初通し前夜
見難い火傷の子628
初通し前夜
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
試験線接続まで七日と言われてから、現場は目に見えて口数が減った。
工事が遅れている時の沈黙とは違う。
追いつけるかもしれない時の沈黙だった。
余計なことを言えば崩れるような、薄い均衡の上に皆が乗っている。
迂回区間では、保存区画の白札の横をかすめるようにして床付けが進み、
砕石が敷かれ、受け木が据えられ、仮設軌条が少しずつ前へ伸びていった。
槌音は絶えなかった。
昼も、夕も、夜番に入ってからも。
支保工を打つ音。
犬釘を締める音。
砕石を均す音。
作業外骨格の支持架が軋む音。
それらが坑内に重なり、地下そのものが鉄を待っているように響いた。
保存区画の前だけは、相変わらず静かだった。
柵と布札の向こうに、石窯と石の寝台と、踏み固められた床が眠っている。
記録局の役人は日に何度か見回りに来て、覆いの具合や湿り気を確かめ、
帳面に何かを書きつけて帰っていく。
工務の者たちはそれを横目で見ながら、何も言わずに線路を敷いた。
四日目の夕方、最初の継ぎ目が繋がった。
南側坑道から延ばしてきた仮設軌条と、十七エリア側で組んでいた新設区間の先端が、
ようやく同じ高さに揃ったのである。
工務主任が腹這いになって継ぎ目を覗き込み、定規を当て、もう一度覗き込んだ。
その周りに、監督も測量手も、帝都人夫の頭も、ノクス隊員も、無言で集まっていた。
「……まだだな」
主任が言った。
誰も落胆はしなかった。
まだだろうと思っていたからだ。
左がわずかに高い。
受け木を一枚削り、砕石を詰め直し、犬釘を打ち直す。
それだけで半日が消える。
だが、半日で済むなら安いものだった。
五日目の昼、二度目の合わせで、主任はようやく頷いた。
「通せます」
その一言は小さかったが、現場の空気を変えるには十分だった。
通せる。
まだ本格運行ではない。
低速の試験だ。
荷も客も乗せない。
それでも、機関車が一両、この地下を自力で抜けることができる。
「いつだ」
匠一が問う。
「明後日の朝。夜のうちに最終締めをやります」
「保安確認は」
「今夜から順に」
「保存区画の振動は」
「記録局と立ち会いで見ます」
匠一は短く頷いた。
それで十分だった。
その夜から、現場は工事場というより検査場に近くなった。
継ぎ目を叩いて音を聞く者。
犬釘の浮きを指で確かめる者。
支保工の締まりを見て回る者。
保存区画の柵に手を当て、振れを確かめる記録局の役人。
祭祀役まで一度だけ顔を出し、何事か小さく唱えて去っていった。
帝都人夫たちは、そういう時だけ妙に静かになる。
掘る時のような勢いはない。
代わりに、誰もが自分の足元をよく見る。
一本の釘、ひとつの継ぎ目、半寸の狂いが、明日の成否を決めると分かっているからだった。
夜半、工務主任が最後の見回りを終えて戻ってきた時には、提灯の火もだいぶ少なくなっていた。
「どうだ」
監督が訊く。
「通すだけなら問題ありません」
「通すだけ、か」
「試験ですからな」
主任はそう言ってから、少しだけ笑った。
その笑いには疲れがあったが、諦めはなかった。
翌朝は、まだ空の白まぬうちから人が集まり始めた。
囲いの外には見物人が増え、柵の向こうで背伸びをしている。
地下鉄工事が止まっただの、遺跡が出ただの、
線路を曲げただのという噂は、帝都の中を十分に回っていた。
そのうえ今日は、試験機関車が通るかもしれない日なのだ。
坑内では、いつもより道具の音が少なかった。
必要な作業はもう終わっている。
残るのは確認と待機だけだ。
保存区画の柵は増し締めされ、布札も新しいものに替えられていた。
仮設軌条の継ぎ目には白墨で印が打たれ、支保工の要所には見張りが立つ。
やがて、南側坑道の奥から、低い金属音が響いてきた。
誰かが息を呑む。
別の誰かが、無意識に帽子を取り直す。
音はまだ遠い。
だが、確かに鉄の音だった。
押しているのではない。
引いているのでもない。
機関の重みを持った、前へ来る音だった。
「来るぞ」
工務主任が言う。
その声は抑えていたが、抑えきれてはいなかった。
暗がりの向こうに、やがて灯がひとつ見えた。
次いで、黒い鉄の輪郭が浮かぶ。
試験用の小型機関車だった。
装飾もなく、塗りも簡素で、実用一点張りの姿をしている。
だがその無骨さが、かえってこの地下には似合っていた。
速度は遅い。
歩くより少し速い程度だ。
それでも、誰もがその一輪一輪を見ていた。
継ぎ目を越えるたび、受け木がわずかに鳴る。
砕石が沈む。
支保工は持ちこたえる。
保存区画の柵も、布札も、揺れはするが乱れない。
機関車は止まらなかった。
迂回区間へ入る。
保存区画の脇を、わずかに東へ膨らんだ不格好な線形に沿って、黒い鉄の塊がゆっくりと進む。
石窯と寝台の眠る覆いの横を、別の時代の火と鉄が通っていく。
誰も声を上げなかった。
上げられなかった、というほうが近い。
まだ終わっていない。
最後まで抜けるまでは、何ひとつ済んでいない。
機関車はさらに進む。
継ぎ目を越える。
支保の下を抜ける。
新しく組んだ区間を、沈みも跳ねもなく渡っていく。
工務主任が、ようやく息を吐いた。
「通ったな」
その言葉とほとんど同時に、機関車の最後尾が接続点を抜けた。
一拍遅れて、現場のあちこちで息が漏れた。
歓声ではない。
だが、張りつめていたものが一斉にほどける音だった。
帝都人夫の頭が顔をしかめたまま笑い、測量手が帽子のつばを押さえ、
ノクス隊員が無言で肩の力を抜く。
監督は腕を組んだまま、ただ一度だけ深く頷いた。
匠一は保存区画のほうを見、それから通り過ぎた機関車の後ろ姿を見た。
地の下にも先客がいた。
そのことを知ったうえで、なお鉄を通した。
壊さず、避け、曲げ、それでも前へ出した。
それが今日ここで成ったことだった。
囲いの外では、遅れてざわめきが広がっていた。
通った。
本当に通った。
その言葉が柵の向こうで波のように伝わっていく。
工務主任が帳面を閉じる。
「試験線、接続確認完了」
「次は」
「補修と再確認です。仕事は減りませんな」
「そうだろうな」
匠一はそう答え、わずかに口元を緩めた。
地下鉄はまだ完成していない。
駅も、設備も、先の工区も残っている。
だが今日、少なくともこの地下で、鉄は一度つながった。
過去の痕跡を残したまま、その脇を未来が通る。
試験線は、そういう形で初めて生きたのだった。




