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怪異症候群 ―異界の軸がズレた世界で―  作者: 前桵 風鈴


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第参話 八尺様

八尺様に魅入られた人間は、数日以内に死ぬ。


 それは単なる噂話ではなく、

 匿名掲示板の奥深くに残された、あまりにも具体的な「記録」だった。


 書き込みはどれも似たような結末を迎えている。

 数日間、何事もなかったかのように過ごし、

 ある夜を境に、忽然と姿を消す。


 警察も、家族も、理由は分からない。

 ただ共通しているのは――


 夜中に、声を聞いたという点だけだった。


 今、僕は居間の隅で膝を抱え、畳の目を見つめている。

 心臓の音が、やけに大きい。


 シーンと静まってる和室で母と蘭の声だけが響き渡る。


「……つまり、八尺様は“呼ぶ”んですね」


 母の声は、普段より低い。

 感情を抑え込もうとしているのが、すぐに分かった。


「ああ。声を聞いて、返事をしたら終わりだ」


 蘭の声には、冗談めいた調子がない。


「だから、今からやるのは対抗策だ。全部、手順通りにな」


 対抗策。

 その言葉だけで、喉がひりつく。


「電話は全部切る。夜中は出ない。知らない番号には応じない」


「はい」


「外に出ない。窓は開けない。カーテンも閉める」


「はい……」


「それから」


 一瞬、間が空いた。


「名前を呼ばれても、返事をしないこと」


 その一言で、背中に冷たい汗が流れた。


 まとめサイトに、太字で書かれていた文章が脳裏に浮かぶ。


 ――返事をしたら終わり。


「塩は部屋と家の四隅に。御札は玄関と窓。鏡は全部伏せて」


「……風雅は」


 母が、言葉を選ぶように息を吸う。


「風雅は、自分の部屋で一人で過ごす」


 胸が、きゅっと締め付けられた。


「この子が“魅入られている”以上、最終的に耐えるのはこの子です」


 それは、責任でも覚悟でもなく、

 ただの事実だった。


「大丈夫だって」


 ふっと、蘭の声が少しだけ柔らかくなる。


「八尺様は、ルールを破らなければ、直接は殺せない」


「……本当に?」


「本当だ。だから、守るだけ守ればいい」


 怖くないとは言わない。

 助かるとも言わない。


 その言い方が、逆に現実味を帯びていて、

 余計に不安を煽った。


 やがて、母に促され、僕は自分の部屋へ戻された。


 部屋は、いつもと同じはずなのに、

 まるで知らない場所のように感じる。


 窓には御札。

 床には塩。

 鏡は布で覆われ、輪郭だけが浮かび上がっている。


 布団に座り、膝の上で手を握る。


…落ち着かない。


 ……震えている。


 代々妖術使いの家系に生まれたくせに。

 怪異を前にすると、何も出来ない。


 母や父みたいになれない。

 逃げて、怖がって、怯えてばかり。


「……なんで、僕なんだよ」


 答えは、返ってこない。


 夜が深まるにつれ、音が増えていく。


 家鳴り。

 風の音。

 木の枝が擦れる音。


 どれも、意味を持っているように思えてしまう。


 ――来るな。

 ――来るな。

 ――来るな。


 願えば願うほど、恐怖は濃くなる。


 ぽぽぽ……ぽ……


 耳の奥で、確かに聞こえた。


 息が止まる。


 まだだ。

 これは、外だ。

 返事をするな。


 ぽぽぽ……ぽ……ぽぽ……


 近い。


 喉が、ひくりと鳴る。


 返事をしたら終わり。

 振り向いたら終わり。

 確認したら終わり。


 分かっているのに、怖い。


 涙が、勝手に滲む。


死にたくない。


 ――生きたい。


 その瞬間。


「風雅」


 名前を呼ばれた。


 はっきりと。

 すぐ後ろから。


 心臓が跳ね上がる。


 違う。

 これは、八尺様じゃない。


「大丈夫か?」


 振り向く。


 そこに立っていたのは、蘭だった。


 赤い着物。

 狐面のない顔。

 いつもと同じ、軽い笑顔。


「顔色、最悪だぞ」


「……蘭?」


 声が、震える。


「ほら、深呼吸しろ。落ち着け」


 一歩、近づいてくる。


 ――待て。


 頭の奥で、警鐘が鳴る。


 夜中に、誰かの声がしても、応じるな。


「どうした?」


 蘭が首を傾げる。


 その動きが、

 一瞬だけ――不自然に止まった。


 ぽぽぽ……ぽ……


 背後で、別の音が混ざる。


 僕は、後ずさった。


「……蘭、今……居間にいなかった?」


 蘭は、にこりと笑った。


「ああ?」


 その笑顔が、

 ほんの少しだけ――歪んで見えた。


「何言ってんだよ、風雅」


 その瞬間、確信した。


 ――これは、蘭じゃない。


 喉が、声を拒む。


 部屋の空気が、重く沈む。


「さぁ」


 偽りの声が、囁く。


「こっちへおいで」

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