第漆話 境界を超えるまで
地面に足がついた瞬間、膝から力が抜けた。
抱きとめられていた腕が離れ、代わりに、もっと柔らかく、必死な温度が身体を包み込む。
「……ふーちゃん……!」
母の声だった。
次の瞬間、強く抱きしめられる。
細い腕なのに、離すまいとする力だけは異様に強い。
「よかった……よかった……!」
震える声。
髪に顔を埋められ、息が苦しくなるほど。
風雅は、うまく言葉が出なかった。
頭がぼんやりして、視界が定まらない。
夜の空気が冷たい。
それだけは、はっきり分かる。
「……まだだ!」
鋭い声が、夜を切り裂いた。
蘭だった。
「抱きしめるのは後だ! 離れろ!!」
母は、はっとして風雅を抱えたまま後ずさる。
蘭の視線の先には――
八尺様が、いた。
結界に阻まれ、巨大化は止まっている。
だが、その姿はまだ異様だった。
長すぎる影。
不自然に伸びた四肢。
白いワンピースが、風に揺れている。
ぽぽぽ……ぽ……
濁った笑い声が、地面を伝うように広がる。
「……っ」
母は歯を食いしばり、風雅を抱えたまま距離を取った。
その瞬間だった。
――風が、変わった。
蘭の足元から、渦が巻き起こる。
乾いた音を立てて、落ち葉が舞い上がる。
地面に散っていた木の枝が、まるで意志を持ったかのように宙へ浮かぶ。
空気が、重く、鋭くなる。
「……ここからだ」
蘭は、静かに息を吐いた。
赤い着物が、風に大きくはためく。
長い髪が、背後に流れる。
その姿は、これまで見せてきた軽い怪異のものとは明らかに違っていた。
「お前は……ここで止まれ」
低く、確かな声。
蘭が地面に手をつく。
次の瞬間、夜空が震えた。
――轟音。
見えない壁が、八尺様を中心に展開する。
円を描くように、結界が張られていく。
風が唸り、木々が軋む。
葉が、枝が、砂が、すべて宙を舞う。
まるで、世界そのものが蘭の術に引き寄せられているかのようだった。
「……っ、ぽ……」
八尺様の動きが、鈍る。
巨大な影が、ゆっくりと縮んでいく。
背丈が、元の高さへと引き戻されていく。
結界が、確実に効いている。
蘭は、歯を食いしばりながら腕を広げる。
「……逃がさねぇ」
声に、冗談は一切なかった。
八尺様の動きが、完全に止まる。
白いワンピースが、力なく垂れ下がる。
――弱っている。
今が、最大のチャンスだった。
「今だ!」
蘭が叫ぶ。
「車に乗れ!!」
母は、我に返ったように頷き、風雅を支えながら走り出した。
足がもつれそうになる。
風雅の意識はまだ完全には戻っていない。
「おい、風雅!」
蘭が走りながら声をかける。
「しっかりしろ! まだ終わっちゃいねぇーよ!」
風雅は、かすかに頷いた。
頭が重い。
身体が思うように動かない。
それでも、走る。
車のドアが開き、母が風雅を後部座席に押し込む。
「これ、持って!」
母は、風雅の手に御札を握らせた。
「絶対に離さないで。顔も上げないで」
風雅は、言われるままに御札を強く握りしめる。
蘭が助手席に飛び込み、ドアを乱暴に閉めた。
「行け!!」
エンジンが唸り、車が走り出す。
窓の外の景色が、流れていく。
風雅は、頭を伏せたまま、膝の上で御札を握りしめていた。
本来なら――
複数の年寄り。
僧侶。
念仏。
それらが揃って初めて、完全な対抗策になる。
今は、それがない。
代わりにあるのは、
蘭の結界と、母の妖術だけ。
――足りない。
それでも、やらなければならない。
「……っ」
車が揺れる。
風雅の心臓が跳ねた。
――まだ、追ってきている。
不安に耐えきれず、風雅はほんの一瞬、顔を上げてしまった。
その瞬間。
窓のすぐ外に、顔があった。
白い肌。
歪んだ笑み。
異様に近い距離。
八尺様だった。
「……っ!」
小さな悲鳴が、喉から漏れる。
風雅は、反射的に顔を伏せた。
御札を、胸に押し当てる。
「見るな!!」
母が叫ぶ。
蘭が、前を睨みながら怒鳴った。
「もっとスピード上げられないのか!!」
「この車、これ以上出ないのよ!!」
母の声も、必死だった。
車は、限界の速度で走り続ける。
長い。
とてつもなく、長い時間。
風雅は、ただ耐えた。
目を閉じ、御札を握りしめ、
呼吸を整えようと必死になる。
ぽぽぽ……ぽ……
笑い声が、遠ざかるような、
それでもすぐ後ろにあるような。
どれくらい走ったのか分からない。
やがて、空気が変わった。
重さが、少しだけ抜ける。
「……抜けた」
蘭が、低く呟いた。
母は、ハンドルを切り、近くの神社の前で車を止める。
鳥居の影が、月明かりに浮かんでいた。
母は車を降り、すぐに準備を始める。
「座って」
風雅は、言われるままに地面に座らされた。
母は、塩を撒き、短い祝詞を唱える。
お祓い。
空気が、ゆっくりと落ち着いていく。
風雅の震えが、ようやく止まり始めた。
長い沈黙の後。
蘭が、ふうっと息を吐く。
「……なんとか、なったな」
母は、頷いた。
「ええ……本当に、ギリギリでした」
しばらくの静寂。
その中で、蘭が口を開く。
「……そろそろ、話さないとな」
視線が、風雅へ向けられる。
「八尺様が出た理由と……」
一瞬、言葉を区切る。
「異界の軸が、ズレてるって話を」
風雅は、まだ完全には理解できていなかった。
それでも。
これが、終わりじゃないことだけは、はっきり分かった。




