バビロンの福音漏れ(渇きの路地裏)
見難い火傷の子184
バビロンの福音漏れ(渇きの路地裏)
――青銅の時代。
深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世エリア。
この地では、生物すべてが八倍サイズで存在する。
――バビロンの喧騒が、遠く聞こえる。
青銅の門をくぐり、香辛料と熱気が渦巻く大通りを外れ、幾重にも折れ曲がった路地を奥へ、さらに奥へ。
そこは、陽光さえも届かぬ、湿った影の領域だった。
「万民の都」の光が、決して届かない場所。
そこには、剥き出しの土と、打ち捨てられた青銅の欠片、そして、泥にまみれた子供たちがいた。
親を亡くし、家を無くし、名前さえも持たない孤児たち。
彼らは、バビロンの「制度の隙間」さえからも、こぼれ落ちた存在だった。
「……今日、水、来なかったね」
掠れた声が、闇に溶ける。
まだ幼い少女、ウル。彼女の瞳には、かつて見たユーフラテスの青ではなく、底なしの渇きが宿っていた。
「昨日も、その前も」
隣に座る、少し背の高い少年、ジンが応える。
彼の腕には、かつて親が遺したであろう、古びた印章が、泥にまみれてぶら下がっていた。
彼らにとって、水路はただの、干上がった泥の溝でしかなかった。
大通りで兵士が叫ぶ「配給は終わった!」という声は、彼らにとっては、死の宣告に等しかった。
「万民の都……」
ウルが、建国の碑に刻まれた言葉を呟く。
「私たち、万民じゃないのかな」
ジンは、ウルを抱き寄せた。彼の体も、渇きで限界に達していた。
「……分からない。でも、水は、どこかにあるはずだ」
その時。
路地の奥から、帳面をめくるような、奇妙な音が聞こえた。
サラ……サラ……
音は、徐々に近づいてくる。
暗闇の中から、輪郭さえも定かではない、影のような存在が、姿を現した。
それは、人の形をしていたが、人ではなかった。
顔はなく、全身が、無数の、文字が書かれた紙片で構成されているかのように、絶えず揺らめいていた。
「渇きを……渇きを……」
影が、言葉を紡ぐ。声は、掠れ、何重にも重なり合って、鼓膜にへばりつく。
それは、都市機能そのものに寄生する敵、
「渇きの公証人」の、さらに奥底、バビロンの「影」に生まれた、新たな脅威だった。
影が、ウルとジンに近づく。
「お前たち……名を持たぬ者……」
ジンは、ウルを守るように立ち上がった。泥にまみれた印章を、影に向かって突き出す。
「……来るな!私たちは、バビロン人だ!」
影は、嘲笑うかのように、帳面をめくる音を大きくした。
「……バビロン人?……市民簿に、名はない……」
影の体が、無数の、白い紙片に分離し、ジンとウルの周りを、渦巻き始めた。
紙片には、バビロンの言葉で、無数の「資格」が書かれていた。
【市民】【客人】【冒険者】【兵士】……
そして、ジンとウルの足元に、新たな、白い紙片が、置かれた。
【孤児】
影の声が、紙片から響く。
「……孤児……名を持たぬ者……水配給対象外……」
その瞬間。
ジンとウルは、自分たちの体が、さらに、都市から「切り離されていく」ような、感覚に襲われた。
渇きが、一層、激しくなる。
世界が、白黒の、紙片の世界へと、変貌していく。
ウルが、悲鳴を上げる。
「……嫌だ!渇く!渇く!」
ジンは、必死に、ウルを抱きしめる。
「……ウル!ウル!」
影は、ジンとウルの、都市からの「断絶」を、公証するように、帳面を、強く、めくった。
パタン。
ジンとウルは、暗闇の中で、静かに、倒れ込んだ。
彼らの体は、白い紙片に、覆われていた。
そこに書かれた【孤児】という文字が、薄く、光っていた。
紙片に小さく刻まれた条文番号「王令第十二条」と…
――バビロンの喧騒は、まだ、遠く聞こえる。
だが、その音は、彼らの元には、決して、届かない。
彼らは、バビロンの「万民」から、完全に、消し去られた。
ゴミと呼ばれた子。
社会から排除された存在だった。
バビロン人として与えられる配給さえ届かない。
「おい、“ゴミ”」
誰かが呼ぶ。
少年は反応する。
それが自分の呼び名だからだ。
アオは眉をひそめた。
「それ、名前じゃないだろ」
少年が顔を上げる。
「じゃあ……なんて呼べばいい?」
少し考えて、アオは笑った。
「軽くて、覚えやすくて、呼びやすいのがいいな」
「――リフ」
「え?」
「風みたいに、どこでも行けるやつ」
少年は、何度か口の中で転がす。
「……リフ」
それは初めて、自分で選んだ音だった。
「リフ、こっち来い」
呼ばれて、少年が振り向く。
一瞬だけ遅れて――笑った。
集まってくる孤児達。
アオが名前を与える。
爆炎先生「いいやり方だ。ああいうのはな、剣より効くぞ。」
リフ達が配給の列に並んだ。
水が差し出される。
リフは、動かなかった。
目の前にあるのに、信じられない。
「……飲め」
アオが言う。
震える手で、器を受け取る。
一口。
――止まる。
もう一口。
喉が、音を立てた。
「……水だ」
それは、当たり前のはずの言葉だった。
だが、リフにとっては――
初めての現実だった。
“水を飲めるようになる瞬間”となった。
その器には、水だけじゃなく――“名前”が満ちていた。
――配給所の台帳。タリアが新しい頁を開く。
欄外に小さく書き添えるのは、「王令第十二条(追記):氏名は自己申告により仮登録可」。
印は例の“少し曲がった”印章。ヨイショが肩をすくめる。「威厳がない方が、押しやすいだろ」
リフが器を空にしたとき、彼の足元の紙片が、かさりと音を立てて捲れる。
そこにはもうだけじゃない。
紙片は白から薄い青に変わり、裏に小さな風の記号が浮かぶ。
影――渇きの公証人の成れの果て――は帳面を閉じようとして、指先が滑る。
紙が増えすぎて、綴じられない。
リーダー「配り終わり、の宣言はなしだ。今日は“配り続ける”日だ」
列の後ろで、ウルが小声で練習する。
「……リフ。リフ!」呼ぶたびに、乾いた路地の土がほんの少しだけ色を取り戻す気がした。
青銅の門の喧騒は遠いまま。でも、ここにもう“万民”の端っこが確かにある。




