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見難い火傷の子  作者: 清風
716/723

歌便で歌と案内の試験運用

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子716


歌便で歌と案内の試験運用


深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層

鉄の時代

この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。


歌便が玄州中央停車場の第三ホームへ滑り込んできたとき、

朝の光はまだ車体の片側だけを白く照らしていた。


客車よりも少し飾りの多い車体。

窓枠には細い金飾りが入り、側面には歌便を示す意匠が控えめに描かれている。

とはいえ祭りの山車ほど派手ではない。

歌便は見せ物ではなく、あくまで移動のための列車だ。

その内側へ歌と空気を持ち込むのが役目だった。


第三ホームの端、一般客から少し離した位置で、匠一たちはその編成を見上げていた。


「……本当に車内でやるんですか」


低い声でそう言ったのは、今日この便を預かる車掌だった。

名を槙野という。

四十手前、几帳面そうな眉をしている。

昨日まで停車場での試験を遠巻きに見てはいたが、

自分の持ち場へ持ち込まれるとなると話は別らしい。


「やる」 匠一が答える。


「案内だけなら、私の声で足ります」

「足りるだろうな」

「では」

「歌便だからだ」

「……そこですか」


槙野は露骨に渋い顔をした。


「客はさまざまです。

夜勤明けで眠い者もいる。

商談前で静かに帳面を見たい者もいる。

子ども連れもいれば、景色を眺めたいだけの者もいる。

そこへ急に光が立って歌うとなれば、落ち着かん者も出るでしょう」

「だから試す」 匠一は短く返す。

「使えるかどうかは、使う場所で決まる」


槙野は何か言い返しかけ、結局飲み込んだ。

理屈として間違っていないことは分かっているのだろう。


その脇で、ダンはすでに簡易投影器の固定に悪戦苦闘していた。

停車場用の据え置きとは違う、小型化した試作器だ。

車端の荷棚下へ支柱を噛ませ、補助線を壁へ渡し、

振動を逃がすための革留めを何本も締め直している。


「停車場よりひでえ……」


半ばうめくように言って、ダンは工具をくわえ直した。

「揺れる前提で立たせろって、機械に喧嘩売ってんのか」

「売ってるんだろうな」 匠一が言う。

「お前がかよ」


セレネはそのやり取りを無視して手元の紙に視線を落としていた。

今日の試験項目、車内の時刻割、景勝区間、停車前案内、乗務員との連携手順。

紙にはびっしりと細字が並んでいる。


「本日の便は朝の中距離便。

混雑は中程度、家族連れと商用客が混在、途中に河岸の眺望区間あり」

セレネは読み上げる。

「試験の主眼は三点。

発車時挨拶、景観時の短歌、停車前案内です。

常時歌唱は行いません」

「最初から絞るのか」 匠一が問う。

「停車場と違って逃げ場がありません。全部盛りは反発を招きます」

「妥当だな」

「ええ。嫌われるには狭すぎます」


リョーカはその少し後ろで、車窓に映る自分の姿を見ていた。

今日は舞台衣装ではなく、柔らかな旅装に近い装いだ。

立つのは停車場の広間ではなく、人のすぐそば。

近くで見られる以上、華やかさより馴染みやすさが要る。


「ねえ」 リョーカが振り返る。

「今日は歌っていいんだよね」

「少しだけだ」 匠一が言う。

「案内の邪魔になるなら切る」

「容赦ないなあ」

「歌うために走ってるんじゃない。走るために歌うんだ」

「……それ、ちょっと面白い言い方」


けれどリョーカは真面目に頷いた。

分かっている。

ここは劇場ではない。

歌が許されるのは、旅を壊さない限りにおいてだ。


発車の鐘が鳴る。


乗客たちが車内へ流れ込み、座席が埋まっていく。

窓際で弁当包みを膝に置く老夫婦。

革鞄を足元へ立てる商人。

眠たげな目で母親の肩に寄りかかる子ども。

景色を見る気満々で窓を拭う若者。

車内はまだざわついていた。


匠一たちは先頭から二両目、歌便として使われる区画の後端へ控えた。

投影位置は通路中央ではなく、車端寄りの少し空いた場所。

近すぎれば圧迫感があり、遠すぎれば見えない。

そのぎりぎりを狙った位置だった。


「行きます」 セレネが告げる。


動力が低く唸り、車端の空間に淡い光が集まりはじめる。

乗客の何人かが気づいて顔を上げた。

昨日の停車場で見た者もいるのか、小さく「あ、あれだ」と囁く声がある。

だが車内では距離が近いぶん、驚きもまた生々しい。


光が形を取り、リョーカの像が静かに立つ。


男とも女ともつかぬやわらかな面差し。

淡く透ける輪郭。

窓から差し込む朝の光と重なり、まるで薄い朝靄がひとの姿を結んだように見えた。


「――おはようございます。本日も、歌便をご利用いただきありがとうございます」


声が車内へ落ちる。


停車場とは違う響きだった。

壁も天井も近く、音はすぐ返ってくる。

よく通る半面、近すぎると耳に触りやすい。

リョーカはそれを探るように、前日よりさらに声量を抑えていた。


車輪が最初のきしみを立て、列車がゆっくりと動き出す。

その瞬間、像が細かくぶれた。

肩口がふるえ、水面の映りのように輪郭が揺れる。


ダンが小さく舌打ちした。

「ほら来た」

「持ちますか」 研究員が囁く。

「持たせる」


車体が本格的に走り出すと、揺れは一定の刻みへ変わる。

停車場のような大きな振動ではないが、絶えず細かい震えが続く。

それが投影にはむしろ厄介だった。


「発車いたしました。

次の停車は、蘭渓。

お急ぎのご用がある方は、早めに乗務員へお声掛けください」


案内は短く、明確だった。

槙野が腕を組んだまま聞いている。

顔はまだ硬い。


最初の数刻は、あえて歌を入れなかった。

発車直後の車内は落ち着かない。

荷物を置き、席を整え、子どもを座らせ、水筒の栓を締める。

そんな細かな生活音が満ちている。

そこへ歌を重ねれば、歓迎される者もいれば、煩わしがる者もいるだろう。


リョーカはただ二、三度、必要な案内を短く落とした。


「通路の大きなお荷物は、足元へお寄せください」

「窓の開閉は、手元の留め具にご注意ください」

「揺れますので、お立ちの方はつり革か背もたれへ」


それだけでも、停車場とは違う難しさがあった。

車輪の音が低く鳴り続けるため、声の低い成分が埋もれやすい。

逆に張りすぎれば耳に刺さる。

リョーカは一言ごとに少しずつ高さを探っていた。


やがて乗客たちが席へ落ち着き、車内のざわめきがひと段落する。

窓の外には玄州の郊外が流れ始め、朝の田畑が細い水路を光らせていた。

列車が河岸沿いへ差しかかるころ、セレネが時計を見て匠一へ小さく頷く。


「景観区間です」


匠一はリョーカの像を見た。

無言の許可だった。


リョーカはひと呼吸置く。

それから、ほんの短く歌った。


長い楽節ではない。

車窓の流れに寄り添うような、二節だけのやわらかな旋律。

朝の川面と、橋脚の影と、旅のはじまりをなぞるような小さな歌。


車内の空気が、ふっと変わった。


弁当包みをほどこうとしていた婦人の手が止まる。

窓に頬を寄せていた子どもが目を見開く。

帳面をめくっていた商人が、苛立ちもせず、ただ一度だけ外を見る。


歌はすぐ終わった。

終わるからこそ、邪魔にならない。


そのあとリョーカは、歌の余韻を壊さぬ声で一言だけ添えた。


「右手に、河岸の朝景が見えます。どうぞ、ごゆっくり」


誰かが小さく息を吐いた。

感嘆とも、納得ともつかない声だった。


槙野が腕を組んだまま、ほんのわずかに眉を上げる。

まだ認めたわけではない。だが、否定もしづらくなっている。


しかし、うまくいくことばかりではない。


次の区間で子どもが泣き出した。

眠気と揺れと、見慣れぬ光への興奮が混ざったのだろう。

母親が慌てて抱き寄せるが、泣き声は車輪音を突き抜けて車内へ響く。


「歌、止めますか」 研究員が小声で言う。

「いや」 匠一は短く答えた。

「今は案内じゃない」


リョーカは泣き声の方を見た。

それから声量をさらに落とし、歌ではなく、ほとんど話しかけるような調子で言った。


「揺れますね。

でも、もうすぐ落ち着きますよ。

びっくりしましたね」


母親がはっとして顔を上げる。

子どもは泣きながらも、光の姿を見た。

高くも低くもない、やわらかな声が耳へ届く。


「お外に、きらきらした水が見えます。

あとで、もう少し大きな橋も渡りますよ」


子どもの泣き声が、一拍ぶん弱まる。

母親は恐縮したように頭を下げかけたが、リョーカはそれ以上そこへ触れず、

すっと視線を前へ戻した。

車内の他の客へ過剰な親密さを見せない、その加減もまた必要だった。


「……客あしらいまで」 槙野が低く呟く。

「舞台に立つ者は、人の気を読む」 匠一が答える。

「車掌も読むが」

「読む場所が違う」


槙野は鼻で息をつき、それ以上は言わなかった。


正午へ近づくにつれ、別の問題が顔を出した。

日が高くなると窓からの光が強まり、像の輪郭が薄くなるのだ。

特に窓際の席からは、肩先が白く飛んで見える。


「逆光だ」 ダンが苛立たしげに言う。

「停車場の蒸気よりたちが悪い」

「幕は使えません」 セレネが即答する。

「車窓を塞げば本末転倒です」

「分かってるよ」


ならば声で持たせるしかない。

リョーカは案内の頻度を少し落とし、姿より声へ比重を移していった。

無理に立ち続けて鬱陶しがられるより、必要な時だけ現れる方がいい。

その判断は、試すうち自然に共有されていく。


蘭渓が近づくころ、車内には再び人の動きが出た。

荷をまとめる者、網棚へ手を伸ばす者、眠そうに体を起こす者。

ここで案内が鈍ければ、停車のたびに小さな混乱が起きる。


リョーカの像が、通路脇にすっと濃くなる。


「まもなく、蘭渓です。

お降りの方は、お忘れ物にご注意ください。

お荷物は先に、お手元へ」


簡潔だった。

しかも、歌わない。

停車前に情緒は要らない――それをもうリョーカ自身が掴み始めていた。


降車の客が素直に立ち、混雑は最小限で収まる。

槙野がすぐさま扉側へ向かいながら、すれ違いざまに一言だけ投げた。


「今のは良い」


認めた、というには短い。

だが車掌が試験中にそう言うのは大きかった。


列車は再び走り出す。

発車後しばらくは静かにし、景色のよい場所では短く歌い、停車前には端的に告げる。

午後へ向かう数区間のうちに、その型が少しずつ固まっていった。


常に歌っていては、旅は散る。

常に案内していても、息が詰まる。

だが節目にだけ声が差し込まれると、人はそれを拒まず、むしろ旅の流れとして受け取る。


そのことを、車内にいる全員がうっすらと感じ始めていた。


終点へ近づくころには、朝の警戒感はかなり薄れていた。

弁当を食べ終えた老夫婦は「さっきの川の歌、よかったねえ」と小声で話し、

商人は最後まで帳面を手放さなかったが、景観区間では毎度一度だけ外を見た。

泣いていた子どもは途中から窓の外の橋を数え始め、

母親は幾度か安堵したように息をついていた。


終着前、最後の案内が入る。


「まもなく、終点です。本日のご乗車、ありがとうございました。

お降りの際は、足元とお忘れ物にご注意ください」


一拍置いて、リョーカはほんの半節だけ、帰着を告げるようにやさしく歌った。

長くはない。

長くしない。

それでちょうどよかった。


列車が止まる。

ブレーキのきしみとともに、客たちが立ち上がる。

荷を取り、衣を直し、順に扉へ向かう。

その誰もが光の像を見上げるわけではない。

けれど、不快そうな顔をした者もほとんどいなかった。


降車がひと段落したあと、槙野が戻ってきた。

帽子を取り、額の汗を拭ってから、投影器の唸りが止むのを待って口を開く。


「……思っていたより、ずっと静かでした」


ダンが眉を上げる。

「うるさいって言われると思ってたか」

「言われる要素はあった」 槙野は率直に答える。

「実際、歌が長ければ邪魔だったでしょう。

発車直後も同じです。

だが、景色のよいところで一節だけなら悪くない。

停車前に歌わなかったのも正しい」


セレネが手元へ記録を書き足す。

「朝便中距離。歌唱は節目限定。停車前は案内専念」

「夜便ではさらに減らすべきです」 槙野が続けた。

「眠る客が多い。逆に昼の観光便なら、景観案内を少し増やしてもいい」

「便ごとの運用分類が要るな」 匠一が言う。

「要ります」 セレネが即答する。

「朝便、昼便、夜便、混雑便、長距離便で分けます」


ダンは支柱を外しながら、大きく肩を回した。

「結局、歌いっぱなしじゃ駄目ってことだな」

「駄目というより」 リョーカが静かに言った。

「歌っていい時と、歌わない方がいい時があるんだと思う」

「同じことだろ」

「少し違うよ」


リョーカは窓の外を見た。

終点の向こう、さらに続く線路のきらめきが見える。


「歌はずっと鳴ってればいいわけじゃない。

旅のどこかで、少しだけ空気を整えられれば、それでいいんだ」


その言葉に、しばし誰も返さなかった。

だが否定する者もいない。


匠一は車内を見渡した。

今しがたまで人が座っていた席。

窓に残る手の跡。

網棚の揺れの余韻。

歌も案内も消えたあとに残る、旅の生活の気配。


停車場で立った光は、人の流れを整えることを覚えた。

そして今日、走る列車の中で、それは旅そのものに触れ始めた。


歌を押しつけるのではなく、

案内だけで乾かすのでもなく、

人が移動する時間の節目へ、必要なだけ差し込む。


それはまだ試験にすぎない。

像は揺れ、逆光には弱く、便ごとの調整もこれからだ。

けれど方向は見えた。


歌便とは何か。

ただ歌がある便ではない。

旅の空気を整え、必要な言葉を適切な時に届ける便だ。


車外では次の乗客たちが集まり始めていた。

終わったばかりの試験は、すぐ次の運用へ呑み込まれていく。

だがそれでよかった。

現場に呑まれ、磨かれ、残る形だけが本物になる。


匠一は短く言った。


「次は夕方便だな」


ダンが顔をしかめる。

「まだやるのかよ」

「夜の方が難しい」 セレネが当然のように言う。

「休息優先、歌は最少、案内は低刺激。別物です」

「……ほんとに容赦ねえな、この国」


ぼやくダンの横で、リョーカは小さく笑った。

その笑いは疲れていたが、どこか晴れてもいた。


歌は舞台の上だけのものではないのかもしれない。

旅の途中、誰かの肩の力を少し抜き、景色へ目を向けさせ、

降りるべき場所をやさしく知らせる。

そんなふうに働く歌があってもいい。


玄州から伸びる鉄路の上で、その可能性が、今日ひとつ確かめられた。

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