第伍話 待つ者たちの夜
夜は、音があるはずだ。
風が屋根を撫でる音。
虫の声。
遠くを走る車の音。
家鳴り。
そういうものが、いつもなら当たり前に混ざっている。
それが、夜という時間の輪郭を作っている。
なのに今夜の神代家は、妙に静かだった。
静かすぎて、耳の奥が痛くなるほどに。
居間の時計の秒針が刻む「カチ、カチ」という音だけが、やけに大きく響く。
たったそれだけが、この家が現実に存在している証拠みたいに思えた。
母――神代家の当代として、怪異に最も敏感な女は、正座したまま居間の隅で数珠を握りしめている。
視線は二階へ向けられていた。
風雅の部屋は二階。
廊下を曲がった突き当たり。
昔から、あの子が怖がった時に一番遠い場所。
風雅が一人になれるように、あえて遠い部屋を与えた。
弱いからこそ、強くなれと。
——そう思ったのは親の勝手だったのかもしれない。
「……ふーちゃん」
名前を呼びかけそうになって、母は口を閉じる。
今夜は、呼んではいけない。
声をかけてもいけない。
風雅の返事を引き出してもいけない。
八尺様の怪談に、そう書かれている。
“呼ばれても返事をするな”
“声に応じたら終わりだ”
だから、親ができるのは待つことだけだった。
——耐えることだけ。
居間の柱にもたれ、腕を組んでいるのは蘭 瞬。
赤い着物の怪異。
軽口の多い男。
…いや、男なのかどうかも、正確にはよく分からない存在。
普段なら冗談を飛ばし、空気を緩め、すり抜けるように場を支配する。
なのに今夜の蘭は妙に静かで、目線の置き所が落ち着かない。
「……遅いな」
蘭がぼそりと呟いた。
「え?」
母は声の端を尖らせないよう努めながら、短く返す。
「いや、遅いってのは……」
蘭は天井を見上げ、何かを数えるように視線を動かす。
「お前の息子が、やたら律儀に“手順”守ってるなら、今頃はもう布団に潜ってるはずだろ」
「……ふーちゃんは、律儀です」
「律儀すぎて折れるタイプでもある」
その言い方が嫌で、母は数珠を握る手に力が入った。
折れる。
その言葉が、あの子の弱さを容赦なく突き刺す。
「……蘭さん」
「ん?」
「あなたは、風雅に優しくしすぎる時があります」
蘭は一瞬だけ目を見開き、そして笑った。
「なにそれ、嫉妬?」
「違います」
「じゃあなんだよ」
「……あの子は、甘やかされると逃げるんです」
母は言い切った。
自分の胸に刺さる言葉ほど、正しく言わなければいけないと思った。
「怖いものから、ずっと逃げてきた。だから、今夜は……」
今夜は一人で耐えろ。
そう言いたかった。
でも、言葉にできない。
それを言ってしまったら、本当に自分は母親ではなく“当代”になってしまう気がした。
蘭は、少しだけ笑顔を弱めた。
「……厳しいな」
「厳しくしないと、生き残れない」
「それはそう」
蘭は軽く頷いたあと、ほんの少しだけ声を落とす。
「でもな。お前の息子、今夜は相当きついぞ」
母の心臓が嫌な鳴り方をした。
「……どうしてそう思うの」
「空気が、固い」
「空気……?」
「うん。結界の中の空気が、変に“整いすぎてる”」
蘭は、居間の四隅に撒かれた塩の筋を目で追った。
御札が貼られた障子をちらりと見た。
そして、二階へ向けて顎を上げる。
「守りが強いと、逆に“外”との境目がくっきりする」
「それの何が……」
「境目ってのはさ、強くすると“薄いところ”が目立つんだ」
母は息を呑んだ。
妖術家なら分かる。
結界は万能じゃない。
強く張れば張るほど、歪みが生まれることもある。
守りは時に、侵入を招く。
「……風雅の部屋が、薄いと?」
「薄いっていうより」
蘭は言い淀み、舌打ちしそうになるのを堪える。
「……“狙いやすい”」
母は目を閉じた。
やめてほしい。
そんな言葉は聞きたくない。
けれど今夜に限っては、目を背けるほど危険だ。
母は深呼吸し、居間の中心に座り直した。
「確認します」
蘭の視線がすっと鋭くなる。
「やるか」
「ええ」
母は数珠を膝に置く。
掌を合わせ、静かに目を閉じる。
妖術というものは、派手な光や雷ではない。
家の息遣いを読み、境目を知り、異物を弾く。
地味で、根気が必要で、心が揺れていると扱えない。
今の自分は揺れている。
それでも、やらなければならない。
「……《境界探知》」
小さく唱えた瞬間、部屋の温度がわずかに下がったように感じた。
空気が一枚、薄い膜になって、母の肌を撫でる。
意識が、家全体に広がっていく。
一階。
玄関。
台所。
居間。
廊下。
異常なし。
御札が、正しく役目を果たしている。
次に二階。
階段を上るように意識を動かすと、空気の流れが変わった。
ひやりとした“湿り気”が混ざる。
廊下。
客間。
物置。
異常なし。
そして、風雅の部屋――
「……っ」
母は喉の奥で息を詰まらせた。
そこに、いる。
“何か”が。
それは大きすぎて、逆に輪郭が掴めない。
人の形をした圧力。
声を持つ影。
呼吸のない存在。
——これは。
母の背筋を冷たい汗が落ちた。
「……蘭さん」
「言うな、分かってる」
蘭は立ち上がっていた。
いつの間にか、足の位置が階段へ向いている。
母は、続けて確認する。
探知は“いる”を告げるだけだ。
種類の判別には、もう一段階必要になる。
「……《形視》」
母が唱えた瞬間、空気がさらに沈んだ。
意識が、風雅の部屋の“境界”をなぞる。
障子。
窓。
御札。
塩の筋。
そして、部屋の中心――
白いものが、見えた。
白い布。
白いワンピース。
異様な背丈。
長すぎる影。
曲がりすぎる首。
ぽぽぽ……
音が、母の耳にも聞こえた気がした。
「……八尺様」
母がそう言った瞬間、蘭の顔から血の気が引いた。
「……馬鹿っ!」
蘭が、今まで聞いたことのない声で叫んだ。
「アイツ……!!」
母は探知を解かず、必死に息を整える。
「蘭さん、待って。下手に——」
「待てねぇ!」
蘭は階段へ駆け出した。
足音が、普段の蘭からは想像できないほど重い。
畳がきしむ。
板が鳴る。
母も立ち上がり、追いかける。
「蘭さん! 風雅に声を——」
「分かってる! でも今は!」
蘭は息を切らしながらも叫ぶ。
「返事の問題じゃねぇ! “中”にいるんだぞ!」
母の心臓が、痛いほど脈打つ。
中にいる。
つまり、もう“境界”を越えている。
八尺様の怪談で、一番厄介なのはここだ。
外で待っている限りは、対抗策の意味がある。
だが、内側に入り込まれた時点で――
ルールが、壊される。
蘭は二階の廊下へ到達した。
暗い。
二階の電気は消されている。
それなのに、風雅の部屋の前だけが、妙に“白い”。
月明かり?
違う。
窓は御札で塞いでいるはずだ。
なのに、障子の向こうがぼんやり明るい。
母の探知が、まだ風雅の部屋に“白い影”を映している。
それは部屋の中心に立っている。
風雅のすぐ近く。
「……風雅……」
母は、呼びかけそうになって歯を食いしばった。
呼ぶな。
呼べば返事をさせる。
返事をさせれば——
蘭が障子の前で止まり、拳を握りしめる。
「……ちっ」
舌打ち。
「やっぱり、狙いは“声”だ」
蘭は唇を噛み、母を見る。
「お前、まだ探知できるか」
「……できます」
「じゃあ教えろ。今、あいつは風雅に何してる」
母は探知の意識を深くする。
見えるのは輪郭だけ。
音は完全には拾えない。
だが、気配の“向き”は分かる。
八尺様の気配は、風雅へ向かっている。
まるで顔を覗き込み、口元へ近づくように。
「……囁いています」
母の声が震えた。
「風雅の耳元で……」
「くそっ」
蘭の背筋が硬くなる。
そして、障子に手をかけた。
その瞬間、部屋の中から声が聞こえた。
——優しい声。
人を安心させる声。
あまりにも、蘭に似た声。
「……大丈夫だよ、風雅」
蘭の表情が凍りつく。
「……真似、されてやがる」
母の喉が鳴った。
「蘭さん……」
「分かってる。声をかけたら返事が起きる可能性がある」
「なら——」
「でも、もう“返事をさせる段階”に入ってる」
蘭は低い声で言い切った。
「今は、風雅が返事をする前に、割り込むしかねぇ」
母は唇を噛みしめる。
正しい。
恐ろしいほどに正しい。
八尺様の怪談は、“返事”が鍵だ。
相手に返事をさせるために、安心を与える。
味方の声を真似る。
家族の声で呼ぶ。
友人の声で呼ぶ。
風雅は弱い。
優しい声にすがりたくなる。
孤独に耐えられない。
だから、危ない。
蘭が障子にぐっと力を込める。
「……行くぞ」
「蘭さん、待って。せめて——」
母は一枚の御札を取り出した。
指先で折り、短い術を刻む。
「《封じ》……!」
御札が、薄く熱を持った。
蘭がそれを受け取り、目を細める。
「助かる」
そして蘭は、障子を開け放った。
「風雅!!」
暗い廊下に、蘭の声が響く。
その声が、部屋の中へ飛び込む。
母の探知が震えた。
八尺様の気配が、わずかに揺らぐ。
——反応した。
蘭は一歩、部屋へ踏み込む。
そして叫んだ。
「大丈夫か!?




