第弍話 異界の軸
第二話 異界の軸
蘭に抱えられたまま家の敷地に入った瞬間、空気が変わった。
外の蝉の声が、嘘のように遠ざかる。
庭先で洗濯物を干していた母が、ぴたりと動きを止めた。
「あれ……?」
母はゆっくり振り返り、僕の隣――正確には、その“辺り”を見る。
視線が、微妙に定まっていない。
「あら……ふーちゃんが言ってた赤い怪異って、この方?」
心臓が跳ねた。
見えている。でも、完全じゃない。
蘭はにこっと笑い、軽い調子で頭を下げた。
「どうもどうも。
俺は 蘭 瞬 って言います」
やけに人懐っこい声。
「この嬢ちゃんに助けてもらいましてね。
……あなたが、お母さん?」
「ええ。神代 風雅の母です」
母は一歩近づき、慎重に様子を探る。
「不思議ね……
そこに“何か”がいるのは分かるのに、姿がはっきりしない」
「あー、よく言われます」
蘭は肩をすくめる。
「体調悪い時の幽霊みたいなもんだと思ってください。
見えたり見えなかったり」
「……冗談を言う余裕はあるのね」
「余裕がないときほど、冗談言わないとやってられない性分でして」
一瞬、母の口元が緩む。
だがすぐ、真剣な表情に戻った。
「それで?」
「はいはい、本題です」
蘭は視線を外へ向けた。
「八尺様が、この近くまで来てます。
今すぐ家に入った方がいい」
母の顔から、さっと血の気が引いた。
「……もう、そこまで?」
「ええ。
この嬢ちゃん、がっつり目ぇつけられてます」
母は僕の肩を抱き寄せる。
「中に入りましょう。急いで」
「結界、張れます?」
「もちろん」
二人のやり取りは無駄がなく、息が合っていた。
それだけで、普通の怪異ではないと分かる。
玄関に入る直前、母が蘭に問いかける。
「あなた……怪異、なのよね?」
「一応は、そういう扱いで」
「“一応”?」
「深く考えない方が、気楽ですよ」
冗談めかした声。
母はそれ以上、追及しなかった。
その代わり、僕を見る。
「……ところで」
「な、なに?」
「この方、さっきから“嬢ちゃん”って言ってるけど」
嫌な予感がした。
「ふーちゃん、説明した?」
「……してない」
母はため息をつき、蘭を見る。
「ごめんなさい。ふーちゃん、一応……男の子なんですけど」
「え?」
蘭は目を瞬かせ、僕をまじまじと見た。
「……あ、ほんとだ」
「どこ見て判断したの!?」
「見た目と雰囲気?」
「そんなんで決めないでよ……」
一瞬、場違いなほど軽い空気が流れた。
だが――
外から、嫌な気配が近づいてきているのは確かだった。
「ま、性別はそのうち覚えます」
蘭は笑う。
「今は全員、生き延びるのが最優先ってことで」
玄関が閉まり、結界が張られる。
家の中に入った瞬間、張り詰めた空気が一気に重くなった。
外の気配が、かろうじて遮断される。
「……落ち着いて。大丈夫だから」
母はそう言って、僕の肩に手を置いた。
その手が、わずかに震えている。
それを見てしまい、余計に不安になる。
「ふーちゃん」
「……なに」
「八尺様と、目は何回合った?」
「……分からない。たぶん、何回も」
母は目を伏せ、小さく息を吐く。
「……そう」
それだけで、十分だった。
僕は――魅入られている。
リビングの隅に立っていた蘭が、腕を組む。
「怖がらせるつもりはねぇがな」
「……」
「今のままだと、八尺様は何度でも来る」
背中に冷たいものが走った。
「え……?」
「一度目をつけられたら終わり、って話は伊達じゃねぇ。
特に今は状況が悪い」
母が、はっと顔を上げる。
「……異界の軸?」
「十中八九な」
異界の軸。
聞き慣れない言葉に、僕は口を挟む。
「……なに、それ」
少しの沈黙。
蘭が、頭を掻きながら言った。
「簡単に言やぁ、“世界の境目”だ」
「境目……?」
「人の世界と、怪異の世界。
本来は、きっちり分かれてるはずだった」
指で、空中に一本の線を引く。
「それが今、ズレてる。
噛み合ってねぇんだよ」
だから、と続ける。
「本来なら出てこねぇ怪異が出てくる。
本来なら、手ぇ出さねぇ人間に手ぇ出す」
――八尺様の顔が、脳裏に浮かんだ。
「……じゃあ、僕が狙われたのも」
「その可能性は高ぇ」
足が震える。
逃げたい。
でも、どこへ?
「……どうすればいいの」
情けない声が、喉から漏れた。
母は少し迷ってから言う。
「……しばらく、結界を強くするわ」
「それで、大丈夫なの?」
「一時しのぎにはなる」
一時しのぎ。
その言葉が、やけに重く響いた。
蘭は天井を見上げる。
「根本的な解決にはならねぇな」
「……だよね」
その時。
――ぎし。
家のどこかで、微かな音がした。
全員の動きが止まる。
「……来た?」
「いや、八尺様じゃねぇ」
蘭は即座に答える。
「……ただの雑魚だ」
ぞわり、と背筋が粟立つ。
「なぁ、風雅」
名前を呼ばれ、びくりとする。
「怖ぇか?」
答えは決まっている。
「……怖い」
それでも。
「でも……逃げたくは、ない」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
蘭は一瞬きょとんとし、
それから、楽しそうに笑った。
「……はっ、上出来だ」
その笑顔を見て、
何故か少しだけ――安心した。
こうして、
神代 風雅と怪異・蘭 瞬の奇妙な関係は始まった。
異界の軸がズレた世界で。




