第拾話 帰りたいと叫ぶ声
——帰らなきゃ。
そう思っているはずなのに、足が動かなかった。
裏S区の空は、相変わらず色が薄く、夕方とも昼ともつかない曖昧な明るさを保っている。
風雅は、その空を見上げながら、自分が今どこに立っているのか、何度も確認していた。
——ここは、異界。
——帰らないと、いけない。
分かっている。
頭では、ちゃんと理解している。
でも、心が追いつかない。
怖い。
決めるのが、怖い。
間違えたら、取り返しがつかない気がして。
その時だった。
「……ふーちゃん」
耳元で、聞き覚えのある声がした。
——え?
心臓が、大きく跳ねる。
ゆっくりと振り返ると、そこには。
「……お母……さん……?」
懐かしい声。
見慣れた姿。
少し困ったような、優しい表情。
間違えるはずがなかった。
——でも。
蘭の空気が、一瞬で変わった。
「……っ」
「風雅、見るな」
低く、鋭い声。
「そいつから、離れろ」
だが、風雅は動けなかった。
頭のどこかで、分かっている。
これは偽物だと。
でも。
八尺様。
母との別れ。
裏S区での迷子。
心も身体も、限界だった。
「……ふーちゃん……」
母が、一歩近づく。
「もう、怖い思いしなくていいのよ」
その言葉に、喉がきゅっと締まった。
「……帰ろう……?」
無意識に、足が前に出る。
「風雅!」
蘭が、叫ぶ。
腕を掴もうとするが、ほんの一瞬、遅かった。
母の姿が、歪んだ。
ぐにゃりと、壊れるように。
「……っ!?」
「お母さん……っ!?」
声が、震える。
次の瞬間。
母だった“それ”は、関節の位置がおかしい怪異の姿へと変わった。
顔は割れ、口が不自然に裂け、濁った目が風雅を見下ろす。
「——あぁぁぁ……」
喉の奥から、粘ついた声。
「おい、風雅!そこから離れろ!」
蘭は咄嗟に風雅の腕を掴み、自分の後ろへ引き寄せた。
風雅の身体が、ぐらりと揺れる。
「……っ、す、すみま……」
「ったく……」
蘭は舌打ちする。
「お前ってやつは、本当に世話がやけるなぁ」
軽口のようで、その声は必死だった。
蘭は一歩前に出ると、手を大きく広げた。
空気が、軋む。
「——下がってろ」
見えない壁が張られたかのように、怪異の動きが止まる。
「成仏しろ」
淡々と、だが強い言葉。
光の膜が怪異を包み込み、ゆっくりと、その姿が掻き消えていく。
——だが。
それで終わりではなかった。
周囲から、ざわざわと音がする。
風雅が恐る恐る顔を上げると、
さっきまで“普通の住民”だった人々が、次々と形を歪めていく。
「……っ」
腕が長すぎる。
顔がない。
口だけが、ある。
裏S区そのものが、牙を剥いた。
蘭は、風雅を庇うように立ち、言った。
「風雅、よく聞け」
結界を張りながら、怪異の攻撃を避ける。
「お前は、裏S区の人間に反応した」
「……っ」
「声をかけられて、答えた。名前も、感情も」
風雅の胸が、ずしりと重くなる。
「……その時点で、本来ならもう帰るのは絶望的だ」
「……っ」
自分のせいだ。
付和雷同してしまった。
疑いきれなかった。
「……ごめんなさい……」
震える声で、呟く。
だが、蘭は即座に言った。
「だから、謝るな」
風雅を見る。
「帰るのが“絶望的”なだけだ」
一拍置いて、はっきりと言う。
「帰れないとは、言ってねぇ」
「……え……?」
「帰りたい意思を、強く持て」
怪異の爪を弾き返しながら、叫ぶ。
「来た道を、戻るんだ!」
「で、でも……!」
「でも、じゃねぇ!」
蘭は、怒鳴った。
「帰りたいか、帰りたくないか!どっちなんだ!!」
その言葉が、胸に突き刺さる。
怖い。
逃げたい。
でも——
——生きたい。
ふと、母の顔が浮かぶ。
別れ際の、あの笑顔。
——戻りたい。
その気持ちが、胸の奥で、はっきりと形になる。
「……っ!」
風雅は、叫んだ。
「帰りたい!!」
声が、裏S区に響く。
「蘭さん……!」
必死に叫ぶ。
「一緒に、帰ろう!!」
その瞬間。
風雅の手から、白い光が溢れ出した。
それは、炎でも雷でもない。
ただ、拒絶の光。
ピカッ、と一瞬強く輝き、
波紋のように、周囲へ広がっていく。
光に触れた怪異たちは、悲鳴を上げ、動きを止めた。
「……っ、今だ!」
風雅は、蘭の腕を掴む。
「こっち……!」
来た道を、必死に思い出す。
右。
左。
公園を抜けて——
怪異が、再び襲いかかる。
「来ないで!!」
叫ぶと、また白い光が走る。
それを見て、蘭は目を細めた。
「……風雅」
少しだけ、嬉しそうに。
「お前……やればできるじゃん」
どれくらい走っただろう。
気づけば、空がオレンジ色に染まっていた。
午後五時。
どこからか、
「♪夕焼け小焼け」のメロディが流れてくる。
街中の時計を見ると、針が、確かに動いていた。
住民の視線も、普通だ。
怪異の気配が、ない。
道も、ループしない。
ちゃんと——前に進んでいる。
「……蘭さん……」
震える声で、聞く。
「……もしかして……」
蘭は、風雅の頭をぐしゃっと撫でた。
「風雅!」
明るい声。
「お前、よくやったな!!」
大きく笑う。
「裏S区から、出たんだよ!!」
その言葉を聞いた瞬間、
風雅の身体から、一気に力が抜けた。
「……ぁ……」
崩れ落ちる。
「風雅!」
蘭は咄嗟に抱き留める。
まるで、お姫様抱っこのように。
「……お前……」
小さく、優しく言う。
「よく、頑張ったな」
風雅は、薄く目を開ける。
安心しきった顔で。
「……蘭……さん……」
「今度こそ、ちゃんと休もうな」
そう言って、蘭は風雅を抱えたまま、宿へと向かった。
裏S区の影は、
静かに、背後へと遠ざかっていった。




