ってきた。
けれどアーノルドは仕事で家を空けがちで、屋敷に残されるのは義母マルグリットと、義姉クラリス。
そして、彼女たちの言葉は、いつも氷みたいだった。
皿を洗い終え、床を拭き、炉を起こす。
薄い火が灯ったころ、屋敷の空気が少しだけ“朝”になる。
そこへ、階段から軽い足音が降りてきた。
「まだ暗いのに、よく動けるわね」
甘い香水の匂いが先に届く。
振り向けば、クラリスがあくびを噛み殺しながら立っていた。艶やかな金髪をふわりと揺らし、シルクの寝間着の上にローブを羽織っている。眠そうなのに、整って見えるのが腹立たしいほどだ。
フィオナはすぐに頭を下げた。
「おはようございます、クラリスお姉さま」
「……挨拶だけは立派ね」
クラリスは鼻で笑い、椅子に腰を下ろす。
その視線が台所全体を値踏みするように走り、最後にフィオナへ戻ってくる。
「朝食、まだ?」
「すぐにご用意いたします」
フィオナは慌てて棚からパンを取り出す。
昨夜の残りの白パン。柔らかい部分は義姉用、端の硬い部分は――いつもフィオナ用。
けれど今日は、その“いつも”すら許されなかった。
台所の奥から、義母マルグリットが現れたからだ。
上品なワンピースに身を包み、髪は完璧にまとめられている。起きてすぐの人間のはずなのに、まるでお茶会の主催者のように整っている。
「クラリス。今朝は蜂蜜も出して頂戴。あなた、授業が長いのでしょう?」
「もちろん。今日は先生の視察もあるもの」
クラリスが誇らしげに言う。
フィオナは手を止めずに蜂蜜の瓶を探した。棚の上段――背伸びをしなければ届かない位置に置かれている。
義母は、わざとそこに置く。
「フィオナ、手際が悪いわね」
「申し訳ありません」
背伸びした指先が瓶に触れ、落としそうになって心臓が跳ねた。
割ったら、きっと大騒ぎになる。弁償できない。許されない。
慎重に瓶を抱え、テーブルへ置く。
義姉は当然のように蜂蜜をたっぷりとパンに垂らし、うっとりした顔で頬張った。
「甘い。最高」
フィオナは、その光景を見ないように目を伏せた。
同じパンの匂い。なのに、世界が違う。
義母がちらりとフィオナを見た。
「あなたの分は?」
「……あとで、いただきます」
答える声が小さくなる。
言えば、また嫌味が返ってくるのがわかっている。
“居候が食卓に座るなんて”
“あなたは働いてから”
いつも、その言葉で黙らされる。
義姉がパンを食べ終え、ナプキンで口元を拭う。
そして何気ないふうを装って言った。
「ねえ、フィオナ。今日の昼、私の友達が来るの。あなた、午後は屋敷をピカピカに整えておいて」
「午後は……」
フィオナは思わず口を開き、すぐに閉じた。
午後は学校の補習がある。彼女は成績が悪いわけじゃない。ただ、義姉が「補習を受けておきなさい」と言えば、そうなる。
けれど今日は違った。
補習はない日だ。やっと少しだけ図書室に行けると思っていた。魔法理論の本を読む時間を――。
義母が微笑んだ。
「午後は掃除を。クラリスの友達に恥をかかせないでちょうだい」
その微笑みが、フィオナの胸に小さな釘を打ち込む。
逆らえない。
逆らう理由がない。
自分がここにいる理由は、“引き取ってもらった恩”だけなのだから。
「……わかりました」
口の中が苦い。
けれど笑ってみせるのが、最善だ。
アーノルドがいれば、きっと違う。
そう思う自分が、少しだけ情けない。
(でも、お義父さまは知らないんだ)
知らない。
自分がどんな部屋で眠っているか。
どんな風に朝食を抜かされるか。
どんな言葉で日々を削られているか。
知らないから、優しい。
知らないから、笑って「学校はどうだ?」と聞く。
もし知ったら、どうなるだろう。
怒るだろうか。悲しむだろうか。
――そして、後悔させてしまう。
(迷惑はかけない)
それだけは、絶対に守る。
フィオナはテーブルの端に置かれた空の皿を片付け、義姉の食べ終えた皿を洗いに戻った。
自分の胃は空っぽのまま。だけど不思議と、もう慣れている。
朝食がないのは、いつものこと。
空腹は、痛みになる前に、麻痺する。
窓の外が少し明るくなり始めた。
遠くで鶏の鳴く声がして、屋敷の眠りがほどけていく。
フィオナは急いで身支度を整える。
制服は、控えめな色合いのワンピース。丈は少し短い。去年のクラリスのお下がりだから。
胸元のリボンは擦り切れているが、縫い直す糸がない。
鏡に映る自分は、本当に“平凡”だった。
焦げ茶の髪はまとめてもまとまりきらず、目は薄い琥珀色。化粧なんて知らない。肌も少し荒れている。
(クラリスお姉さまと、同じ学校に通わせてもらってるだけでもありがたいと思わなきゃ。)
同じ制服なのに、同じ人間なのに。
どうしてこんなに差ができるのだろう。
――いや、考えても意味はない。
自分はここに“置いてもらっている”だけ。
それがすべてだ。
玄関で靴を履こうとすると、踵の革が少し裂けているのが目に入った。
まただ。
縫い直す時間はない。今日は我慢して歩くしかない。
玄関ホールを通り、扉を開ける。
朝の空気が肌に触れた瞬間、少しだけ息が楽になる。
屋敷の中はいつも、息が詰まる。
外の空気は冷たいけれど、自由だ。
門へ向かう砂利道を歩きながら、フィオナは小さく肩をすくめた。
今日も学校。
そこが唯一、家から離れられる場所。
とはいえ、学校も完全な逃げ場ではない。
クラリスの友人たちは、クラリスの言葉ひとつで、フィオナを見えないものとして扱う。
笑い声。視線。ひそひそ声。
「養女なんでしょう?」
「元の家、事故で死んだんだって」
「かわいそう。まぁ、だから引き取ってもらえただけよね」
そんな囁きが、耳の奥に残る。
それでも――。
それでも、魔法の授業だけは好きだった。
火を灯す小さな魔法。水を浄化する魔法。植物を育てる魔法。
日々の苦しさが薄れるような、小さな奇跡がそこにある。
フィオナは胸元の制服を軽く握った。
(今日も、何も起きませんように)
何も起きないことが、いちばん安全。
自分にとっても、この家にとっても。
けれど――なぜだろう。
胸の奥が、ほんの少しだけざわめいていた。
風の冷たさとは違う、理由のない予感。
丘を越え、町の石畳が見えてくる。
魔法学校の尖塔が、朝日を受けて淡く輝いていた。
あそこに行けば、今日も“魔法”がある。
自分が知らない世界がある。
フィオナは足を速めた。
壊れかけた靴が痛むのを無視して。
――灰色の朝が終わり、今日が始まる。
何も変わらないはずの一日が。
けれどその日、フィオナはまだ知らない。
学校で出会う“誰か”が、灰色の世界に初めて光を落とすことを。
フィオナは、魔法学校の門をくぐった。
朝の鐘が鳴り終わったあとも、教室はざわついていた。
「ねえ、聞いた?」
「今日、特別講師が来るんだって」
「王都からだよ! しかも……あの人らしい」
ひそひそと交わされる声が、いつもよりも熱を帯びている。
フィオナは自分の席で、静かに教科書を開いていた。
けれど文字は、ほとんど頭に入ってこない。
(特別講師……?)
そんな話、聞いていない。
そもそもフィオナは、誰かから情報をもらえる立場ではなかった。
前の席では、クラリスが友人たちに囲まれている。
「きっとエドワード様よ」
「えっ、本当!?」
「《黒銀の魔導師》よ? あの方が来るなんて、普通ありえないわ」
誇らしげに語る義姉の声に、周囲の生徒たちが一斉に息をのむ。
「黒銀の魔導師……」
フィオナも、その名だけは知っていた。
王国最強の魔導師。
若くして数々の功績を上げ、王宮付きとなった天才。
冷酷で近寄りがたいが、圧倒的な実力を持つ――そんな噂。
(そんな人が……ここに?)
信じられない気持ちでいると、教室の扉が静かに開いた。
担任教師が先に入ってきて、いつもより少し緊張した様子で言う。
「静かに。……本日は、特別講師をお迎えしている」
ざわめきが一気に収まる。
「紹介しよう。王宮付き魔導師、エドワード・ノクス様だ」
その名前が告げられた瞬間――。
空気が、変わった。
ゆっくりと扉の向こうから現れた人物に、教室中の視線が吸い寄せられる。
黒に近い濃紺の外套。
銀糸のように光る髪。
彫刻のように整った横顔。
そして、静かなのに圧倒的な存在感。
――近づいてはいけない人。
本能的に、そう感じさせる雰囲気だった。
女子生徒たちが、息を呑む。
「……かっこいい……」
「本物だ……」
「やば……」
誰かが小さく呟いた瞬間、周囲が一斉にうなずく。
クラリスでさえ、一瞬言葉を失っていた。
エドワード・ノクスは教壇の前に立ち、淡々と頭を下げた。
「エドワード・ノクスだ。本日は、魔力制御の特別講義を担当する」
低く、落ち着いた声。
それだけで、何人もの女子が頬を染めたのがわかった。
(……すごい)
フィオナは、ぼんやりと彼を見つめていた。
綺麗だとか、かっこいいとか。
そういう感想よりも先に、なぜかこう思った。
(……遠い人だ)
同じ空間にいるのに、別の世界の住人のようだった。
授業が始まると、エドワードは黒板に魔法陣を描きながら、淡々と説明を続ける。
「魔力とは、感情に左右されやすい。特に、興奮や高揚は暴走の原因となる」
声は静かで、抑揚は少ない。
けれど不思議と、耳に残る。
「制御が甘ければ、自身だけでなく周囲を巻き込む」
生徒たちは皆、必死にメモを取っていた。
――例外は、いない。
……はずだった。
授業が進むにつれ、教室の空気が、ほんのりと甘くなっていく。
クラリスの席から、淡い光が漏れていた。
(……あれ?)
フィオナは、違和感に気づいた。
クラリスの周囲の生徒たちが、うっとりとした表情になっている。
目が潤み、頬が赤く染まり、視線はすべて――前方へ。
エドワードのほうへ。
「……エドワード様……」
「素敵……」
囁くような声。
(魅了……?)
クラリスは、無意識に魔力を流しているのだ。
自分を引き立てるための、微弱な魅了魔法。
いつものことだった。
けれど今日は、なぜか強く感じる。
教室全体が、ふわふわと浮ついたような空気に包まれていく。
――けれど。
フィオナだけは、何も変わらなかった。
(……暑いな)
それが正直な感想だった。
窓から差し込む日差しが強くなったせいだろうか。
少し、ぼうっとする。
けれど意識ははっきりしている。
エドワードの声も、黒板の文字も、きちんと理解できる。
周囲の様子に気づいて、首をかしげた。
(みんな……どうしたんだろう)
そのときだった。
ふいに、視線を感じた。
顔を上げると――エドワードと、目が合った。
心臓が、どくんと跳ねる。
鋭くも優しい灰色の瞳が、まっすぐこちらを見ている。
なぜ、自分を?
フィオナが戸惑っていると、授業が終わる鐘が鳴った。
「今日はここまでだ」
エドワードはそう告げ、生徒たちは一斉に立ち上がる。
ざわめきが戻り、女子たちが色めき立つ。
「ねえねえ、話しかけていいかな?」
「無理無理、緊張して死ぬ」
「サイン欲しい……」
そんな声が飛び交う中。
「――そこの君」
低い声が、教室に響いた。
フィオナは、最初、自分のことだとは思わなかった。
けれど。
「……窓際の席の」
自分の席だった。
「え……わ、私ですか?」
周囲の視線が一斉に集まる。
フィオナは慌てて立ち上がった。
「こちらへ来なさい」
足が、少し震える。
なぜ呼ばれたのかわからない。怒られるようなことはしていないはずなのに。
教壇の前に立つと、エドワードはじっと彼女を見つめた。
近くで見ると、やはり整いすぎている。
怖いくらいに。
しばらく沈黙が続いたあと、彼は小さく呟いた。
「……君だけ、平気だな」
「……え?」
「周囲が、軽い魅了状態にあった。だが、君には影響がない」
フィオナは、ぽかんとした。
「そ、そうなんですか……?」
言われても、よくわからない。
エドワードはわずかに眉をひそめた。
「……自覚はないのか」
「えっと……すみません……」
謝る理由もわからないまま、謝ってしまう。
その様子を見て、エドワードは一瞬だけ、困ったような表情をした。
「……いや。謝る必要はない」
そして、静かに言う。
「君の名前は?」
「フィオナ……です」
「フィオナ……」
名前を呼ばれただけなのに、胸が少し熱くなる。
「覚えておく」
それだけ言って、彼は視線を外した。
「もう戻っていい」
「……はい」
席へ戻る途中、フィオナは周囲の視線に気づく。
好奇心。嫉妬。戸惑い。
クラリスの視線だけが、わずかに冷たかった。
(……なんで、私なんだろう)
理解できないまま、席に戻った。
ただひとつ、はっきりしていることがあった。
――あの人は、私を見た。
今まで誰にも気に留められなかった自分を。
胸の奥が、微かに揺れた気がした。
エドワード・ノクスが教室を去ったあとも、ざわめきは収まらなかった。
「ねえ、見た? フィオナ、呼ばれてたよね」
「なんであの子が……」
「え、まさか……」
言葉の端々に含まれるものは、好奇心と、嫉妬と、ほんの少しの侮蔑。
フィオナは教科書を抱え直し、できるだけ小さく息をした。
(違う。何もない。私はただ……呼ばれただけ)
そう自分に言い聞かせても、胸の奥のざわめきが消えない。
あの灰色の瞳。
「覚えておく」と言われたときの、妙に静かな熱。
教室を出ようとすると、背中に鋭い視線が刺さった。
振り返るまでもない。
クラリスだ。
義姉は完璧な微笑を浮かべたまま、フィオナの横をすり抜け、友人たちに囲まれて廊下へ出ていく。
香水の甘い残り香が、わざとらしいほど長く漂った。
(……私のせいで、お姉さまの機嫌が悪くなったら)
それだけは、困る。
家に帰ったあとの“空気”が、さらに冷たくなる。
フィオナは人の少ない階段を選び、二階の図書室へ向かった。
本当は、少しだけ本を読みたかった。けれど今日は、頭の中が落ち着かない。
図書室の扉を開けると、紙の匂いと静けさが迎えてくれる。
そこだけが、いつも味方だった。
棚の間を歩きながら、フィオナは魔力制御の入門書を手に取った。
授業の続き――のはずなのに、ページをめくっても文字が滑っていく。
(私だけ、魅了の影響がない……)
自分のことなのに、どこか他人事のように感じる。
そんな特別なものが、自分にあるわけがない。
そもそもフィオナは、自分の魔力がどれほどあるかも正確には知らなかった。
入学時の測定は受けた。けれど、結果を義母が管理していて、本人には知らされていない。
――あなたは凡庸なのよ。
そう言われたことだけは、はっきり覚えている。
不意に、扉が開く音がした。
図書室に入ってきたのは、司書ではない。
黒に近い濃紺の外套。
足音がほとんどしない。
フィオナの背筋が硬くなる。
(……まさか)
棚の隙間から覗くと、そこにいたのは――エドワード・ノクスだった。
心臓が一気に跳ねる。
どうして、ここに。王宮付きの魔導師が、地方の魔法学校の図書室に。
彼は淡々と棚を眺め、何冊かの本を指先で確かめるように触れていた。
その姿は、授業のときよりも、少しだけ“人”に見える。
けれどやはり、近づきがたい。
(話しかける? ……無理。無理無理)
フィオナは反射的に棚の陰へ身を隠した。
気づかれたら、また目立つ。
目立てば、クラリスが――。
そう思った瞬間だった。
「……そこにいるのは、フィオナか」
低い声。
背中が凍ったように固まり、フィオナはそっと顔を出した。
エドワードがこちらを見ている。まるで最初から、気づいていたように。
「……はい」
逃げられない。
フィオナは本を抱えたまま、棚の間から出ていった。
近くで見ると、彼の存在感はますます強い。
視線を合わせるだけで、何かを見透かされそうで怖い。
「読書か」
「はい……授業の復習を……」
嘘ではない。
けれど、復習どころではなかったのも事実だ。
エドワードはフィオナの手元にある本を見て、少し眉を寄せた。
「……魔力制御の入門」
「はい。私、あまり得意じゃなくて」
口にした瞬間、しまったと思った。
自分から“できない”と言うなんて。
相手は王国最強の魔導師だ。呆れられるかもしれない。
けれどエドワードは、呆れた顔をしなかった。
むしろ淡々と、言う。
「入門書は悪くない。ただ、書き方が雑だ」
「え……?」
フィオナは思わず本を見下ろす。
雑? この本が?
エドワードは棚から別の本を抜き取り、フィオナの前に差し出した。
「こっちを読め。図が少ないが、理屈が正確だ」
「……ありがとうございます」
受け取ると、本は意外に重い。
装丁が古い。紙の匂いが深い。
それだけで、胸の中に小さな灯が点った気がした。
誰かが自分のために本を選ぶなんて、滅多にないことだったから。
フィオナが礼を言うと、エドワードは短く頷いた。
「時間はあるか」
「え……?」
「少し、確認したい」
フィオナは瞬きをした。
確認? 何を?
エドワードは、窓際の机を顎で示す。
「ここでいい。座れ」
「は、はい……」
言われるままに席に着くと、エドワードは向かい側ではなく、隣の椅子を引いた。
距離が近い。
肩が触れそうで、フィオナは本能的に背筋を伸ばす。
(近い……! なんで隣……?)
香水ではない、ひんやりとした外套の匂い。
落ち着いた気配。
それだけで心臓が忙しい。
エドワードは机の上に紙とペンを置き、淡々と言った。
「簡単な魔法陣を描け」
「……はい」
フィオナは震える指でペンを持ち、紙に円と線を描き始める。
基本中の基本。灯火の魔法陣。
けれど、描いているうちに手がこわばる。
隣にいる。見られている。
それだけで、普段はしないミスをしそうになる。
フィオナが一瞬筆を止めると、エドワードが低く言った。
「落ち着け」
「……すみません」
「謝るな」
短い言葉なのに、妙に胸に刺さった。
フィオナは深呼吸し、もう一度線を引く。
魔力を流すイメージを思い浮かべる。
――火。温かさ。
炉の火。冬の夜の、唯一の救い。
描き終えた瞬間、紙の上の魔法陣が淡く光った。
小さな火花が、指先に灯る。
「……できた」
か細い声。
エドワードはそれを見て、少しだけ目を細めた。
「悪くない」
その言葉が、思っていた以上に嬉しくて、フィオナは戸惑った。
自分はいつも「遅い」「下手」「無駄」と言われてきたから。
「ただ――」
続く言葉に、身構える。
けれどエドワードは、紙の端を指で軽く押さえただけだった。
「魔力の流し方が、妙に“通らない”」
「通らない……?」
「通らないというより、弾かれている」
フィオナは、わからなかった。
魔力が弾かれる? そんなことがあるのだろうか。
「君は……精神系の干渉に、耐性がある」
エドワードの声が、少しだけ低くなる。
「……耐性?」
「魅了、洗脳、幻惑。そういう類が効かない」
フィオナは、息を呑んだ。
昨日の授業の話だ。
やっぱり、あれは本当だったのか。
「……でも、私は……普通で」
「普通ではない」
きっぱりと否定され、フィオナは言葉を失う。
エドワードは、淡々と続けた。
「その体質は珍しい。危険でもある。利用される」
危険。利用。
フィオナは喉が渇くのを感じた。
(私が……?)
自分の人生は、利用されるほど価値があるようには思えない。
むしろ、いつも誰かの“ついで”でしかなかった。
フィオナが黙っていると、エドワードは机の上のペンを取り、紙の魔法陣の一部を書き足した。
線は迷いなく、綺麗で、まるで魔法陣自体が美術品みたいに整っていく。
「この補助線を入れろ。すると魔力が通る」
「……え、でも、こんな線……入門書には……」
「入門書は、万人向けに削っている。君には合わない」
エドワードの指が、紙の上をなぞる。
指先が紙に触れる音が、やけに大きく聞こえた。
フィオナは恐る恐る、その線を真似して描いた。
すると、さっきよりも魔法陣がはっきり光る。
指先の火が、少しだけ明るくなった。
「……すごい」
思わず漏れた声。
エドワードは小さく頷き、視線をフィオナの顔へ戻した。
灰色の瞳が、真っ直ぐこちらを見る。
その視線は冷たくない。
けれど熱いとも違う。
――“観察”に近いのに、なぜか息が詰まる。
「君は、自分が何者かを知らない」
低い声が、静かに胸の奥に落ちる。
「……知らないままでいるのは危険だ」
フィオナは、指先の小さな火を見つめた。
揺れる炎は、まるで自分の心みたいに不安定だ。
(危険……)
もし、それが本当なら。
もし自分が特別なら。
――この家で、今までのように目立たず生きることは、できないのだろうか。
ふいに、エドワードが言った。
「次の授業のあと、少し時間を取れ」
「え……?」
「個別に確認する。拒否は?」
拒否。
そんな選択肢があるのだろうか。
けれど、断ったら。
もしかしたら、もう二度とこの人は自分に声をかけないかもしれない。
それが怖いと思った自分に、フィオナは驚いた。
「……いえ。大丈夫です」
声が小さく震える。
エドワードは、ほんのわずかに表情を緩めた気がした。
それは錯覚かもしれない。
でも、フィオナの胸が少しだけ軽くなる。
「よろしい」
そう言って彼は立ち上がる。
図書室の静けさが戻ってくると、急に現実感が押し寄せた。
自分が今、王国最強の魔導師と二人で話していたなんて。
フィオナは慌てて頭を下げる。
「……あ、ありがとうございました。先生」
その呼び方が自然に出たことに、自分で驚く。
先生。
そんな風に誰かを呼ぶのは、久しぶりだった。
エドワードは一瞬だけ足を止め、横顔のまま言った。
「……先生、か」
「え……?」
「いや。いい」
短く言い、彼は図書室を出ていった。
扉が閉まる音がして、フィオナはようやく息を吐いた。
机の上には、彼が選んでくれた本と、書き足された魔法陣の紙。
それらが現実の証拠みたいにそこにある。
フィオナは紙をそっと撫でた。
(……私、特別じゃないのに)
そう思うのに、心のどこかで小さな声が囁く。
(でも、あの人はなぜか気にかけて、見てくれる。)
誰も見なかった“フィオナ”を、エドワード・ノクスだけが見ている。
それが怖い。
それが嬉しい。
その両方が混ざって、胸の奥がくすぐったく痛かった。
窓の外では、校庭を走る生徒たちの笑い声が遠くに聞こえる。
フィオナは本を抱きしめ、そっと目を伏せた。
ーー
その日の午後、空はやけに明るかった。
窓から差し込む光が、机の上の紙を白く照らしている。
教室の空気は、いつもより落ち着かない。生徒たちの視線が、何度も前方へ向かう。
――エドワード・ノクス。
特別講師として滞在しているというだけで、学校全体が浮き立っていた。
女子生徒はもちろん、普段は興味がなさそうな男子まで、やけにそわそわしている。
フィオナはその熱を、少し遠くから眺めていた。
自分の中にあるのは、興奮よりも緊張だった。
(授業のあと、時間を取れって……)
個別に確認する、と言われた。
拒否は、と聞かれた。
あの灰色の瞳に見つめられて、断れるはずがなかった。
ただの確認。
そう思っているのに、胸の奥が小さく跳ねる。
――何を確認するのだろう。自分の体質? 魔力? それとも……。
「フィオナ、ぼーっとしてるわよ」
背後から、甘い声。
クラリスだった。
義姉は机に肘をつき、まるで親しい姉のように微笑んでいる。
周囲の友人たちも、くすくす笑いながらこちらを見ていた。
「今日の午後も、ノクス様の授業だものね。緊張するのはわかるけど」
わざとらしい言い方。
フィオナは視線を落とした。
「……はい」
「でも、変な期待はしないほうがいいわよ?」
クラリスの声は柔らかいのに、言葉だけが刺のように鋭い。
「ノクス様は“選ぶ人”よ。あなたみたいな……地味な子が、声をかけてもらえたからって」
友人の一人が、口元を押さえて笑った。
「クラリス、言い過ぎ」
「だって本当のことじゃない」
クラリスは肩をすくめる。
その瞬間、フィオナの胸の奥がひりりと痛んだ。
(期待なんて……してない)
していない。
していないのに、痛い。
「……授業、始まるわよ」
クラリスは軽やかに席へ戻っていった。
フィオナは小さく息を吐き、前を向く。
ちょうど扉が開き、エドワードが教室に入ってきた。
空気が、一瞬で張り詰めた。
黒に近い濃紺の外套。
淡い銀髪。
冷たいようで、熱を秘めた灰色の瞳。
彼が教壇に立つだけで、教室全体が静かになる。
それは“魅了”とは違う。
単純に、圧倒される。
「今日の授業は実技だ」
エドワードの声が、黒板の前で淡々と響く。
「魔力制御。特に、精神干渉に対する防御を扱う」
女子たちがざわめいた。
精神干渉――魅了、幻惑、洗脳。
フィオナの指先が、少し冷たくなる。
(また……その話)
昨日、自分だけが魅了の影響を受けなかった。
今日も、それを試されるのだろうか。
生徒たちは二人一組に分かれ、簡単な幻惑の魔法をかけ合い、解除する練習を始めた。
教室の空気が、少しずつ魔力で満ちていく。
「いいか。幻惑は“見たいもの”を見せる魔法だ。恐怖を見せる者もいれば、欲望を見せる者もいる」
エドワードは教室を歩きながら、淡々と指導する。
フィオナは組む相手がいなかった。
いつものことだ。誰も自分と組みたがらない。
「じゃあ私、クラリスと組むね」
「私も!」
「私も!」
彼女の周りには人が集まる。
フィオナの周りには、空気だけが残る。
「……フィオナ」
エドワードの声。
顔を上げると、彼がすぐそばに立っていた。
「君は私と組め」
「え……?」
教室の視線が一斉にこちらへ集まる。
フィオナの体温が一気に上がった。
(無理、目立つ……!)
「……よ、よろしいんですか」
「よろしい」
あまりにも即答で、フィオナは言葉を失う。
エドワードは小さな魔法陣を指先で描き、淡い光を漂わせた。
「今から、簡易幻惑をかける。抵抗しろ」
フィオナはごくりと唾を飲み、頷いた。
「……はい」
次の瞬間、視界がふっと揺れた。
――甘い香りがする。
花の香り。蜂蜜の香り。
そして、温かい焼き立てのパンの匂い。
フィオナの目の前に、白いテーブルが現れた。
豪華な朝食。柔らかいパン。果物。温かいスープ。
義母が微笑み、義姉が笑っている。
そして、義父アーノルドが優しい顔で言う。
『おいで、フィオナ。君の席だ』
胸が、きゅっと締め付けられた。
(……これは)
欲しいものを見せる幻惑。
“見たいもの”を。
フィオナは指先を握りしめる。
これが現実ではないことはわかる。わかっているのに、喉が熱くなる。
(やめて……)
やめてほしい。
こんなものを見せないで。
――現実との差が、痛い。
けれど、次の瞬間。
幻惑が、ふっと霧のようにほどけた。
教室の景色が戻る。
エドワードの灰色の瞳が、目の前にある。
「……抵抗したな」
彼の声が、わずかに低い。
フィオナは驚いた。
「え……? 私、何も……」
「無意識だ。だが君は幻惑を“弾いた”。普通なら数秒は引きずる」
周囲がざわつく。
クラリスの友人たちが目を見開き、クラリスが唇を噛んだ。
フィオナは、心臓が早鐘を打つのを感じた。
(私……そんなに?)
そのときだった。
教室の隅で、誰かが笑った。
くすり、と。甘い笑い声。
「……ふふ。さすがね」
クラリス。
義姉の目が、妙に光っていた。
その笑みは、優雅というより、何かを試すような色を帯びている。
クラリスは指先を軽く動かした。
空気が、ねじれる。
甘い香りが、さっきとは比べ物にならないほど濃くなる。
教室全体が一瞬、ふわりと沈み込む。
「クラリス、何を――」
誰かが言いかけた。
その声は途中で途切れた。まるで喉を塞がれたように。
生徒たちが、揃ってエドワードを見上げる。
目が潤み、頬が赤くなり、呼吸が浅くなる。
「エドワード様……」
「……すごい……」
口々に囁きながら、立ち上がろうとする者までいる。
教室の空気が、甘く、重く、熱くなる。
(……強い)
フィオナは肌が粟立つのを感じた。
これは“軽い魅了”じゃない。
クラリスの魔力が、どこか歪んでいる。
本人が制御できていない――?
エドワードの眉がわずかに動く。
「やめろ」
声は低い。
けれど、クラリスは止まらない。
むしろ、笑みを深めた。
「だって、確かめたかったんですもの。ノクス様」
その瞬間、空気が一段、ねじれた。
甘い香りが、刺すように濃くなる。
生徒たちの目が虚ろになり、誰かがふらりと前へ歩き出した。
「ノクス様……ノクス様……」
まるで夢遊病みたいに。
教室が、魔法で満たされる――満たされすぎて、溺れる。
(……まずい)
フィオナは直感した。
これはただの魅了じゃない。
暴走に近い。
クラリスの顔色が、わずかに青いことに気づく。
彼女自身も、何かに飲まれている。
フィオナの視界だけが、はっきりしていた。
――自分だけが、正気。
胸の奥が冷たくなる。
(私が……どうにかしないと)
でも、どうすればいい?
自分は魔導師じゃない。
ただの地味な生徒。
なのに――。
「全員、動くな!」
エドワードの声が教室に響いた。
床に複雑な魔法陣が広がり、淡い光が壁を走る。
結界。
教室の扉と窓が、同時に閉じた。
外の音が、ぷつりと切れる。
教室が、隔離された。
閉じ込められた、と感じて、生徒たちが悲鳴を上げかける。
けれど魅了に絡め取られた声は、かすれた吐息にしかならない。
フィオナだけが、立ち上がった。
「先生……!」
自分の声が、震えているのがわかった。
怖い。
でも、ここで黙ったら、誰かが倒れる。誰かが壊れる。
エドワードが一瞬、こちらを見る。
その視線に、驚きと――わずかな安堵が混ざった気がした。
「フィオナ。そこにいろ」
命令のようで、守るための言葉だった。
教室の空気は、さらに歪む。
クラリスの魔力がうねり、甘い香りが濃くなる。
生徒たちの瞳が、完全に焦点を失い始めていた。
フィオナは、唇を噛んだ。
(どうして……こんなことに)
クラリスは、いつも魅了を使う。
でも、こんな風に暴走したことはない。
――いや、今まで気づかなかっただけかもしれない。
エドワードは教壇の前に立ち、冷たい声で言った。
「このままだと、精神が焼ける」
その一言が、フィオナの背筋を凍らせた。
精神が、焼ける。
戻れなくなる。
笑えなくなる。泣けなくなる。自分がわからなくなる。
フィオナは周囲を見た。
友人たち。義姉の取り巻き。
自分を見下していた子たち。
それでも、苦しんでいるのは同じだ。
(嫌だ……)
誰も壊れてほしくない。
こんなところで。
フィオナは、震える手を握りしめた。
教室の結界が、完全に閉じる。
外の世界は遠くなり、甘い魔力の波だけが押し寄せる。
――歪んだ魔法が、教室を満たしていく。
フィオナだけが、その中心で正気のまま立っていた。
そして、ようやく理解する。
(私が特別だっていうのは……こういうこと?)
嬉しくなんてない。
怖い。
でも――逃げられない。
エドワードの声が、低く響く。
「フィオナ。君が鍵になる」
鍵。
自分が?
問い返す間もなく、教室の空気がさらに揺らいだ。
生徒の一人が、膝から崩れ落ちる。
フィオナの喉が震える。
(どうしよう)
不安が、胸の中で黒く膨らんでいく。
――次の瞬間。
教室の扉の向こうから、誰かが必死に叩く音がした。
けれど結界は揺るがない。
閉じ込められた教室。
暴走する魅了。
正気なのは、フィオナだけ。
フィオナは、息を吸った。
震える胸を押さえながら、エドワードのほうを見た。
――助けたい。
助けなきゃ。
でも、どうすれば。
答えのない不安だけが、静かに足元から迫っていた。
教室の空気は、甘く重かった。
香りというより、粘つく魔力の膜。
吸い込めば肺の奥に絡みつき、思考の輪郭をぼやかしていく。
生徒たちの瞳は虚ろで、頬は火照り、口元からは意味のない囁きが漏れる。
「……ノクス様……」
「好き……」
それは恋の言葉に似ていたけれど、恋ではない。
もっと不自然で、もっと危険な――歪んだ魔法の副作用だった。
フィオナだけが、はっきりとそれを“おかしい”と感じていた。
(みんな……壊れそう)
膝から崩れた生徒の肩が小刻みに震えている。
笑っているのに涙を流している子もいる。
自分の意思とは関係なく、ただ魅了の波に揺らされている。
そして、その中心にいるのがクラリスだ。
義姉は教室の中央に立ったまま、両手を胸の前で組み、うっとりと天井を見上げている。
頬は青白く、呼吸は浅い。
まるで、彼女自身も何かに吸い取られているようだった。
(お義姉さまも……)
クラリスお義姉様を嫌いだと思う。
苦しい。怖い。
それでも、壊れてほしくない。
フィオナの胸の奥が、矛盾した痛みでいっぱいになる。
エドワードが教壇の前で結界を維持しながら、低く言った。
「フィオナ。君次第だ!」
私次第?
その言葉が、胸に落ちてくる。
フィオナは唇を噛み、周囲を見渡した。
扉は閉じ、窓も封じられている。外へは出られない。
教室の中だけで、この異常を止めなければならない。
(でも、私は……)
最強魔導師ではない。
ただの生徒だ。地味で、目立たなくて、誰にも期待されない――そのはずだった。
けれど、今ここで正気なのは自分だけ。
エドワードが一瞬、こちらを見た。
灰色の瞳が、迷いなくフィオナを捉える。
「恐れるな。指示を出す。君はそれに従え」
命令の言葉なのに、なぜか安心した。
“私でもいい”と認められた気がしたからかもしれない。
フィオナは頷いた。
「……はい」
次の瞬間、エドワードが掌を教室の床へ向ける。
光の線が走り、教室全体に細い魔法陣が浮かび上がった。
「全員、床の線から外れるな」
当然、生徒たちは応じない。
応じる意識がない。
ふらふらと前へ歩き出す者がいる。
誰かに抱きつこうとする者がいる。
泣きながら笑う者がいる。
(どうしよう……)
焦りが喉を焼く。
フィオナは震える手を握りしめた。
やるしかない。
ここで黙っていたら、誰かが本当に壊れる。
フィオナは一歩前に出た。
「みんな……っ! 戻って……!」
声はかすれていた。
普段なら誰も聞かない声。
でも、今は叫ぶしかない。
床の光の線が、避難の“目印”なのだと、フィオナは理解した。
線の内側にいれば、結界の防御が働く。
外側にいれば、魅了の波にさらされる。
フィオナは、最初に膝から崩れた生徒のもとへ駆け寄った。
同じクラスの女子だ。いつもフィオナを見下すように笑っていた子。
「大丈夫……? 立てる?」
返事はない。
けれど腕を掴むと、彼女の身体は意外と軽かった。
食事を抜かされるのは自分だけじゃない。
この学校の生徒だって、無理をしている。
フィオナは彼女を支え、光の線の内側へ引きずるように運ぶ。
その瞬間、彼女の呼吸が少しだけ整った。
涙で濡れた瞳が、ほんの一瞬、焦点を結ぶ。
「……え……?」
すぐにまたぼやけるけれど、変化は確かにあった。
(効いてる……!)
フィオナは次に、窓際でふらつく男子生徒へ向かった。
扉へ近づこうとしている。結界の境界に触れれば、弾かれて怪我をするかもしれない。
「ダメ、そこ……!」
フィオナは彼の腕を掴んだ。
男子生徒は虚ろな目でフィオナを見たあと、ぼそりと呟く。
「……ノクス様に……会いたい……」
その言葉に背筋が冷える。
意志が奪われている。魅了が、思考そのものを塗り替えている。
「会えるから……! だから、ここに……!」
フィオナは言い聞かせるように繰り返し、彼を線の内側へ引いた。
ひとり。
ふたり。
みっつ。
汗が額を伝う。
息が切れる。
足元がふらつく。
それでも、動き続けた。
教室の隅では、クラリスの友人たちが床に座り込んで笑っている。
笑い声は甘く、どこか壊れた玩具みたいに続いていた。
(このままだと……)
フィオナは喉を震わせながら彼女たちのもとへ走った。
膝をつき、ひとりずつ肩を抱えて立たせる。
「お願い……戻って……!」
彼女たちの身体は、重い。
抵抗されているわけではないのに、意志のない重さがある。
ようやく線の内側へ運ぶと、彼女たちは徐々に呼吸を取り戻し、目を瞬かせた。
その瞬間――。
フィオナの視界の端で、クラリスがふらりと倒れかけた。
「……っ!」
反射的に駆け寄りそうになる。
けれど、足が止まる。
(近づいたら危ない……)
クラリスこそ、魅了の中心。
近づけば、波の直撃を受けるかもしれない。
でも――あの青白い顔。
崩れ落ちる身体。
嫌いでも、憎くても、見捨てられない。
フィオナが一歩踏み出した瞬間、エドワードの声が鋭く飛んだ。
「フィオナ、止まれ!」
その声に、身体がびくりと固まる。
エドワードは結界を維持したまま、片手を上げる。
床の魔法陣がより強く光り、教室の空気が一瞬だけ冷える。
「中心には近づくな。今近づけば、お前も飲まれる」
「……でも、お姉さまが……!」
思わず言い返してしまって、自分で驚いた。
いつもなら、口答えなんてしない。できない。
けれど今は、命がかかっている。
エドワードは一瞬だけ目を細め、すぐに淡々と言った。
「私が行く」
彼は結界を維持する光の線をもう一度走らせ、フィオナの立つ位置を補強する。
「フィオナ。お前は“線の内側”を守れ。全員をそこに入れろ。わかったな」
命令。
でも、信頼の命令。
フィオナは唇を噛み、頷いた。
「……はい!」
その間にエドワードはクラリスへ向かった。
歩き方が迷いない。
中心の魔力の渦へ、当然のように踏み込んでいく。
周囲の生徒たちが、うっとりした声で彼の名を呼ぶ。
魅了に操られた恋の声が、教室を満たす。
けれどエドワードは、それらに一切反応しない。
視線も揺れない。
ただ、クラリスだけを見ている。
フィオナは、必死に残りの生徒たちを線の内側へ誘導した。
床に座り込んでいた子の手を引き、立たせ、背中を押す。
泣く子を抱え、引きずるように運ぶ。
誰かの頬を叩いて意識を呼び戻そうとする。
汗と魔力の匂いが混ざり、喉が焼けるように渇く。
それでも止まれない。
(私が止まったら、みんなが……)
もう“迷惑をかけない”とか、そんな小さな掟はどうでもよかった。
今はただ、誰も壊れないようにしたい。
最後の一人を線の内側へ入れた瞬間。
教室の空気が、ぐにゃりと歪んだ。
クラリスの魅了魔法が、爆ぜるように膨らむ。
「……っ!」
フィオナは思わず目を閉じる。
甘い香りが一気に濃くなり、意識を溶かそうとする。
けれど――。
フィオナの中で、何かが“はね返した”。
胸の奥で、透明な壁が立ち上がるような感覚。
魅了の波がぶつかって、弾けて、霧散していく。
(……効かない)
怖いほど、効かない。
そのとき、エドワードの声が響いた。
「――解除」
低い一言。
次の瞬間、教室の空気が冷たく澄んだ。
甘い香りが一気に消え、重さが抜ける。
床の魔法陣が淡く光り、そしてゆっくり消えていく。
結界が、解かれた。
生徒たちは膝をついたまま、呆然と周囲を見回している。
自分が何をしていたのか、わからない顔。
誰かが小さく嗚咽を漏らす。
「……なに、いまの……」
「わたし……」
その中心で、クラリスが床に座り込み、肩で息をしていた。
彼女の目には、初めて見る怯えが浮かんでいる。
エドワードが彼女の前に膝をつき、淡々と確認する。
「意識はあるか」
クラリスは震える唇で答えた。
「……はい……」
フィオナはその姿を見ながら、足が震えていることに気づいた。
今になって恐怖が押し寄せてくる。
もし、間に合わなかったら。
もし、自分が正気じゃなかったら。
膝が抜けそうになった瞬間――。
「フィオナ」
エドワードが、こちらを呼んだ。
フィオナはびくりとして顔を上げる。
彼が立ち上がり、こちらへ歩いてくる。
周囲の生徒たちが、その動きを追う。
教室の空気が、まだざわざわと揺れている。
エドワードはフィオナの目の前で立ち止まり、灰色の瞳をまっすぐ向けた。
そして――。
「……君がいて良かった」
その一言が、フィオナの胸を撃ち抜いた。
呼吸が止まる。
世界が一瞬、静かになる。
(私が……いて良かった?)
そんな風に言われたこと、あっただろうか。
家でだって、学校でだって。
「いなくていい」と言われることはあっても、「いて良かった」と言われたことはない。
フィオナは言葉を探した。
けれど喉が震えて、声にならない。
「……あ、あの……」
やっと絞り出した声は、情けないほど小さかった。
エドワードは視線を外さず、淡々と続ける。
「君が動かなければ、何人かは取り返しがつかなかった。判断も、行動も、正しかった」
褒められている。
評価されている。
それが、信じられない。
フィオナは顔が熱くなるのを感じ、反射的に俯いた。
「……そんな……私、ただ……」
「ただ、ではない」
きっぱりと否定される。
フィオナの胸が、きゅっと縮む。
そのとき、どこかで誰かが泣き声を上げた。
生徒の一人が恐怖に耐えきれず、座り込んで震えている。
フィオナは我に返り、周囲を見る。
(まだ、終わってない)
事件は収束したけれど、みんなの心はまだ揺れている。
怖かったはずだ。自分の意思がなくなるなんて。
フィオナは震える手で、近くの子に声をかけた。
「……大丈夫。もう、終わりました。息を、ゆっくり……」
自分だって震えているのに、誰かを落ち着かせようとしている。
不思議だ。
でも、そうしたかった。
その背後で、エドワードの気配が静かに動く。
彼は教室全体を見渡し、担任教師が駆けつけてくる音を確認し、短く指示を出している。
動きが無駄なく、頼もしい。
フィオナはふと、思った。
(この人は……いつも、こうやって誰かを守ってきたんだ)
だから最強なのだ。
ただ強いだけじゃない。
守るために強い。
フィオナがその背中を見つめていると、エドワードが振り返った。
ほんの一瞬だけ、目が合う。
その瞬間、フィオナは胸の奥に小さな熱を感じた。
――怖いのに、嬉しい。
――苦しいのに、救われる。
そんな感情が、静かに芽を出してしまったことに、フィオナはまだ気づかない。
教室の扉の外で、先生たちの慌ただしい足音が大きくなる。
騒ぎが、現実として広がっていく。
フィオナは制服の胸元を軽く握りしめた。
(……もう、戻れないのかもしれない)
昨日までの灰色の自分に。
何も起きない日々に。
エドワード・ノクスに「君がいて良かった」と言われてしまったから。
ーー
放課後の廊下は、いつもより静かだった。
あの騒ぎのあと、学校は半日ほど混乱した。担任教師たちが駆けつけ、保健室が満員になり、上級生の先生が魔力の残滓を測定しに来た。
生徒たちは皆、顔色が悪く、声が小さかった。
フィオナは、教室の隅でじっと座っていた。
自分の中には、緊張と疲労と、そして言葉にできない熱が混ざっていた。
(……「君がいて良かった」)
何度思い出しても、胸の奥がちくりと痛む。
嬉しいのに、怖い。
そんな言葉を受け取ってしまったら、もう“何も期待しない私”ではいられなくなる。
騒ぎが落ち着いたころ、エドワードは生徒を一人ひとり見回り、精神干渉の後遺症がないか確認して回った。
その動きは淡々としているのに、妙に優しかった。
フィオナは最後まで教室に残っていたクラリスを見た。
義姉は保健室へ運ばれ、意識はあるものの、顔色は青白く震えていた。
――泣いていた。こっそりと。
(お姉さまも、怖かったんだ)
そんなふうに思ってしまう自分が、少し変だと感じる。
でも、嫌いと同じくらい、切ない。
フィオナが荷物をまとめて立ち上がったとき、廊下の先から低い声がした。
「フィオナ」
呼ばれて振り向く。
エドワード・ノクスが立っていた。
外套は着たままなのに、校内の空気より少し冷たい気配をまとっている。
周囲には誰もいない。
偶然なのか、彼が人払いをしたのか、フィオナにはわからない。
「……先生」
呼ぶと、彼の視線が一瞬だけ揺れた。
けれどすぐに、いつもの無表情に戻る。
「歩けるか」
「はい……大丈夫です」
大丈夫。
それは癖だった。
本当に大丈夫じゃなくても、そう言う。
エドワードはフィオナの顔を見たまま、淡々と言った。
「手を見せろ」
「え……?」
戸惑いながらも差し出すと、指先に小さな赤みがあった。
さっき、生徒を引きずるように動かしたとき、床のささくれに擦ったのだ。
「……こんな」
フィオナが慌てて手を引っ込めようとすると、エドワードの指がそれを止めた。
強くはないのに、逃げられない。
灰色の瞳が、赤みの部分をじっと見ている。
「軽いすり傷だ」
「大したことないです」
また、大丈夫。
また、いつもの言葉。
エドワードの指先がわずかに動き、フィオナの手の甲に冷たい感触が広がった。
淡い光。
痛みがすっと引く。
「……治癒魔法」
フィオナは小さく呟いた。
「普通の傷なら、これで十分だ」
淡々とした声。
けれど指先はやけに丁寧で、フィオナは息を止めてしまった。
(近い……)
彼の手は大きい。
自分の手が、その中にすっぽり収まってしまう。
こんなふうに誰かに触れられるのは久しぶりで、くすぐったいような、怖いような気持ちになる。
そして、何より。
(……優しい)
優しさは、慣れていない。
慣れていないものは、簡単に心を揺らす。
治癒が終わり、エドワードが手を放す。
フィオナは慌てて手を引っ込め、胸の前で握った。
「……ありがとうございます」
声が小さくなる。
「礼はいらない」
そう言うのに、彼は去らない。
立ち止まったまま、フィオナを見ている。
沈黙が落ちる。
廊下の窓から、夕方の光が差し込んでいた。
校庭の喧騒は遠く、風の音だけが聞こえる。
フィオナは、言わなければと思った。
「……今日、みんなを助けられたのは、先生が結界を張ってくれたからです」
自分が褒められたとき、居心地が悪かった。
だから、返したかった。
自分だけの手柄ではない、と。
エドワードは短く答える。
「君が動いたから助かった」
淡々としているのに、言い切る。
フィオナはまた、胸の奥がきゅっとなる。
「……でも、私は、ただ……怖くて。みんなが倒れて……」
「怖いのは当然だ」
エドワードは、静かに言った。
「怖いのに動ける者は少ない」
その言葉に、フィオナはうまく呼吸ができなくなる。
褒められるのは苦手だ。
自分の価値を肯定されると、どうしていいかわからない。
話題を変えようとして、フィオナは視線を落とした。
「……クラリスお姉さまは、大丈夫でしょうか」
名前を口にした瞬間、エドワードの表情がわずかに硬くなった気がした。
「命に別状はない。ただ――」
彼は言葉を切り、窓の外を見た。
「制御できていない魔力は、本人にも周囲にも危険だ」
淡々とした声なのに、そこには確かな警戒があった。
今日の暴走は、偶然ではない。
そう言っている気がする。
フィオナは小さく頷いた。
「……お姉さま、いつも魅了を……」
「知っているのか」
「……はい」
知っている。
嫌というほど。
クラリスは笑顔のまま、空気を甘くして、自分の周りに人を集める。
その中でフィオナだけが平気で、だから邪魔になる。
だから言葉で刺される。
フィオナは唇を噛んだ。
言ってはいけない。
言えば、家に帰れなくなるかもしれない。
義父に知られたら、困らせてしまう。
――迷惑はかけない。
その掟が、舌の根に重く絡みつく。
エドワードは、フィオナの沈黙を見て、少しだけ声を落とした。
「……家に帰るのか」
心臓が跳ねた。
(聞かれた……)
何気ない問い。
けれどフィオナにとっては、触れられたくない場所。
「……はい」
反射的に答える。
「迎えは」
「……ありません」
迎えなんて、来ない。
義父は不在。義母は来ない。義姉は友人に囲まれて帰る。
フィオナはいつも、一人で帰る。
エドワードは、少しだけ眉を寄せた。
「送る」
「えっ……!?」
声が裏返った。
「……だ、大丈夫です。私、いつも一人で……」
慌てて否定する。
送られたら、目立つ。
クラリスに何を言われるかわからない。
それに――家の門まで彼が来たら、義母がどう振る舞うか。
怖い。
けれどエドワードは、淡々と首を横に振った。
「今日は危険だ。精神系の魔力の残滓は、夜にぶり返すことがある」
「……ぶり返す」
「頭痛、吐き気、意識混濁。軽い者なら夢見が悪くなる程度だが、君は中心にいた」
淡々と言われるほど、断れなくなる。
“命令”ではないのに、“必要”として押し返される。
フィオナは、小さく頷いた。
「……わかりました」
そう答えた瞬間、自分でも驚くほど胸が熱くなった。
嬉しい。
怖い。
混ざり合って、涙が出そうになる。
校門までの道を二人で歩く。
夕暮れの空が赤く染まり、校舎の影が長く伸びていた。
生徒たちはもうほとんど帰っていて、すれ違う人も少ない。
それでも、フィオナは視線を感じるたびに肩がこわばる。
(見られてる……)
エドワードと並んで歩く地味な自分。
釣り合わない。
そう思ってしまうのが、悲しいほど自然だった。
沈黙が続く中で、エドワードがふいに言った。
「君は……今日、幻惑を弾いた」
「……はい」
「幻惑は“欲しいもの”を見せる。君は何を見た」
フィオナは、足が止まりそうになった。
あの幻惑を思い出す。
温かい朝食。微笑む義母。笑う義姉。優しい義父。
――欲しいもの。
自分がどれほど飢えているかを突きつけられる。
言いたくない。
言えば、惨めになる。
「……覚えていません」
嘘が口をついた。
エドワードは、しばらく何も言わなかった。
責められるかと思った。
けれど、彼は淡々と、ただ一言だけ言った。
「嘘をつく必要はない」
胸がぎゅっと締まる。
フィオナは歩き出し、視線を地面に落とした。
「……私は、迷惑をかけたくないんです」
気づけば、口から零れていた。
言うつもりはなかったのに。
誰にも言わないと決めていたのに。
エドワードの足音が、少しだけ遅くなる。
「迷惑?」
フィオナは喉の奥が痛くなり、無理に笑った。
「……昔から。そうしてきたので」
それ以上は言えない。
家のことは。朝食がないことは。
自分が“養女”としてどんな扱いを受けているかは。
言えば、何かが壊れる。
義父の優しさが壊れる。
今の生活が壊れる。
フィオナは、壊れるのが怖かった。
どれほど苦しくても、“屋根がある”ことにすがってしまう自分がいた。
エドワードは、しばらく黙ったまま歩いた。
その沈黙が、怖い。
やがて彼が低く言う。
「……君は、十分すぎるほど我慢している」
フィオナは思わず顔を上げた。
「……え?」
夕日が、エドワードの横顔を淡く照らしていた。
冷たいはずの顔が、少しだけ柔らかく見える。
「我慢を美徳とする者は多い。だが――」
彼は言葉を切り、ほんのわずかに眉を寄せた。
「……限度がある」
その言葉が、胸の奥で小さく震えた。
自分の“限度”なんて、考えたことがなかった。
限界まで我慢するのが、普通だと思っていた。
「……先生は、どうしてそこまで……」
問いかけは小さかった。
ただ知りたかった。
どうして自分に、そんな言葉を向けるのか。
けれどエドワードは答えなかった。
代わりに、歩く速度をほんの少しだけゆるめ、フィオナの隣にぴたりと合わせた。
それが答えのようで、フィオナは胸が熱くなる。
校門を出ると、町の通りが夕暮れの匂いに包まれていた。
屋台の香ばしい匂い。子どもたちの笑い声。馬車の車輪の音。
フィオナの家へ続く道は、少し静かな裏通りだ。
石畳が古く、街灯は少ない。
いつもなら、そこを一人で歩く。
怖くても、慣れているふりをする。
けれど今日は、隣にエドワードがいる。
それだけで、足元の暗さが薄れる気がした。
――気がしてしまうのが、怖かった。
(慣れたら、どうなるんだろう)
優しさに慣れてしまったら。
守られることに慣れてしまったら。
また奪われたとき、きっと立てなくなる。
フィオナは小さく息を吐き、胸の奥を押さえた。
夕暮れの帰り道。
灰色だったはずの世界に、ほんの少しだけ色が差している。
それが嬉しくて、怖くて、どうしようもなく切なかった。
その夜、フィオナは眠れなかった。
布団は薄く、床から上がってくる冷えが背中に沁みる。
けれど寒さよりも、胸の奥の熱が邪魔をした。
(……先生は、どうしてあんなことを言ったんだろう)
「君は十分すぎるほど我慢している」
「限度がある」
あれは叱責じゃない。
同情でもない。
なのに、胸に残る。ずっと残って、消えない。
いつもなら「考えるな」と自分に命じて、明日の家事の段取りを思い浮かべるのに。
今日は、違う。
夕暮れの帰り道。
隣を歩いた影。
治癒魔法の冷たさ。
指先に残る温度。
(……慣れちゃだめ)
そう思うほど、心はそこへ寄っていく。
“慣れない優しさ”に、身体のほうが先に覚えてしまいそうで怖い。
窓の外で、夜鳥が鳴いた。
深い闇が屋敷を包む。
この屋敷の闇は、いつも静かで、息苦しい。
――その静けさの中に、微かな足音が混じった。
(……?)
フィオナは息を潜めた。
この時間に、誰かが廊下を歩くことはほとんどない。
義母は早く寝るし、クラリスも夜は自室で香水を調合しているだけだ。
足音は、フィオナの部屋の前で止まった。
次の瞬間、扉が乱暴に開く。
「まだ起きてるんでしょう、フィオナ」
クラリスだった。
寝間着の上にローブを羽織り、髪は緩くまとめられている。
昼間の完璧さはない。代わりに、目の奥が妙に濁っていた。
フィオナは慌てて起き上がる。
「お、お姉さま……?」
「今日のこと、誰かに喋った?」
低い声。
問いではなく、詰問だった。
フィオナの喉が鳴る。
「……喋っていません」
「本当に?」
クラリスは一歩踏み込み、フィオナの顔を覗き込む。
甘い香りがする。いつもの香水よりも、濃くて――刺す。
フィオナは反射的に身を引いた。
魅了の香り。
けれど、やはり何も揺れない。胸の奥は、静かなままだ。
クラリスの眉がひくりと動いた。
「……やっぱり、効かないのね」
囁くような声。
ぞくり、と背筋が冷える。
「ノクス様が、あなたを見てた。あんなふうに」
クラリスの声が、少し震える。怒りか、恐怖か、わからない。
「あなたみたいなのが……どうして」
フィオナは唇を噛んだ。
(言い返しちゃだめ)
言い返せば、もっと酷くなる。
いつもそうだ。
この家で生きるコツは、“波風を立てないこと”。
「……ごめんなさい」
とりあえず謝る。
それが一番安全。
クラリスは鼻で笑った。
「謝れば済むと思ってるの? ……まぁいいわ」
彼女は肩をすくめ、扉の外へ引いた。
「明日、庭の草抜き。忘れないで」
言い捨てるように告げて、扉が閉まる。
足音が遠ざかっていく。
フィオナは、しばらく動けなかった。
(……怖い)
昼間の事件が、終わっていない。
この家では、いつだって“続く”。
布団に潜り込もうとして、ふと気づく。
窓の外が、微かに明るい。
月明かり――ではない。
屋敷の門の方から、淡い光が揺れている。
(……なに?)
胸がざわつく。
こんな時間に、外で光? 誰かが魔法を――?
フィオナは迷った。
見に行けば叱られる。危険かもしれない。
でも、見なければもっと怖い。
フィオナはそっと部屋を出た。
軋む床板を避け、息を殺して階段を下りた。
玄関ホールは暗い。
けれど、扉の隙間から淡い光が差している。
フィオナは恐る恐る扉を開けた。
――そこにいたのは、エドワード・ノクスだった。
「……先生?」
思わず声が漏れる。
こんな時間に、こんな場所で。ありえない。
エドワードは外套を着たまま、門の前に立っていた。
月光を受けた銀髪が淡く光り、影が長く伸びている。
「起こしたか」
「いえ……その……どうして……」
フィオナの声は震えていた。驚きと、戸惑いと、そして――安堵。
エドワードは淡々と答える。
「確認に来た。君の精神状態と、周囲の魔力残滓だ」
「……え?」
「今日の暴走は、通常の魅了ではない。残滓が屋敷に残っている可能性がある」
フィオナは息を呑んだ。
(屋敷に……?)
つまり、クラリスの魔力が――。
昼間の歪みが、今も。
エドワードは門の周辺に淡い魔法陣を描き、空気を撫でるように指を動かした。
すると、ほんの微かに甘い香りが立つ。
フィオナの喉がひゅっと鳴る。
「……やはり、残っている」
エドワードの声が、わずかに低くなる。
「君は今、影響を感じるか」
フィオナは首を横に振った。
「……感じません」
エドワードがフィオナを見た。
その視線に、迷いがない。
けれど、その奥に何か――沈んだ色がある気がした。
「この家は……君にとって安全ではない」
淡々とした声なのに、胸に突き刺さる。
フィオナは反射的に言った。
「……でも、私にはここしか」
言いかけて、言葉が詰まる。
ここしかない、なんて。
それは本当だけれど、口にすると惨めで、泣きたくなる。
エドワードは一歩近づいた。
距離が縮まる。
夜の空気が冷たいのに、彼の気配だけが熱い。
「君は、ここに縛られる必要はない」
「……でも、お義父さまが」
「義父は知らない」
フィオナの心臓が跳ねた。
どうして、知っているの?
エドワードは淡々と続ける。
「君が口にしないことも。耐えていることも。……それが君の性格だと理解している」
理解している。
そんな言葉を向けられたことがなかった。
フィオナは視線を落とし、指先を握りしめた。
「……先生は、どうしてそこまで……」
夕方に聞きかけた問いが、また口から零れる。
今度こそ、答えが欲しかった。
エドワードは答えなかった。
その代わり、フィオナの目を真っ直ぐ見て――静かに言った。
「ここで100番目の俺の弟子にならないか?」
言葉が、頭の中で一度止まる。
「……え?」
百番目。
弟子。
俺の――?
耳が熱い。
胸がうるさい。
理解が追いつかない。
「弟子……ですか?」
フィオナがやっと返した声は、情けないほど小さかった。
「そうだ」
エドワードは短く頷く。
「俺は王宮付きだが、弟子は取っている。だが百番目は――お前がいい」
淡々としているのに、最後の一言が刺さる。
お前がいい。
そんなふうに“選ばれる”経験が、フィオナにはなかった。
フィオナは混乱した。
弟子になればどうなるのか。
何が変わるのか。
家は? 義父は? 学校は? クラリスは?
不安が押し寄せる。
でも同時に、胸の奥で小さな灯が強くなる。
(弟子になったら……私は、役に立てる?)
役に立てるなら。
必要とされるなら。
ここで、ただ耐えるだけの存在じゃなくなれる?
フィオナは喉が震えて、言葉が出ない。
エドワードは少しだけ視線を落とし、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。
「……君の体質は、危険だ。守りが要る」
守り。
それが“弟子”という形なら、受け取っていいのだろうか。
――迷惑じゃないのだろうか。
フィオナが答えを探していると、エドワードの手がわずかに動いた。
フィオナの頬の近く、乱れた髪の一房をそっと払う。
触れるか触れないかの距離。
フィオナの呼吸が止まる。
彼はすぐに手を引っ込め、何事もなかったように言った。
「返事は今でなくていい。明日、学校で聞く」
「……はい」
返事はまだ出ていない。
でも、心はもう――少しだけ傾いていた。
エドワードは踵を返し、夜道へ向かう。
「……先生!」
思わず呼び止める。
何を言いたいのかわからない。
ただ、行かないで、と言いたかったのかもしれない。
エドワードは振り返らず、低い声で答えた。
「……寝ろ。明日も早い」
それだけ言って、彼は闇に溶けるように去っていった。
フィオナは門の前に立ち尽くした。
夜風が頬を撫でる。
心臓がまだうるさい。
(弟子……百番目……)
それが何を意味するのか、フィオナにはまだわからない。
けれどひとつだけ、確かなことがあった。
エドワード・ノクスは、フィオナを“選んだ”。
ただの生徒としてじゃない。
ただの地味な養女としてじゃない。
その事実が、怖いほど嬉しい。
フィオナは胸元を押さえた。
――だけど、まだ気づいていない。
それが“弟子”という言葉の形をした、告白未満の執着であることに。
そして、彼が今夜ここへ来た理由が「魔力残滓の確認」だけではないことに。
フィオナは、静かに屋敷へ戻った。
灰色の世界に、もう戻れないかもしれない夜が、始まっていた。
【完】
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました!
フィオナとエドワードの物語、楽しんでいただけたでしょうか。
「地味で、居場所がなくて、自分には価値がないと思っている女の子が、
“選ばれる”ことで少しずつ世界を変えていく話を書きたい」
そんな気持ちから、このお話は生まれました。
まだまだフィオナは、自分がどれだけ大切にされているのかにも、
エドワードの想いにも、まったく気づいていません(笑)
そして今回の短編では、あえて詳しく描かなかった部分もあります。
・クラリスの魔力が歪んだ本当の理由
・フィオナの“魅了無効”という体質の秘密
・両親の事故の真相
・エドワードが弟子を取る本当の意味
……などなど。
実は、恋愛だけでなく、
この先は少しずつ「ミステリー要素」も絡めていく予定です。
もし続きを書くとしたら、
・ 師弟から始まるじれじれ恋愛
・ 溺愛なのに本人は無自覚
・過去に隠された謎
・フィオナの出生と体質の秘密
そんな展開を考えています。
「続きが読みたい」
「この二人をもっと見たい」
と思っていただけたら、
ぜひ評価やブックマーク、感想などで応援していただけると嬉しいです。
応援が多ければ、連載化したいと思っています!
ここまで読んでくださったあなたに、心からの感謝を。
またフィオナとエドワードの物語でお会いできたら嬉しいです。
ありがとうございました。




