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家族に虐げられていましたが、最強魔導師の100番目の弟子になりました。 ~魅了無効の地味令嬢は気づかれないまま溺愛されています~

作者: 風谷 華
掲載日:2026/02/12

 夜が明けきらないうちに目を覚ますのは、もう習慣になっていた。

 小さな窓の外は薄い藍色で、遠くの森の輪郭がぼんやりと浮かんでいる。鳥の声もまだ眠っている時間。家の中は、冷えた静けさだけが満ちていた。


 フィオナは毛布をそっと畳み、軋む床板を避けるように足を運ぶ。

 この屋敷で、音は敵だ。音を立てれば「迷惑」と言われる。息をすれば「図々しい」と言われる。存在を示せば示すほど、居場所が削れていく気がした。


 台所へ下りる階段は薄暗い。灯りを点けるのは許されていない。油がもったいないから――という理由だったけれど、実際はフィオナのために油を使いたくないだけだと、もう知っている。


 水桶の縁に触れると、冷たさが指先に染みた。

 ため息が出そうになるのを飲み込み、フィオナは黙々と布巾を濡らし、昨日の夕食で使われた食器を洗い始める。


 皿に残った油の匂い。焦げた肉の欠片。

 それらをこすり落としながら、心の中に小さく念じる。


(早く終わらせよう。早く、いつもの一日を始めよう)


 “いつもの一日”。

 それは、灰色の一日だ。朝から晩まで、誰かの機嫌を損ねないように息をする一日。


 フィオナがこの家に来たのは、八年前。

 自分の両親が事故で亡くなり、父の友人だったアーノルド・ベルクが引き取ってくれた。――そう聞かされた。


 引き取られたとき、フィオナは泣き腫らした目で、必死に頭を下げたのを覚えている。

 「ありがとうございます」「ご迷惑をかけません」

 声が震えて、言葉が詰まって、でもそのときアーノルドは困ったように笑って、フィオナの頭に手を置いた。


 ――大丈夫だ。君は、ここで暮らせばいい。


 あの手の温かさだけは、本物だったと思う。

 だからこそフィオナは、あれ以来ずっと、“迷惑をかけない”ことだけを守ってきた。


 けれどアーノルドは仕事で家を空けがちで、屋敷に残されるのは義母マルグリットと、義姉クラリス。

 そして、彼女たちの言葉は、いつも氷みたいだった。


 皿を洗い終え、床を拭き、炉を起こす。

 薄い火が灯ったころ、屋敷の空気が少しだけ“朝”になる。


 そこへ、階段から軽い足音が降りてきた。


「まだ暗いのに、よく動けるわね」


 甘い香水の匂いが先に届く。

 振り向けば、クラリスがあくびを噛み殺しながら立っていた。艶やかな金髪をふわりと揺らし、シルクの寝間着の上にローブを羽織っている。眠そうなのに、整って見えるのが腹立たしいほどだ。


 フィオナはすぐに頭を下げた。


「おはようございます、クラリスお姉さま」


「……挨拶だけは立派ね」


 クラリスは鼻で笑い、椅子に腰を下ろす。

 その視線が台所全体を値踏みするように走り、最後にフィオナへ戻ってくる。


「朝食、まだ?」


「すぐにご用意いたします」


 フィオナは慌てて棚からパンを取り出す。

 昨夜の残りの白パン。柔らかい部分は義姉用、端の硬い部分は――いつもフィオナ用。


 けれど今日は、その“いつも”すら許されなかった。


 台所の奥から、義母マルグリットが現れたからだ。

 上品なワンピースに身を包み、髪は完璧にまとめられている。起きてすぐの人間のはずなのに、まるでお茶会の主催者のように整っている。


「クラリス。今朝は蜂蜜も出して頂戴。あなた、授業が長いのでしょう?」


「もちろん。今日は先生の視察もあるもの」


 クラリスが誇らしげに言う。

 フィオナは手を止めずに蜂蜜の瓶を探した。棚の上段――背伸びをしなければ届かない位置に置かれている。


 義母は、わざとそこに置く。


「フィオナ、手際が悪いわね」


「申し訳ありません」


 背伸びした指先が瓶に触れ、落としそうになって心臓が跳ねた。

 割ったら、きっと大騒ぎになる。弁償できない。許されない。


 慎重に瓶を抱え、テーブルへ置く。

 義姉は当然のように蜂蜜をたっぷりとパンに垂らし、うっとりした顔で頬張った。


「甘い。最高」


 フィオナは、その光景を見ないように目を伏せた。

 同じパンの匂い。なのに、世界が違う。


 義母がちらりとフィオナを見た。


「あなたの分は?」


「……あとで、いただきます」


 答える声が小さくなる。

 言えば、また嫌味が返ってくるのがわかっている。

 “居候が食卓に座るなんて”

 “あなたは働いてから”

 いつも、その言葉で黙らされる。


 義姉がパンを食べ終え、ナプキンで口元を拭う。

 そして何気ないふうを装って言った。


「ねえ、フィオナ。今日の昼、私の友達が来るの。あなた、午後は屋敷をピカピカに整えておいて」


「午後は……」


 フィオナは思わず口を開き、すぐに閉じた。

 午後は学校の補習がある。彼女は成績が悪いわけじゃない。ただ、義姉が「補習を受けておきなさい」と言えば、そうなる。


 けれど今日は違った。

 補習はない日だ。やっと少しだけ図書室に行けると思っていた。魔法理論の本を読む時間を――。


 義母が微笑んだ。


「午後は掃除を。クラリスの友達に恥をかかせないでちょうだい」


 その微笑みが、フィオナの胸に小さな釘を打ち込む。

 逆らえない。

 逆らう理由がない。

 自分がここにいる理由は、“引き取ってもらった恩”だけなのだから。


「……わかりました」


 口の中が苦い。

 けれど笑ってみせるのが、最善だ。


 アーノルドがいれば、きっと違う。

 そう思う自分が、少しだけ情けない。


(でも、お義父さまは知らないんだ)


 知らない。

 自分がどんな部屋で眠っているか。

 どんな風に朝食を抜かされるか。

 どんな言葉で日々を削られているか。


 知らないから、優しい。

 知らないから、笑って「学校はどうだ?」と聞く。


 もし知ったら、どうなるだろう。

 怒るだろうか。悲しむだろうか。

 ――そして、後悔させてしまう。


(迷惑はかけない)


 それだけは、絶対に守る。


 フィオナはテーブルの端に置かれた空の皿を片付け、義姉の食べ終えた皿を洗いに戻った。

 自分の胃は空っぽのまま。だけど不思議と、もう慣れている。


 朝食がないのは、いつものこと。

 空腹は、痛みになる前に、麻痺する。


 窓の外が少し明るくなり始めた。

 遠くで鶏の鳴く声がして、屋敷の眠りがほどけていく。


 フィオナは急いで身支度を整える。

 制服は、控えめな色合いのワンピース。丈は少し短い。去年のクラリスのお下がりだから。

 胸元のリボンは擦り切れているが、縫い直す糸がない。


 鏡に映る自分は、本当に“平凡”だった。

 焦げ茶の髪はまとめてもまとまりきらず、目は薄い琥珀色。化粧なんて知らない。肌も少し荒れている。


(クラリスお姉さまと、同じ学校に通わせてもらってるだけでもありがたいと思わなきゃ。)


 同じ制服なのに、同じ人間なのに。

 どうしてこんなに差ができるのだろう。


 ――いや、考えても意味はない。

 自分はここに“置いてもらっている”だけ。

 それがすべてだ。


 玄関で靴を履こうとすると、踵の革が少し裂けているのが目に入った。

 まただ。

 縫い直す時間はない。今日は我慢して歩くしかない。


 玄関ホールを通り、扉を開ける。

 朝の空気が肌に触れた瞬間、少しだけ息が楽になる。


 屋敷の中はいつも、息が詰まる。

 外の空気は冷たいけれど、自由だ。


 門へ向かう砂利道を歩きながら、フィオナは小さく肩をすくめた。

 今日も学校。

 そこが唯一、家から離れられる場所。


 とはいえ、学校も完全な逃げ場ではない。

 クラリスの友人たちは、クラリスの言葉ひとつで、フィオナを見えないものとして扱う。

 笑い声。視線。ひそひそ声。


 「養女なんでしょう?」

 「元の家、事故で死んだんだって」

 「かわいそう。まぁ、だから引き取ってもらえただけよね」


 そんな囁きが、耳の奥に残る。


 それでも――。

 それでも、魔法の授業だけは好きだった。

 火を灯す小さな魔法。水を浄化する魔法。植物を育てる魔法。

 日々の苦しさが薄れるような、小さな奇跡がそこにある。


 フィオナは胸元の制服を軽く握った。


(今日も、何も起きませんように)


 何も起きないことが、いちばん安全。

 自分にとっても、この家にとっても。


 けれど――なぜだろう。

 胸の奥が、ほんの少しだけざわめいていた。

 風の冷たさとは違う、理由のない予感。


 丘を越え、町の石畳が見えてくる。

 魔法学校の尖塔が、朝日を受けて淡く輝いていた。


 あそこに行けば、今日も“魔法”がある。

 自分が知らない世界がある。


 フィオナは足を速めた。

 壊れかけた靴が痛むのを無視して。


 ――灰色の朝が終わり、今日が始まる。

 何も変わらないはずの一日が。


 けれどその日、フィオナはまだ知らない。

 学校で出会う“誰か”が、灰色の世界に初めて光を落とすことを。


 フィオナは、魔法学校の門をくぐった。


 


 朝の鐘が鳴り終わったあとも、教室はざわついていた。


「ねえ、聞いた?」

「今日、特別講師が来るんだって」

「王都からだよ! しかも……あの人らしい」


 ひそひそと交わされる声が、いつもよりも熱を帯びている。


 フィオナは自分の席で、静かに教科書を開いていた。

 けれど文字は、ほとんど頭に入ってこない。


(特別講師……?)


 そんな話、聞いていない。

 そもそもフィオナは、誰かから情報をもらえる立場ではなかった。


 前の席では、クラリスが友人たちに囲まれている。


「きっとエドワード様よ」

「えっ、本当!?」

「《黒銀の魔導師》よ? あの方が来るなんて、普通ありえないわ」


 誇らしげに語る義姉の声に、周囲の生徒たちが一斉に息をのむ。


「黒銀の魔導師……」


 フィオナも、その名だけは知っていた。


 王国最強の魔導師。

 若くして数々の功績を上げ、王宮付きとなった天才。

 冷酷で近寄りがたいが、圧倒的な実力を持つ――そんな噂。


(そんな人が……ここに?)


 信じられない気持ちでいると、教室の扉が静かに開いた。


 担任教師が先に入ってきて、いつもより少し緊張した様子で言う。


「静かに。……本日は、特別講師をお迎えしている」


 ざわめきが一気に収まる。


「紹介しよう。王宮付き魔導師、エドワード・ノクス様だ」


 その名前が告げられた瞬間――。


 空気が、変わった。


 ゆっくりと扉の向こうから現れた人物に、教室中の視線が吸い寄せられる。


 黒に近い濃紺の外套。

 銀糸のように光る髪。

 彫刻のように整った横顔。


 そして、静かなのに圧倒的な存在感。


 ――近づいてはいけない人。


 本能的に、そう感じさせる雰囲気だった。


 女子生徒たちが、息を呑む。


「……かっこいい……」

「本物だ……」

「やば……」


 誰かが小さく呟いた瞬間、周囲が一斉にうなずく。


 クラリスでさえ、一瞬言葉を失っていた。


 エドワード・ノクスは教壇の前に立ち、淡々と頭を下げた。


「エドワード・ノクスだ。本日は、魔力制御の特別講義を担当する」


 低く、落ち着いた声。


 それだけで、何人もの女子が頬を染めたのがわかった。


(……すごい)


 フィオナは、ぼんやりと彼を見つめていた。


 綺麗だとか、かっこいいとか。

 そういう感想よりも先に、なぜかこう思った。


(……遠い人だ)


 同じ空間にいるのに、別の世界の住人のようだった。


 授業が始まると、エドワードは黒板に魔法陣を描きながら、淡々と説明を続ける。


「魔力とは、感情に左右されやすい。特に、興奮や高揚は暴走の原因となる」


 声は静かで、抑揚は少ない。

 けれど不思議と、耳に残る。


「制御が甘ければ、自身だけでなく周囲を巻き込む」


 生徒たちは皆、必死にメモを取っていた。


 ――例外は、いない。


 ……はずだった。


 授業が進むにつれ、教室の空気が、ほんのりと甘くなっていく。


 クラリスの席から、淡い光が漏れていた。


(……あれ?)


 フィオナは、違和感に気づいた。


 クラリスの周囲の生徒たちが、うっとりとした表情になっている。

 目が潤み、頬が赤く染まり、視線はすべて――前方へ。


 エドワードのほうへ。


「……エドワード様……」

「素敵……」


 囁くような声。


(魅了……?)


 クラリスは、無意識に魔力を流しているのだ。

 自分を引き立てるための、微弱な魅了魔法。


 いつものことだった。


 けれど今日は、なぜか強く感じる。


 教室全体が、ふわふわと浮ついたような空気に包まれていく。


 ――けれど。


 フィオナだけは、何も変わらなかった。


(……暑いな)


 それが正直な感想だった。


 窓から差し込む日差しが強くなったせいだろうか。

 少し、ぼうっとする。


 けれど意識ははっきりしている。

 エドワードの声も、黒板の文字も、きちんと理解できる。


 周囲の様子に気づいて、首をかしげた。


(みんな……どうしたんだろう)


 そのときだった。


 ふいに、視線を感じた。


 顔を上げると――エドワードと、目が合った。


 心臓が、どくんと跳ねる。


 鋭くも優しい灰色の瞳が、まっすぐこちらを見ている。


 なぜ、自分を?


 フィオナが戸惑っていると、授業が終わる鐘が鳴った。


「今日はここまでだ」


 エドワードはそう告げ、生徒たちは一斉に立ち上がる。


 ざわめきが戻り、女子たちが色めき立つ。


「ねえねえ、話しかけていいかな?」

「無理無理、緊張して死ぬ」

「サイン欲しい……」


 そんな声が飛び交う中。


「――そこの君」


 低い声が、教室に響いた。


 フィオナは、最初、自分のことだとは思わなかった。


 けれど。


「……窓際の席の」


 自分の席だった。


「え……わ、私ですか?」


 周囲の視線が一斉に集まる。


 フィオナは慌てて立ち上がった。


「こちらへ来なさい」


 足が、少し震える。

 なぜ呼ばれたのかわからない。怒られるようなことはしていないはずなのに。


 教壇の前に立つと、エドワードはじっと彼女を見つめた。


 近くで見ると、やはり整いすぎている。

 怖いくらいに。


 しばらく沈黙が続いたあと、彼は小さく呟いた。


「……君だけ、平気だな」


「……え?」


「周囲が、軽い魅了状態にあった。だが、君には影響がない」


 フィオナは、ぽかんとした。


「そ、そうなんですか……?」


 言われても、よくわからない。


 エドワードはわずかに眉をひそめた。


「……自覚はないのか」


「えっと……すみません……」


 謝る理由もわからないまま、謝ってしまう。


 その様子を見て、エドワードは一瞬だけ、困ったような表情をした。


「……いや。謝る必要はない」


 そして、静かに言う。


「君の名前は?」


「フィオナ……です」


「フィオナ……」


 名前を呼ばれただけなのに、胸が少し熱くなる。


「覚えておく」


 それだけ言って、彼は視線を外した。


「もう戻っていい」


「……はい」


 席へ戻る途中、フィオナは周囲の視線に気づく。


 好奇心。嫉妬。戸惑い。


 クラリスの視線だけが、わずかに冷たかった。


(……なんで、私なんだろう)


 理解できないまま、席に戻った。


 ただひとつ、はっきりしていることがあった。


 ――あの人は、私を見た。


 今まで誰にも気に留められなかった自分を。


 胸の奥が、微かに揺れた気がした。


 


 エドワード・ノクスが教室を去ったあとも、ざわめきは収まらなかった。


「ねえ、見た? フィオナ、呼ばれてたよね」

「なんであの子が……」

「え、まさか……」


 言葉の端々に含まれるものは、好奇心と、嫉妬と、ほんの少しの侮蔑。

 フィオナは教科書を抱え直し、できるだけ小さく息をした。


(違う。何もない。私はただ……呼ばれただけ)


 そう自分に言い聞かせても、胸の奥のざわめきが消えない。

 あの灰色の瞳。

 「覚えておく」と言われたときの、妙に静かな熱。


 教室を出ようとすると、背中に鋭い視線が刺さった。


 振り返るまでもない。

 クラリスだ。


 義姉は完璧な微笑を浮かべたまま、フィオナの横をすり抜け、友人たちに囲まれて廊下へ出ていく。

 香水の甘い残り香が、わざとらしいほど長く漂った。


(……私のせいで、お姉さまの機嫌が悪くなったら)


 それだけは、困る。

 家に帰ったあとの“空気”が、さらに冷たくなる。


 フィオナは人の少ない階段を選び、二階の図書室へ向かった。

 本当は、少しだけ本を読みたかった。けれど今日は、頭の中が落ち着かない。


 図書室の扉を開けると、紙の匂いと静けさが迎えてくれる。

 そこだけが、いつも味方だった。


 棚の間を歩きながら、フィオナは魔力制御の入門書を手に取った。

 授業の続き――のはずなのに、ページをめくっても文字が滑っていく。


(私だけ、魅了の影響がない……)


 自分のことなのに、どこか他人事のように感じる。

 そんな特別なものが、自分にあるわけがない。


 そもそもフィオナは、自分の魔力がどれほどあるかも正確には知らなかった。

 入学時の測定は受けた。けれど、結果を義母が管理していて、本人には知らされていない。


 ――あなたは凡庸なのよ。

 そう言われたことだけは、はっきり覚えている。


 不意に、扉が開く音がした。

 図書室に入ってきたのは、司書ではない。


 黒に近い濃紺の外套。

 足音がほとんどしない。


 フィオナの背筋が硬くなる。


(……まさか)


 棚の隙間から覗くと、そこにいたのは――エドワード・ノクスだった。


 心臓が一気に跳ねる。

 どうして、ここに。王宮付きの魔導師が、地方の魔法学校の図書室に。


 彼は淡々と棚を眺め、何冊かの本を指先で確かめるように触れていた。

 その姿は、授業のときよりも、少しだけ“人”に見える。

 けれどやはり、近づきがたい。


(話しかける? ……無理。無理無理)


 フィオナは反射的に棚の陰へ身を隠した。

 気づかれたら、また目立つ。

 目立てば、クラリスが――。


 そう思った瞬間だった。


「……そこにいるのは、フィオナか」


 低い声。


 背中が凍ったように固まり、フィオナはそっと顔を出した。

 エドワードがこちらを見ている。まるで最初から、気づいていたように。


「……はい」


 逃げられない。

 フィオナは本を抱えたまま、棚の間から出ていった。


 近くで見ると、彼の存在感はますます強い。

 視線を合わせるだけで、何かを見透かされそうで怖い。


「読書か」


「はい……授業の復習を……」


 嘘ではない。

 けれど、復習どころではなかったのも事実だ。


 エドワードはフィオナの手元にある本を見て、少し眉を寄せた。


「……魔力制御の入門」


「はい。私、あまり得意じゃなくて」


 口にした瞬間、しまったと思った。

 自分から“できない”と言うなんて。

 相手は王国最強の魔導師だ。呆れられるかもしれない。


 けれどエドワードは、呆れた顔をしなかった。

 むしろ淡々と、言う。


「入門書は悪くない。ただ、書き方が雑だ」


「え……?」


 フィオナは思わず本を見下ろす。

 雑? この本が?


 エドワードは棚から別の本を抜き取り、フィオナの前に差し出した。


「こっちを読め。図が少ないが、理屈が正確だ」


「……ありがとうございます」


 受け取ると、本は意外に重い。

 装丁が古い。紙の匂いが深い。


 それだけで、胸の中に小さな灯が点った気がした。

 誰かが自分のために本を選ぶなんて、滅多にないことだったから。


 フィオナが礼を言うと、エドワードは短く頷いた。


「時間はあるか」


「え……?」


「少し、確認したい」


 フィオナは瞬きをした。

 確認? 何を?


 エドワードは、窓際の机を顎で示す。


「ここでいい。座れ」


「は、はい……」


 言われるままに席に着くと、エドワードは向かい側ではなく、隣の椅子を引いた。

 距離が近い。

 肩が触れそうで、フィオナは本能的に背筋を伸ばす。


(近い……! なんで隣……?)


 香水ではない、ひんやりとした外套の匂い。

 落ち着いた気配。

 それだけで心臓が忙しい。


 エドワードは机の上に紙とペンを置き、淡々と言った。


「簡単な魔法陣を描け」


「……はい」


 フィオナは震える指でペンを持ち、紙に円と線を描き始める。

 基本中の基本。灯火の魔法陣。


 けれど、描いているうちに手がこわばる。

 隣にいる。見られている。

 それだけで、普段はしないミスをしそうになる。


 フィオナが一瞬筆を止めると、エドワードが低く言った。


「落ち着け」


「……すみません」


「謝るな」


 短い言葉なのに、妙に胸に刺さった。


 フィオナは深呼吸し、もう一度線を引く。

 魔力を流すイメージを思い浮かべる。


 ――火。温かさ。

 炉の火。冬の夜の、唯一の救い。


 描き終えた瞬間、紙の上の魔法陣が淡く光った。

 小さな火花が、指先に灯る。


「……できた」


 か細い声。


 エドワードはそれを見て、少しだけ目を細めた。


「悪くない」


 その言葉が、思っていた以上に嬉しくて、フィオナは戸惑った。

 自分はいつも「遅い」「下手」「無駄」と言われてきたから。


「ただ――」


 続く言葉に、身構える。


 けれどエドワードは、紙の端を指で軽く押さえただけだった。


「魔力の流し方が、妙に“通らない”」


「通らない……?」


「通らないというより、弾かれている」


 フィオナは、わからなかった。

 魔力が弾かれる? そんなことがあるのだろうか。


「君は……精神系の干渉に、耐性がある」


 エドワードの声が、少しだけ低くなる。


「……耐性?」


「魅了、洗脳、幻惑。そういう類が効かない」


 フィオナは、息を呑んだ。


 昨日の授業の話だ。

 やっぱり、あれは本当だったのか。


「……でも、私は……普通で」


「普通ではない」


 きっぱりと否定され、フィオナは言葉を失う。


 エドワードは、淡々と続けた。


「その体質は珍しい。危険でもある。利用される」


 危険。利用。

 フィオナは喉が渇くのを感じた。


(私が……?)


 自分の人生は、利用されるほど価値があるようには思えない。

 むしろ、いつも誰かの“ついで”でしかなかった。


 フィオナが黙っていると、エドワードは机の上のペンを取り、紙の魔法陣の一部を書き足した。

 線は迷いなく、綺麗で、まるで魔法陣自体が美術品みたいに整っていく。


「この補助線を入れろ。すると魔力が通る」


「……え、でも、こんな線……入門書には……」


「入門書は、万人向けに削っている。君には合わない」


 エドワードの指が、紙の上をなぞる。

 指先が紙に触れる音が、やけに大きく聞こえた。


 フィオナは恐る恐る、その線を真似して描いた。


 すると、さっきよりも魔法陣がはっきり光る。

 指先の火が、少しだけ明るくなった。


「……すごい」


 思わず漏れた声。


 エドワードは小さく頷き、視線をフィオナの顔へ戻した。

 灰色の瞳が、真っ直ぐこちらを見る。


 その視線は冷たくない。

 けれど熱いとも違う。

 ――“観察”に近いのに、なぜか息が詰まる。


「君は、自分が何者かを知らない」


 低い声が、静かに胸の奥に落ちる。


「……知らないままでいるのは危険だ」


 フィオナは、指先の小さな火を見つめた。

 揺れる炎は、まるで自分の心みたいに不安定だ。


(危険……)


 もし、それが本当なら。

 もし自分が特別なら。

 ――この家で、今までのように目立たず生きることは、できないのだろうか。


 ふいに、エドワードが言った。


「次の授業のあと、少し時間を取れ」


「え……?」


「個別に確認する。拒否は?」


 拒否。

 そんな選択肢があるのだろうか。


 けれど、断ったら。

 もしかしたら、もう二度とこの人は自分に声をかけないかもしれない。


 それが怖いと思った自分に、フィオナは驚いた。


「……いえ。大丈夫です」


 声が小さく震える。


 エドワードは、ほんのわずかに表情を緩めた気がした。

 それは錯覚かもしれない。

 でも、フィオナの胸が少しだけ軽くなる。


「よろしい」


 そう言って彼は立ち上がる。


 図書室の静けさが戻ってくると、急に現実感が押し寄せた。

 自分が今、王国最強の魔導師と二人で話していたなんて。


 フィオナは慌てて頭を下げる。


「……あ、ありがとうございました。先生」


 その呼び方が自然に出たことに、自分で驚く。

 先生。

 そんな風に誰かを呼ぶのは、久しぶりだった。


 エドワードは一瞬だけ足を止め、横顔のまま言った。


「……先生、か」


「え……?」


「いや。いい」


 短く言い、彼は図書室を出ていった。


 扉が閉まる音がして、フィオナはようやく息を吐いた。


 机の上には、彼が選んでくれた本と、書き足された魔法陣の紙。

 それらが現実の証拠みたいにそこにある。


 フィオナは紙をそっと撫でた。


(……私、特別じゃないのに)


 そう思うのに、心のどこかで小さな声が囁く。


(でも、あの人はなぜか気にかけて、見てくれる。)



 誰も見なかった“フィオナ”を、エドワード・ノクスだけが見ている。


 それが怖い。

 それが嬉しい。


 その両方が混ざって、胸の奥がくすぐったく痛かった。


 窓の外では、校庭を走る生徒たちの笑い声が遠くに聞こえる。

 フィオナは本を抱きしめ、そっと目を伏せた。


 ーー


 その日の午後、空はやけに明るかった。


 窓から差し込む光が、机の上の紙を白く照らしている。

 教室の空気は、いつもより落ち着かない。生徒たちの視線が、何度も前方へ向かう。


 ――エドワード・ノクス。


 特別講師として滞在しているというだけで、学校全体が浮き立っていた。

 女子生徒はもちろん、普段は興味がなさそうな男子まで、やけにそわそわしている。


 フィオナはその熱を、少し遠くから眺めていた。

 自分の中にあるのは、興奮よりも緊張だった。


(授業のあと、時間を取れって……)


 個別に確認する、と言われた。

 拒否は、と聞かれた。

 あの灰色の瞳に見つめられて、断れるはずがなかった。


 ただの確認。

 そう思っているのに、胸の奥が小さく跳ねる。

 ――何を確認するのだろう。自分の体質? 魔力? それとも……。


「フィオナ、ぼーっとしてるわよ」


 背後から、甘い声。

 クラリスだった。


 義姉は机に肘をつき、まるで親しい姉のように微笑んでいる。

 周囲の友人たちも、くすくす笑いながらこちらを見ていた。


「今日の午後も、ノクス様の授業だものね。緊張するのはわかるけど」


 わざとらしい言い方。

 フィオナは視線を落とした。


「……はい」


「でも、変な期待はしないほうがいいわよ?」


 クラリスの声は柔らかいのに、言葉だけが刺のように鋭い。


「ノクス様は“選ぶ人”よ。あなたみたいな……地味な子が、声をかけてもらえたからって」


 友人の一人が、口元を押さえて笑った。


「クラリス、言い過ぎ」

「だって本当のことじゃない」


 クラリスは肩をすくめる。

 その瞬間、フィオナの胸の奥がひりりと痛んだ。


(期待なんて……してない)


 していない。

 していないのに、痛い。


「……授業、始まるわよ」


 クラリスは軽やかに席へ戻っていった。


 フィオナは小さく息を吐き、前を向く。

 ちょうど扉が開き、エドワードが教室に入ってきた。


 空気が、一瞬で張り詰めた。


 黒に近い濃紺の外套。

 淡い銀髪。

 冷たいようで、熱を秘めた灰色の瞳。


 彼が教壇に立つだけで、教室全体が静かになる。

 それは“魅了”とは違う。

 単純に、圧倒される。


「今日の授業は実技だ」


 エドワードの声が、黒板の前で淡々と響く。


「魔力制御。特に、精神干渉に対する防御を扱う」


 女子たちがざわめいた。

 精神干渉――魅了、幻惑、洗脳。


 フィオナの指先が、少し冷たくなる。


(また……その話)


 昨日、自分だけが魅了の影響を受けなかった。

 今日も、それを試されるのだろうか。


 生徒たちは二人一組に分かれ、簡単な幻惑の魔法をかけ合い、解除する練習を始めた。

 教室の空気が、少しずつ魔力で満ちていく。


「いいか。幻惑は“見たいもの”を見せる魔法だ。恐怖を見せる者もいれば、欲望を見せる者もいる」


 エドワードは教室を歩きながら、淡々と指導する。


 フィオナは組む相手がいなかった。

 いつものことだ。誰も自分と組みたがらない。


 「じゃあ私、クラリスと組むね」

 「私も!」

 「私も!」


 彼女の周りには人が集まる。

 フィオナの周りには、空気だけが残る。


「……フィオナ」


 エドワードの声。


 顔を上げると、彼がすぐそばに立っていた。


「君は私と組め」


「え……?」


 教室の視線が一斉にこちらへ集まる。

 フィオナの体温が一気に上がった。


(無理、目立つ……!)


「……よ、よろしいんですか」


「よろしい」


 あまりにも即答で、フィオナは言葉を失う。


 エドワードは小さな魔法陣を指先で描き、淡い光を漂わせた。


「今から、簡易幻惑をかける。抵抗しろ」


 フィオナはごくりと唾を飲み、頷いた。


「……はい」


 次の瞬間、視界がふっと揺れた。


 ――甘い香りがする。


 花の香り。蜂蜜の香り。

 そして、温かい焼き立てのパンの匂い。


 フィオナの目の前に、白いテーブルが現れた。

 豪華な朝食。柔らかいパン。果物。温かいスープ。


 義母が微笑み、義姉が笑っている。

 そして、義父アーノルドが優しい顔で言う。


『おいで、フィオナ。君の席だ』


 胸が、きゅっと締め付けられた。


(……これは)


 欲しいものを見せる幻惑。

 “見たいもの”を。


 フィオナは指先を握りしめる。

 これが現実ではないことはわかる。わかっているのに、喉が熱くなる。


(やめて……)


 やめてほしい。

 こんなものを見せないで。

 ――現実との差が、痛い。


 けれど、次の瞬間。


 幻惑が、ふっと霧のようにほどけた。


 教室の景色が戻る。

 エドワードの灰色の瞳が、目の前にある。


「……抵抗したな」


 彼の声が、わずかに低い。


 フィオナは驚いた。


「え……? 私、何も……」


「無意識だ。だが君は幻惑を“弾いた”。普通なら数秒は引きずる」


 周囲がざわつく。

 クラリスの友人たちが目を見開き、クラリスが唇を噛んだ。


 フィオナは、心臓が早鐘を打つのを感じた。


(私……そんなに?)


 そのときだった。


 教室の隅で、誰かが笑った。

 くすり、と。甘い笑い声。


「……ふふ。さすがね」


 クラリス。


 義姉の目が、妙に光っていた。

 その笑みは、優雅というより、何かを試すような色を帯びている。


 クラリスは指先を軽く動かした。

 空気が、ねじれる。


 甘い香りが、さっきとは比べ物にならないほど濃くなる。

 教室全体が一瞬、ふわりと沈み込む。


「クラリス、何を――」


 誰かが言いかけた。

 その声は途中で途切れた。まるで喉を塞がれたように。


 生徒たちが、揃ってエドワードを見上げる。

 目が潤み、頬が赤くなり、呼吸が浅くなる。


「エドワード様……」

「……すごい……」


 口々に囁きながら、立ち上がろうとする者までいる。

 教室の空気が、甘く、重く、熱くなる。


(……強い)


 フィオナは肌が粟立つのを感じた。

 これは“軽い魅了”じゃない。

 クラリスの魔力が、どこか歪んでいる。


 本人が制御できていない――?


 エドワードの眉がわずかに動く。


「やめろ」


 声は低い。

 けれど、クラリスは止まらない。


 むしろ、笑みを深めた。


「だって、確かめたかったんですもの。ノクス様」


 その瞬間、空気が一段、ねじれた。


 甘い香りが、刺すように濃くなる。

 生徒たちの目が虚ろになり、誰かがふらりと前へ歩き出した。


「ノクス様……ノクス様……」


 まるで夢遊病みたいに。

 教室が、魔法で満たされる――満たされすぎて、溺れる。


(……まずい)


 フィオナは直感した。

 これはただの魅了じゃない。

 暴走に近い。


 クラリスの顔色が、わずかに青いことに気づく。

 彼女自身も、何かに飲まれている。


 フィオナの視界だけが、はっきりしていた。


 ――自分だけが、正気。


 胸の奥が冷たくなる。


(私が……どうにかしないと)


 でも、どうすればいい?

 自分は魔導師じゃない。

 ただの地味な生徒。

 なのに――。


「全員、動くな!」


 エドワードの声が教室に響いた。


 床に複雑な魔法陣が広がり、淡い光が壁を走る。

 結界。

 教室の扉と窓が、同時に閉じた。


 外の音が、ぷつりと切れる。


 教室が、隔離された。


 閉じ込められた、と感じて、生徒たちが悲鳴を上げかける。

 けれど魅了に絡め取られた声は、かすれた吐息にしかならない。


 フィオナだけが、立ち上がった。


「先生……!」


 自分の声が、震えているのがわかった。

 怖い。

 でも、ここで黙ったら、誰かが倒れる。誰かが壊れる。


 エドワードが一瞬、こちらを見る。

 その視線に、驚きと――わずかな安堵が混ざった気がした。


「フィオナ。そこにいろ」


 命令のようで、守るための言葉だった。


 教室の空気は、さらに歪む。

 クラリスの魔力がうねり、甘い香りが濃くなる。

 生徒たちの瞳が、完全に焦点を失い始めていた。


 フィオナは、唇を噛んだ。


(どうして……こんなことに)


 クラリスは、いつも魅了を使う。

 でも、こんな風に暴走したことはない。

 ――いや、今まで気づかなかっただけかもしれない。


 エドワードは教壇の前に立ち、冷たい声で言った。


「このままだと、精神が焼ける」


 その一言が、フィオナの背筋を凍らせた。


 精神が、焼ける。

 戻れなくなる。

 笑えなくなる。泣けなくなる。自分がわからなくなる。


 フィオナは周囲を見た。

 友人たち。義姉の取り巻き。

 自分を見下していた子たち。


 それでも、苦しんでいるのは同じだ。


(嫌だ……)


 誰も壊れてほしくない。

 こんなところで。


 フィオナは、震える手を握りしめた。


 教室の結界が、完全に閉じる。

 外の世界は遠くなり、甘い魔力の波だけが押し寄せる。


 ――歪んだ魔法が、教室を満たしていく。


 フィオナだけが、その中心で正気のまま立っていた。


 そして、ようやく理解する。


(私が特別だっていうのは……こういうこと?)


 嬉しくなんてない。

 怖い。

 でも――逃げられない。


 エドワードの声が、低く響く。


「フィオナ。君が鍵になる」


 鍵。

 自分が?


 問い返す間もなく、教室の空気がさらに揺らいだ。

 生徒の一人が、膝から崩れ落ちる。


 フィオナの喉が震える。


(どうしよう)


 不安が、胸の中で黒く膨らんでいく。


 ――次の瞬間。

 教室の扉の向こうから、誰かが必死に叩く音がした。

 けれど結界は揺るがない。


 閉じ込められた教室。

 暴走する魅了。

 正気なのは、フィオナだけ。


 フィオナは、息を吸った。


 震える胸を押さえながら、エドワードのほうを見た。


 ――助けたい。

 助けなきゃ。


 でも、どうすれば。


 答えのない不安だけが、静かに足元から迫っていた。


 


 教室の空気は、甘く重かった。


 香りというより、粘つく魔力の膜。

 吸い込めば肺の奥に絡みつき、思考の輪郭をぼやかしていく。


 生徒たちの瞳は虚ろで、頬は火照り、口元からは意味のない囁きが漏れる。


「……ノクス様……」

「好き……」


 それは恋の言葉に似ていたけれど、恋ではない。

 もっと不自然で、もっと危険な――歪んだ魔法の副作用だった。


 フィオナだけが、はっきりとそれを“おかしい”と感じていた。


(みんな……壊れそう)


 膝から崩れた生徒の肩が小刻みに震えている。

 笑っているのに涙を流している子もいる。

 自分の意思とは関係なく、ただ魅了の波に揺らされている。


 そして、その中心にいるのがクラリスだ。


 義姉は教室の中央に立ったまま、両手を胸の前で組み、うっとりと天井を見上げている。

 頬は青白く、呼吸は浅い。

 まるで、彼女自身も何かに吸い取られているようだった。


(お義姉さまも……)


 クラリスお義姉様を嫌いだと思う。

 苦しい。怖い。

 それでも、壊れてほしくない。

 フィオナの胸の奥が、矛盾した痛みでいっぱいになる。


 エドワードが教壇の前で結界を維持しながら、低く言った。


「フィオナ。君次第だ!」


 私次第?

 その言葉が、胸に落ちてくる。


 フィオナは唇を噛み、周囲を見渡した。

 扉は閉じ、窓も封じられている。外へは出られない。

 教室の中だけで、この異常を止めなければならない。


(でも、私は……)


 最強魔導師ではない。

 ただの生徒だ。地味で、目立たなくて、誰にも期待されない――そのはずだった。


 けれど、今ここで正気なのは自分だけ。


 エドワードが一瞬、こちらを見た。

 灰色の瞳が、迷いなくフィオナを捉える。


「恐れるな。指示を出す。君はそれに従え」


 命令の言葉なのに、なぜか安心した。

 “私でもいい”と認められた気がしたからかもしれない。


 フィオナは頷いた。


「……はい」


 次の瞬間、エドワードが掌を教室の床へ向ける。

 光の線が走り、教室全体に細い魔法陣が浮かび上がった。


「全員、床の線から外れるな」


 当然、生徒たちは応じない。

 応じる意識がない。


 ふらふらと前へ歩き出す者がいる。

 誰かに抱きつこうとする者がいる。

 泣きながら笑う者がいる。


(どうしよう……)


 焦りが喉を焼く。


 フィオナは震える手を握りしめた。

 やるしかない。

 ここで黙っていたら、誰かが本当に壊れる。


 フィオナは一歩前に出た。


「みんな……っ! 戻って……!」


 声はかすれていた。

 普段なら誰も聞かない声。

 でも、今は叫ぶしかない。


 床の光の線が、避難の“目印”なのだと、フィオナは理解した。

 線の内側にいれば、結界の防御が働く。

 外側にいれば、魅了の波にさらされる。


 フィオナは、最初に膝から崩れた生徒のもとへ駆け寄った。

 同じクラスの女子だ。いつもフィオナを見下すように笑っていた子。


「大丈夫……? 立てる?」


 返事はない。

 けれど腕を掴むと、彼女の身体は意外と軽かった。

 食事を抜かされるのは自分だけじゃない。

 この学校の生徒だって、無理をしている。


 フィオナは彼女を支え、光の線の内側へ引きずるように運ぶ。


 その瞬間、彼女の呼吸が少しだけ整った。

 涙で濡れた瞳が、ほんの一瞬、焦点を結ぶ。


「……え……?」


 すぐにまたぼやけるけれど、変化は確かにあった。


(効いてる……!)


 フィオナは次に、窓際でふらつく男子生徒へ向かった。

 扉へ近づこうとしている。結界の境界に触れれば、弾かれて怪我をするかもしれない。


「ダメ、そこ……!」


 フィオナは彼の腕を掴んだ。

 男子生徒は虚ろな目でフィオナを見たあと、ぼそりと呟く。


「……ノクス様に……会いたい……」


 その言葉に背筋が冷える。

 意志が奪われている。魅了が、思考そのものを塗り替えている。


「会えるから……! だから、ここに……!」


 フィオナは言い聞かせるように繰り返し、彼を線の内側へ引いた。


 ひとり。

 ふたり。

 みっつ。


 汗が額を伝う。

 息が切れる。

 足元がふらつく。


 それでも、動き続けた。


 教室の隅では、クラリスの友人たちが床に座り込んで笑っている。

 笑い声は甘く、どこか壊れた玩具みたいに続いていた。


(このままだと……)


 フィオナは喉を震わせながら彼女たちのもとへ走った。

 膝をつき、ひとりずつ肩を抱えて立たせる。


「お願い……戻って……!」


 彼女たちの身体は、重い。

 抵抗されているわけではないのに、意志のない重さがある。


 ようやく線の内側へ運ぶと、彼女たちは徐々に呼吸を取り戻し、目を瞬かせた。


 その瞬間――。


 フィオナの視界の端で、クラリスがふらりと倒れかけた。


「……っ!」


 反射的に駆け寄りそうになる。

 けれど、足が止まる。


(近づいたら危ない……)


 クラリスこそ、魅了の中心。

 近づけば、波の直撃を受けるかもしれない。


 でも――あの青白い顔。

 崩れ落ちる身体。


 嫌いでも、憎くても、見捨てられない。


 フィオナが一歩踏み出した瞬間、エドワードの声が鋭く飛んだ。


「フィオナ、止まれ!」


 その声に、身体がびくりと固まる。


 エドワードは結界を維持したまま、片手を上げる。

 床の魔法陣がより強く光り、教室の空気が一瞬だけ冷える。


「中心には近づくな。今近づけば、お前も飲まれる」


「……でも、お姉さまが……!」


 思わず言い返してしまって、自分で驚いた。

 いつもなら、口答えなんてしない。できない。

 けれど今は、命がかかっている。


 エドワードは一瞬だけ目を細め、すぐに淡々と言った。


「私が行く」


 彼は結界を維持する光の線をもう一度走らせ、フィオナの立つ位置を補強する。


「フィオナ。お前は“線の内側”を守れ。全員をそこに入れろ。わかったな」


 命令。

 でも、信頼の命令。


 フィオナは唇を噛み、頷いた。


「……はい!」


 その間にエドワードはクラリスへ向かった。

 歩き方が迷いない。

 中心の魔力の渦へ、当然のように踏み込んでいく。


 周囲の生徒たちが、うっとりした声で彼の名を呼ぶ。

 魅了に操られた恋の声が、教室を満たす。


 けれどエドワードは、それらに一切反応しない。

 視線も揺れない。

 ただ、クラリスだけを見ている。


 フィオナは、必死に残りの生徒たちを線の内側へ誘導した。

 床に座り込んでいた子の手を引き、立たせ、背中を押す。

 泣く子を抱え、引きずるように運ぶ。

 誰かの頬を叩いて意識を呼び戻そうとする。


 汗と魔力の匂いが混ざり、喉が焼けるように渇く。

 それでも止まれない。


(私が止まったら、みんなが……)


 もう“迷惑をかけない”とか、そんな小さな掟はどうでもよかった。

 今はただ、誰も壊れないようにしたい。


 最後の一人を線の内側へ入れた瞬間。

 教室の空気が、ぐにゃりと歪んだ。


 クラリスの魅了魔法が、爆ぜるように膨らむ。


「……っ!」


 フィオナは思わず目を閉じる。

 甘い香りが一気に濃くなり、意識を溶かそうとする。


 けれど――。


 フィオナの中で、何かが“はね返した”。


 胸の奥で、透明な壁が立ち上がるような感覚。

 魅了の波がぶつかって、弾けて、霧散していく。


(……効かない)


 怖いほど、効かない。


 そのとき、エドワードの声が響いた。


「――解除」


 低い一言。


 次の瞬間、教室の空気が冷たく澄んだ。

 甘い香りが一気に消え、重さが抜ける。


 床の魔法陣が淡く光り、そしてゆっくり消えていく。


 結界が、解かれた。


 生徒たちは膝をついたまま、呆然と周囲を見回している。

 自分が何をしていたのか、わからない顔。

 誰かが小さく嗚咽を漏らす。


「……なに、いまの……」

「わたし……」


 その中心で、クラリスが床に座り込み、肩で息をしていた。

 彼女の目には、初めて見る怯えが浮かんでいる。


 エドワードが彼女の前に膝をつき、淡々と確認する。


「意識はあるか」


 クラリスは震える唇で答えた。


「……はい……」


 フィオナはその姿を見ながら、足が震えていることに気づいた。

 今になって恐怖が押し寄せてくる。

 もし、間に合わなかったら。

 もし、自分が正気じゃなかったら。


 膝が抜けそうになった瞬間――。


「フィオナ」


 エドワードが、こちらを呼んだ。


 フィオナはびくりとして顔を上げる。

 彼が立ち上がり、こちらへ歩いてくる。


 周囲の生徒たちが、その動きを追う。

 教室の空気が、まだざわざわと揺れている。


 エドワードはフィオナの目の前で立ち止まり、灰色の瞳をまっすぐ向けた。


 そして――。


「……君がいて良かった」


 その一言が、フィオナの胸を撃ち抜いた。


 呼吸が止まる。

 世界が一瞬、静かになる。


(私が……いて良かった?)


 そんな風に言われたこと、あっただろうか。

 家でだって、学校でだって。

 「いなくていい」と言われることはあっても、「いて良かった」と言われたことはない。


 フィオナは言葉を探した。

 けれど喉が震えて、声にならない。


「……あ、あの……」


 やっと絞り出した声は、情けないほど小さかった。


 エドワードは視線を外さず、淡々と続ける。


「君が動かなければ、何人かは取り返しがつかなかった。判断も、行動も、正しかった」


 褒められている。

 評価されている。


 それが、信じられない。


 フィオナは顔が熱くなるのを感じ、反射的に俯いた。


「……そんな……私、ただ……」


「ただ、ではない」


 きっぱりと否定される。


 フィオナの胸が、きゅっと縮む。


 そのとき、どこかで誰かが泣き声を上げた。

 生徒の一人が恐怖に耐えきれず、座り込んで震えている。


 フィオナは我に返り、周囲を見る。


(まだ、終わってない)


 事件は収束したけれど、みんなの心はまだ揺れている。

 怖かったはずだ。自分の意思がなくなるなんて。


 フィオナは震える手で、近くの子に声をかけた。


「……大丈夫。もう、終わりました。息を、ゆっくり……」


 自分だって震えているのに、誰かを落ち着かせようとしている。

 不思議だ。

 でも、そうしたかった。


 その背後で、エドワードの気配が静かに動く。


 彼は教室全体を見渡し、担任教師が駆けつけてくる音を確認し、短く指示を出している。

 動きが無駄なく、頼もしい。


 フィオナはふと、思った。


(この人は……いつも、こうやって誰かを守ってきたんだ)


 だから最強なのだ。

 ただ強いだけじゃない。

 守るために強い。


 フィオナがその背中を見つめていると、エドワードが振り返った。


 ほんの一瞬だけ、目が合う。


 その瞬間、フィオナは胸の奥に小さな熱を感じた。


 ――怖いのに、嬉しい。

 ――苦しいのに、救われる。


 そんな感情が、静かに芽を出してしまったことに、フィオナはまだ気づかない。


 教室の扉の外で、先生たちの慌ただしい足音が大きくなる。

 騒ぎが、現実として広がっていく。


 フィオナは制服の胸元を軽く握りしめた。


(……もう、戻れないのかもしれない)


 昨日までの灰色の自分に。

 何も起きない日々に。


 エドワード・ノクスに「君がいて良かった」と言われてしまったから。


 ーー


 放課後の廊下は、いつもより静かだった。


 あの騒ぎのあと、学校は半日ほど混乱した。担任教師たちが駆けつけ、保健室が満員になり、上級生の先生が魔力の残滓を測定しに来た。

 生徒たちは皆、顔色が悪く、声が小さかった。


 フィオナは、教室の隅でじっと座っていた。

 自分の中には、緊張と疲労と、そして言葉にできない熱が混ざっていた。


(……「君がいて良かった」)


 何度思い出しても、胸の奥がちくりと痛む。

 嬉しいのに、怖い。

 そんな言葉を受け取ってしまったら、もう“何も期待しない私”ではいられなくなる。


 騒ぎが落ち着いたころ、エドワードは生徒を一人ひとり見回り、精神干渉の後遺症がないか確認して回った。

 その動きは淡々としているのに、妙に優しかった。


 フィオナは最後まで教室に残っていたクラリスを見た。

 義姉は保健室へ運ばれ、意識はあるものの、顔色は青白く震えていた。

 ――泣いていた。こっそりと。


(お姉さまも、怖かったんだ)


 そんなふうに思ってしまう自分が、少し変だと感じる。

 でも、嫌いと同じくらい、切ない。


 フィオナが荷物をまとめて立ち上がったとき、廊下の先から低い声がした。


「フィオナ」


 呼ばれて振り向く。

 エドワード・ノクスが立っていた。


 外套は着たままなのに、校内の空気より少し冷たい気配をまとっている。

 周囲には誰もいない。

 偶然なのか、彼が人払いをしたのか、フィオナにはわからない。


「……先生」


 呼ぶと、彼の視線が一瞬だけ揺れた。

 けれどすぐに、いつもの無表情に戻る。


「歩けるか」


「はい……大丈夫です」


 大丈夫。

 それは癖だった。

 本当に大丈夫じゃなくても、そう言う。


 エドワードはフィオナの顔を見たまま、淡々と言った。


「手を見せろ」


「え……?」


 戸惑いながらも差し出すと、指先に小さな赤みがあった。

 さっき、生徒を引きずるように動かしたとき、床のささくれに擦ったのだ。


「……こんな」


 フィオナが慌てて手を引っ込めようとすると、エドワードの指がそれを止めた。

 強くはないのに、逃げられない。


 灰色の瞳が、赤みの部分をじっと見ている。


「軽いすり傷だ」


「大したことないです」


 また、大丈夫。

 また、いつもの言葉。


 エドワードの指先がわずかに動き、フィオナの手の甲に冷たい感触が広がった。


 淡い光。

 痛みがすっと引く。


「……治癒魔法」


 フィオナは小さく呟いた。


「普通の傷なら、これで十分だ」


 淡々とした声。

 けれど指先はやけに丁寧で、フィオナは息を止めてしまった。


(近い……)


 彼の手は大きい。

 自分の手が、その中にすっぽり収まってしまう。


 こんなふうに誰かに触れられるのは久しぶりで、くすぐったいような、怖いような気持ちになる。

 そして、何より。


(……優しい)


 優しさは、慣れていない。

 慣れていないものは、簡単に心を揺らす。


 治癒が終わり、エドワードが手を放す。

 フィオナは慌てて手を引っ込め、胸の前で握った。


「……ありがとうございます」


 声が小さくなる。


「礼はいらない」


 そう言うのに、彼は去らない。

 立ち止まったまま、フィオナを見ている。


 沈黙が落ちる。

 廊下の窓から、夕方の光が差し込んでいた。

 校庭の喧騒は遠く、風の音だけが聞こえる。


 フィオナは、言わなければと思った。


「……今日、みんなを助けられたのは、先生が結界を張ってくれたからです」


 自分が褒められたとき、居心地が悪かった。

 だから、返したかった。

 自分だけの手柄ではない、と。


 エドワードは短く答える。


「君が動いたから助かった」


 淡々としているのに、言い切る。


 フィオナはまた、胸の奥がきゅっとなる。


「……でも、私は、ただ……怖くて。みんなが倒れて……」


「怖いのは当然だ」


 エドワードは、静かに言った。


「怖いのに動ける者は少ない」


 その言葉に、フィオナはうまく呼吸ができなくなる。

 褒められるのは苦手だ。

 自分の価値を肯定されると、どうしていいかわからない。


 話題を変えようとして、フィオナは視線を落とした。


「……クラリスお姉さまは、大丈夫でしょうか」


 名前を口にした瞬間、エドワードの表情がわずかに硬くなった気がした。


「命に別状はない。ただ――」


 彼は言葉を切り、窓の外を見た。


「制御できていない魔力は、本人にも周囲にも危険だ」


 淡々とした声なのに、そこには確かな警戒があった。

 今日の暴走は、偶然ではない。

 そう言っている気がする。


 フィオナは小さく頷いた。


「……お姉さま、いつも魅了を……」


「知っているのか」


「……はい」


 知っている。

 嫌というほど。


 クラリスは笑顔のまま、空気を甘くして、自分の周りに人を集める。

 その中でフィオナだけが平気で、だから邪魔になる。

 だから言葉で刺される。


 フィオナは唇を噛んだ。

 言ってはいけない。

 言えば、家に帰れなくなるかもしれない。

 義父に知られたら、困らせてしまう。


 ――迷惑はかけない。


 その掟が、舌の根に重く絡みつく。


 エドワードは、フィオナの沈黙を見て、少しだけ声を落とした。


「……家に帰るのか」


 心臓が跳ねた。


(聞かれた……)


 何気ない問い。

 けれどフィオナにとっては、触れられたくない場所。


「……はい」


 反射的に答える。


「迎えは」


「……ありません」


 迎えなんて、来ない。

 義父は不在。義母は来ない。義姉は友人に囲まれて帰る。

 フィオナはいつも、一人で帰る。


 エドワードは、少しだけ眉を寄せた。


「送る」


「えっ……!?」


 声が裏返った。


「……だ、大丈夫です。私、いつも一人で……」


 慌てて否定する。

 送られたら、目立つ。

 クラリスに何を言われるかわからない。

 それに――家の門まで彼が来たら、義母がどう振る舞うか。


 怖い。


 けれどエドワードは、淡々と首を横に振った。


「今日は危険だ。精神系の魔力の残滓は、夜にぶり返すことがある」


「……ぶり返す」


「頭痛、吐き気、意識混濁。軽い者なら夢見が悪くなる程度だが、君は中心にいた」


 淡々と言われるほど、断れなくなる。

 “命令”ではないのに、“必要”として押し返される。


 フィオナは、小さく頷いた。


「……わかりました」


 そう答えた瞬間、自分でも驚くほど胸が熱くなった。

 嬉しい。

 怖い。

 混ざり合って、涙が出そうになる。


 校門までの道を二人で歩く。

 夕暮れの空が赤く染まり、校舎の影が長く伸びていた。


 生徒たちはもうほとんど帰っていて、すれ違う人も少ない。

 それでも、フィオナは視線を感じるたびに肩がこわばる。


(見られてる……)


 エドワードと並んで歩く地味な自分。

 釣り合わない。

 そう思ってしまうのが、悲しいほど自然だった。


 沈黙が続く中で、エドワードがふいに言った。


「君は……今日、幻惑を弾いた」


「……はい」


「幻惑は“欲しいもの”を見せる。君は何を見た」


 フィオナは、足が止まりそうになった。

 あの幻惑を思い出す。

 温かい朝食。微笑む義母。笑う義姉。優しい義父。


 ――欲しいもの。

 自分がどれほど飢えているかを突きつけられる。


 言いたくない。

 言えば、惨めになる。


「……覚えていません」


 嘘が口をついた。


 エドワードは、しばらく何も言わなかった。

 責められるかと思った。

 けれど、彼は淡々と、ただ一言だけ言った。


「嘘をつく必要はない」


 胸がぎゅっと締まる。


 フィオナは歩き出し、視線を地面に落とした。


「……私は、迷惑をかけたくないんです」


 気づけば、口から零れていた。

 言うつもりはなかったのに。

 誰にも言わないと決めていたのに。


 エドワードの足音が、少しだけ遅くなる。


「迷惑?」


 フィオナは喉の奥が痛くなり、無理に笑った。


「……昔から。そうしてきたので」


 それ以上は言えない。

 家のことは。朝食がないことは。

 自分が“養女”としてどんな扱いを受けているかは。


 言えば、何かが壊れる。

 義父の優しさが壊れる。

 今の生活が壊れる。


 フィオナは、壊れるのが怖かった。

 どれほど苦しくても、“屋根がある”ことにすがってしまう自分がいた。


 エドワードは、しばらく黙ったまま歩いた。

 その沈黙が、怖い。


 やがて彼が低く言う。


「……君は、十分すぎるほど我慢している」


 フィオナは思わず顔を上げた。


「……え?」


 夕日が、エドワードの横顔を淡く照らしていた。

 冷たいはずの顔が、少しだけ柔らかく見える。


「我慢を美徳とする者は多い。だが――」


 彼は言葉を切り、ほんのわずかに眉を寄せた。


「……限度がある」


 その言葉が、胸の奥で小さく震えた。

 自分の“限度”なんて、考えたことがなかった。

 限界まで我慢するのが、普通だと思っていた。


「……先生は、どうしてそこまで……」


 問いかけは小さかった。

 ただ知りたかった。

 どうして自分に、そんな言葉を向けるのか。


 けれどエドワードは答えなかった。

 代わりに、歩く速度をほんの少しだけゆるめ、フィオナの隣にぴたりと合わせた。


 それが答えのようで、フィオナは胸が熱くなる。


 校門を出ると、町の通りが夕暮れの匂いに包まれていた。

 屋台の香ばしい匂い。子どもたちの笑い声。馬車の車輪の音。


 フィオナの家へ続く道は、少し静かな裏通りだ。

 石畳が古く、街灯は少ない。


 いつもなら、そこを一人で歩く。

 怖くても、慣れているふりをする。


 けれど今日は、隣にエドワードがいる。

 それだけで、足元の暗さが薄れる気がした。


 ――気がしてしまうのが、怖かった。


(慣れたら、どうなるんだろう)


 優しさに慣れてしまったら。

 守られることに慣れてしまったら。


 また奪われたとき、きっと立てなくなる。


 フィオナは小さく息を吐き、胸の奥を押さえた。


 夕暮れの帰り道。

 灰色だったはずの世界に、ほんの少しだけ色が差している。


 それが嬉しくて、怖くて、どうしようもなく切なかった。



 


 その夜、フィオナは眠れなかった。


 布団は薄く、床から上がってくる冷えが背中に沁みる。

 けれど寒さよりも、胸の奥の熱が邪魔をした。


(……先生は、どうしてあんなことを言ったんだろう)


 「君は十分すぎるほど我慢している」

 「限度がある」


 あれは叱責じゃない。

 同情でもない。

 なのに、胸に残る。ずっと残って、消えない。


 いつもなら「考えるな」と自分に命じて、明日の家事の段取りを思い浮かべるのに。

 今日は、違う。


 夕暮れの帰り道。

 隣を歩いた影。

 治癒魔法の冷たさ。

 指先に残る温度。


(……慣れちゃだめ)


 そう思うほど、心はそこへ寄っていく。

 “慣れない優しさ”に、身体のほうが先に覚えてしまいそうで怖い。


 窓の外で、夜鳥が鳴いた。

 深い闇が屋敷を包む。

 この屋敷の闇は、いつも静かで、息苦しい。


 ――その静けさの中に、微かな足音が混じった。


(……?)


 フィオナは息を潜めた。

 この時間に、誰かが廊下を歩くことはほとんどない。

 義母は早く寝るし、クラリスも夜は自室で香水を調合しているだけだ。


 足音は、フィオナの部屋の前で止まった。


 次の瞬間、扉が乱暴に開く。


「まだ起きてるんでしょう、フィオナ」


 クラリスだった。

 寝間着の上にローブを羽織り、髪は緩くまとめられている。

 昼間の完璧さはない。代わりに、目の奥が妙に濁っていた。


 フィオナは慌てて起き上がる。


「お、お姉さま……?」


「今日のこと、誰かに喋った?」


 低い声。

 問いではなく、詰問だった。


 フィオナの喉が鳴る。


「……喋っていません」


「本当に?」


 クラリスは一歩踏み込み、フィオナの顔を覗き込む。

 甘い香りがする。いつもの香水よりも、濃くて――刺す。


 フィオナは反射的に身を引いた。

 魅了の香り。

 けれど、やはり何も揺れない。胸の奥は、静かなままだ。


 クラリスの眉がひくりと動いた。


「……やっぱり、効かないのね」


 囁くような声。

 ぞくり、と背筋が冷える。


「ノクス様が、あなたを見てた。あんなふうに」


 クラリスの声が、少し震える。怒りか、恐怖か、わからない。


「あなたみたいなのが……どうして」


 フィオナは唇を噛んだ。


(言い返しちゃだめ)


 言い返せば、もっと酷くなる。

 いつもそうだ。

 この家で生きるコツは、“波風を立てないこと”。


「……ごめんなさい」


 とりあえず謝る。

 それが一番安全。


 クラリスは鼻で笑った。


「謝れば済むと思ってるの? ……まぁいいわ」


 彼女は肩をすくめ、扉の外へ引いた。


「明日、庭の草抜き。忘れないで」


 言い捨てるように告げて、扉が閉まる。

 足音が遠ざかっていく。


 フィオナは、しばらく動けなかった。


(……怖い)


 昼間の事件が、終わっていない。

 この家では、いつだって“続く”。


 布団に潜り込もうとして、ふと気づく。

 窓の外が、微かに明るい。


 月明かり――ではない。

 屋敷の門の方から、淡い光が揺れている。


(……なに?)


 胸がざわつく。

 こんな時間に、外で光? 誰かが魔法を――?


 フィオナは迷った。

 見に行けば叱られる。危険かもしれない。

 でも、見なければもっと怖い。


 フィオナはそっと部屋を出た。

 軋む床板を避け、息を殺して階段を下りた。


 玄関ホールは暗い。

 けれど、扉の隙間から淡い光が差している。


 フィオナは恐る恐る扉を開けた。


 ――そこにいたのは、エドワード・ノクスだった。


「……先生?」


 思わず声が漏れる。

 こんな時間に、こんな場所で。ありえない。


 エドワードは外套を着たまま、門の前に立っていた。

 月光を受けた銀髪が淡く光り、影が長く伸びている。


「起こしたか」


「いえ……その……どうして……」


 フィオナの声は震えていた。驚きと、戸惑いと、そして――安堵。


 エドワードは淡々と答える。


「確認に来た。君の精神状態と、周囲の魔力残滓だ」


「……え?」


「今日の暴走は、通常の魅了ではない。残滓が屋敷に残っている可能性がある」


 フィオナは息を呑んだ。


(屋敷に……?)


 つまり、クラリスの魔力が――。

 昼間の歪みが、今も。


 エドワードは門の周辺に淡い魔法陣を描き、空気を撫でるように指を動かした。

 すると、ほんの微かに甘い香りが立つ。


 フィオナの喉がひゅっと鳴る。


「……やはり、残っている」


 エドワードの声が、わずかに低くなる。


「君は今、影響を感じるか」


 フィオナは首を横に振った。


「……感じません」


 エドワードがフィオナを見た。

 その視線に、迷いがない。

 けれど、その奥に何か――沈んだ色がある気がした。


「この家は……君にとって安全ではない」


 淡々とした声なのに、胸に突き刺さる。


 フィオナは反射的に言った。


「……でも、私にはここしか」


 言いかけて、言葉が詰まる。

 ここしかない、なんて。

 それは本当だけれど、口にすると惨めで、泣きたくなる。


 エドワードは一歩近づいた。

 距離が縮まる。

 夜の空気が冷たいのに、彼の気配だけが熱い。


「君は、ここに縛られる必要はない」


「……でも、お義父さまが」


「義父は知らない」


 フィオナの心臓が跳ねた。

 どうして、知っているの?


 エドワードは淡々と続ける。


「君が口にしないことも。耐えていることも。……それが君の性格だと理解している」


 理解している。

 そんな言葉を向けられたことがなかった。


 フィオナは視線を落とし、指先を握りしめた。


「……先生は、どうしてそこまで……」


 夕方に聞きかけた問いが、また口から零れる。

 今度こそ、答えが欲しかった。


 エドワードは答えなかった。

 その代わり、フィオナの目を真っ直ぐ見て――静かに言った。


「ここで100番目の俺の弟子にならないか?」


 言葉が、頭の中で一度止まる。


「……え?」


 百番目。

 弟子。

 俺の――?


 耳が熱い。

 胸がうるさい。

 理解が追いつかない。


「弟子……ですか?」


 フィオナがやっと返した声は、情けないほど小さかった。


「そうだ」


 エドワードは短く頷く。


「俺は王宮付きだが、弟子は取っている。だが百番目は――お前がいい」


 淡々としているのに、最後の一言が刺さる。

 お前がいい。

 そんなふうに“選ばれる”経験が、フィオナにはなかった。


 フィオナは混乱した。

 弟子になればどうなるのか。

 何が変わるのか。

 家は? 義父は? 学校は? クラリスは?


 不安が押し寄せる。

 でも同時に、胸の奥で小さな灯が強くなる。


(弟子になったら……私は、役に立てる?)


 役に立てるなら。

 必要とされるなら。

 ここで、ただ耐えるだけの存在じゃなくなれる?


 フィオナは喉が震えて、言葉が出ない。


 エドワードは少しだけ視線を落とし、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。


「……君の体質は、危険だ。守りが要る」


 守り。

 それが“弟子”という形なら、受け取っていいのだろうか。

 ――迷惑じゃないのだろうか。


 フィオナが答えを探していると、エドワードの手がわずかに動いた。

 フィオナの頬の近く、乱れた髪の一房をそっと払う。

 触れるか触れないかの距離。


 フィオナの呼吸が止まる。


 彼はすぐに手を引っ込め、何事もなかったように言った。


「返事は今でなくていい。明日、学校で聞く」


「……はい」


 返事はまだ出ていない。

 でも、心はもう――少しだけ傾いていた。


 エドワードは踵を返し、夜道へ向かう。


「……先生!」


 思わず呼び止める。

 何を言いたいのかわからない。

 ただ、行かないで、と言いたかったのかもしれない。


 エドワードは振り返らず、低い声で答えた。


「……寝ろ。明日も早い」


 それだけ言って、彼は闇に溶けるように去っていった。


 フィオナは門の前に立ち尽くした。

 夜風が頬を撫でる。

 心臓がまだうるさい。


(弟子……百番目……)


 それが何を意味するのか、フィオナにはまだわからない。

 けれどひとつだけ、確かなことがあった。


 エドワード・ノクスは、フィオナを“選んだ”。

 ただの生徒としてじゃない。

 ただの地味な養女としてじゃない。


 その事実が、怖いほど嬉しい。


 フィオナは胸元を押さえた。


 ――だけど、まだ気づいていない。


 それが“弟子”という言葉の形をした、告白未満の執着であることに。

 そして、彼が今夜ここへ来た理由が「魔力残滓の確認」だけではないことに。


 フィオナは、静かに屋敷へ戻った。


 灰色の世界に、もう戻れないかもしれない夜が、始まっていた。


【完】



 

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました!


フィオナとエドワードの物語、楽しんでいただけたでしょうか。


「地味で、居場所がなくて、自分には価値がないと思っている女の子が、

“選ばれる”ことで少しずつ世界を変えていく話を書きたい」


そんな気持ちから、このお話は生まれました。


まだまだフィオナは、自分がどれだけ大切にされているのかにも、

エドワードの想いにも、まったく気づいていません(笑)


そして今回の短編では、あえて詳しく描かなかった部分もあります。


・クラリスの魔力が歪んだ本当の理由

・フィオナの“魅了無効”という体質の秘密

・両親の事故の真相

・エドワードが弟子を取る本当の意味


……などなど。


実は、恋愛だけでなく、

この先は少しずつ「ミステリー要素」も絡めていく予定です。


もし続きを書くとしたら、


・ 師弟から始まるじれじれ恋愛

・ 溺愛なのに本人は無自覚

・過去に隠された謎

・フィオナの出生と体質の秘密


そんな展開を考えています。


「続きが読みたい」

「この二人をもっと見たい」


と思っていただけたら、

ぜひ評価やブックマーク、感想などで応援していただけると嬉しいです。


応援が多ければ、連載化したいと思っています!


ここまで読んでくださったあなたに、心からの感謝を。


またフィオナとエドワードの物語でお会いできたら嬉しいです。


ありがとうございました。


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